科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

実在への問いかけ――量子力学をめぐる哲学的対話と哲人たち

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実在への問いかけ――量子力学をめぐる哲学的対話と哲人たち

ただ充実だけが明晰さに導く。そして真実は深奥に宿る。

(F.シラー「孔子のことわざ」より)

Nur die Fülle führt zur Klarheit
Und im Abgrund wohnt die Wahrheit

F.Schiller, Sprüche des Konfunzius

第11号では、杉尾一先生に「語り得ぬ在り方」と題する哲学エッセイを書き下ろしていただきました。冒頭に掲げた詩句は、杉尾先生のエッセイにも登場するニールス・ボーアが生前によく好んで口ずさんでいたという、ドイツの詩人フリードリッヒ・シラーの詩の一節です。

量子力学を学んだことのある人ならば、必ずや疑問に感じるであろう問題――それが、杉尾先生がわかりやすく綴ってくださったエッセイのテーマであり、一言でいうならば「物理的対象についての存在と認識の問題」です。杉尾先生の別の言葉でいうならば、「私が見る世界」と「私を包み込む世界」についての問題、といえます。

詳細はエッセイを読んでいただきたいのですが、量子力学の黎明期、目に見えない極微の世界に敢然と挑んだボーアやハイゼンベルクといった先人たちと似たように、一つひとつの思考過程をじっくり辿りながら、杉尾先生がエッセイの中で論理を積み立てていく様は、難解というよりむしろ清々しい爽快さを感じさせます。おそらく、語りかけるような杉尾先生の思考のテンポが、読者をそういった状態に誘うのでしょう。雨宿りにカフェに入って考える、というフィクション仕立ての設定もよいのかもしれません。

この項の本題は、杉尾先生のエッセイの姉妹編ともいえる論考と関連書籍の紹介です。その姉妹編とは、昨年(2018年)9月にやまなみ書房から刊行されたジャーナル『Journal of Science and Philosophy』(JSP)の第1巻1号に掲載されたもので、タイトルは「物理的“実在”についての哲学的試論」です。(

この論考で杉尾先生は、量子力学の哲学的問題について論争したアインシュタインとボーアの話を引き合いに、アインシュタインの有名なEPR論文と、ボーアによって提唱されたコペンハーゲン解釈についての重要な指摘をしています。それぞれの要点や背景についても、上の論考で解説してありますので是非読んでみてください。そして更に、小誌のエッセイの肝でもある「実在の意味理解」について、カント哲学を踏まえた結論を提示して締め括られています。

論考の中で、ボーアが物理学者というよりは哲学者のような人物だったことにも触れられていますが、このことは、小誌で何度かご執筆いただいている亀淵進先生の話からもよく理解できます。亀淵先生は、ボーアが当時71~73歳だった頃に、コペンハーゲン大学の理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)で直に会われています。そのときの様子や、亀淵先生が看取されたボーアという人物像については、「人間ボーア」と題した名品として残されています。

この随想は、昨年(2018年)12月に日本評論社から刊行された『素粒子論の始まり―湯川・朝永・坂田を中心に』に収載されていますので、こちらも是非ご覧になってみてください。人間ボーアを手・口・頭・心の4つの角度から照らし出し、「余は如何にしてボーア信徒となりし乎」と内村鑑三風に、真率な態度で筆をとられた亀淵先生の告白的心情がじわじわと伝わってきます。この本では、そのほかの亀淵先生の珠玉のエッセイも読むことができますので、兎に角お勧めします。

ボーアと同じように、ヨーロッパでは哲学者としても紹介されているハイゼンベルクは、プラトン哲学に終生ひかれていました。二人を哲学者とするなら、ボーアはソクラテスで、ハイゼンベルクはプラトンだ、と見事に言い当てたのは湯川秀樹先生ですが、その湯川先生がこのことを序文に書いたハイゼンベルクの『部分と全体』(山崎和夫訳、みすず書房)もまた、上の杉尾先生のエッセイの補足をする重要書籍としてここに挙げておきたいと思います。

この序文で湯川先生は、「ボーアが時折り発する名言には、東洋の哲人のことばの響きが感じられる。」と指摘されています。冒頭に掲げた言葉も、まさにその源になるものだと思います。

杉尾先生のエッセイの結びには次のような文章があります。

私たちが電子と呼ぶ何かは在るが、それは本当のところどのようなものか。私たちは言葉の限りを尽くして説明するが、その説明は私たちの言葉に制限される。そして、私たちが言葉の範囲を越えようとしたとき、言葉を失い、意味も消失する。私たちには、語り得ぬ在り方で存在するのだ。

ここに、『部分と全体』に出てくるハイゼンベルクとボーアの言葉を添えてみましょう。

そこで私はボーアに尋ねた。

「もしも原子の内部の構造が直観的な記述では、そんなに近づきがたく、あなたが言われるように、そもそもそれについての言葉も持ち合わせていないのならば、いったいわれわれはいつの日に原子を理解できるようになるのでしょうか?」

ボーアは一瞬、沈黙したがやがて言った。

「いやいやどうして、そう悲観的でもないよ。われわれは、その時こそ“理解する”という言葉の意味もはじめて同時に学ぶでしょうよ。」

(「現代物理学における“理解する”という概念」より)

真理は深淵に住む――。その住処を探し出す旅はいまも、そしてこれからも、私たちが生きる限りずっと続きます。

存在と認識をめぐる話は、今後もこの備忘録でテーマを変えながら取りあげていきたいと思います。

 

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