科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

森鴎外の「かのように」と渡辺慧の「醜いアヒルの仔の定理」

  • HOME »
  • 森鴎外の「かのように」と渡辺慧の「醜いアヒルの仔の定理」

森鴎外の「かのように」と渡辺慧の「醜いアヒルの仔の定理」

第6号の村上陽一郎先生の巻頭言では、森鴎外の小説「かのように」を引き合いに物理学者 渡辺慧の「パターン認識」の仕事について、その代表例でもある「醜いアヒルの仔の定理」を紹介・解説していただきました。これについて関連事項を以下に案内したいと思います。

まず、鴎外の「かのように」は新潮文庫『阿部一族・舞姫』で読むこともできますが、初出は明治45年1月1日『中央公論』で、その後に同じ“秀麿もの”として書かれた「吃逆」(しゃっくり)(明治45年5月1日『中央公論』)や「藤棚」(明治45年6月15日『太陽』)、「鎚一下」(つちいっか)(大正2年7月1日『中央公論』)といった作品群と合わせてまとめられ、大正3年4月に籾山書店から森林太郎の名で『かのやうに』として刊行されました。

「鎚一下」は『中央公論』発表時は秀麿ものではなく、主人公の「己(おれ)」の生活と見聞で完結していましたが、『かのやうに』に収録の際、冒頭部分が五条秀麿の見聞として追加されたという背景があるようです。確かにこの作品だけは、その前までの「吃逆」「藤棚」の発表から時間的に少し間があいて発表されています。

この“秀麿もの”としてまとめられた籾山書店刊の『かのやうに』は、国会図書館デジタルコレクションでも読むことができますので、参考までにリンクを貼っておきます。(

一方の、渡辺慧の「醜いアヒルの仔の定理」ですが、これは湯川秀樹との対談「まとめるということ」(1973年8月)において、本人による分かりやすい説明があるので、少々長くなりますが部分的に抜粋して引用紹介します。

渡辺:(前文略)二つの物がある。完全に同じものではなくてちょっとちがうものです。それからこっちにこういうものがある。二羽の白鳥と一羽のあひるでもよい。この三つを二つずつとって、それら一対に同じ形容詞が幾つあてはまるかをしらべます。たとえば長さが二〇センチ以上あるかどうか、目方が一キロと二キロの間であるかどうかとか色々性質があるわけです。その形容詞を幾つ分け合っているか、分け合っている形容詞を数えあげるんですよ。全体の使ってもいい形容詞をきめておきまして、それらの論理的な組み合わせも作って二つの物が共通に持っている性質の数を勘定しますと、驚くなかれ、それがどんな二つのものでも同じなんですよ。うそみたいな話ですけれども、ほんとうなんです。

湯川:ちょっと待ってください。幾つかの形容詞が与えてあるわけですね。

渡辺:たとえば目方が一〇グラム以上とか、長さが何センチ以上とか、白いとか、いくらもあるわけです。それからそれらの論理的な組合せも一つの形容詞として勘定に入れます。たとえば「白くはなくて目方が一〇グラム以上であるか或いは長さが何センチ以上」という様な複合した形容詞も一つの形容詞として数えます。形容詞のなかに三個の物を区別できる形容詞も一つ入れておかなければならない。それは約束です。使っている形容詞で区別がつかなくて同じになっては困るから、三個のものがちがうということがわかる様な形容詞も入れておきます。そうすると、二つの白鳥の子という一組と、一つのアヒルの子と一つの白鳥の組とを取り上げて、その一組の物がどれだけ形容詞を分け合っているかと調べてみます。すると結果はまったく同じなんですよ、それは不思議なんですが……。それを証明することが出来るのです。数学的には大した定理ではないが、意味は面白いと思います。

どういうことかといいますと、普通これとこれとが似ているというのは、この二つの物が共通にもっている性質の数が多いということだと考えられています。ところがどの二つのものでも共通にもっている性質の数が同じだということになると類似性の根拠がなくなります。したがって、似たものの群とかクラスとかいうものにも意味がなくなります。併し一方に於て似たものの類とか群とかがあることを知って居ります。それでは似たものとはどういうことかというと、それは共通の性質の数ではなくて「重要」な性質の共通なものの数が多いということでなければなりません。重要な形容詞だけに限って数えれば似ているということは共通な性質の数が多いといってよいでしょう。だから、似ているということは形容詞の重要性に依存する。形容詞の重要性はどこからくるかというと、何の目的に分類を使うかということに依存している。そこで分類は価値判断に依存するという重要な結論が出て来ます。簡単にいいますと、クジラとイワシとゾウがいたときに、クジラとゾウを同じクラスに入れなければいけないと動物学者はいうけれども、それは動物学をつくるのに便利なだけの話で、産業を分類するのに、なにもそうしなきゃいけないわけではない。分類の目的が産業の分類であったならイワシとクジラをいっしょにしておいてもなにも悪いわけじゃないでしょう。そういうことで、分類というのは、結局どういう形容詞を重要視しているかということできまる。そこで重要性というのは結局どこからくるかというと、何の目的にその分類を使うかということによってきまってくる。それをわれわれは知っていればこそ、それをコンピューターに教えてやって見掛けの上ではコンピューターがやった様にいうのです。

湯川:なるほど。

渡辺:そこでおもしろくなってきまして、あひるの定理からの結論として、パターン認識というのは、われわれの価値判断に依存しているということを、ぼくのパターン認識の講義の第一課とするようになりました。

この話に続いて、湯川先生が「知的創造の基本」に関する話を展開されており、興味深い内容なのでこれも紹介しておきます。

湯川:それはそうですね。それで私の考えていることと逆のようで、実は重なってくるんですけれども、創造性、クリエイティブというようなことを、私はだいぶん以前からいろいろと議論しているんだけれども、そのなかでアイデンティフィケーション、同定ということが一つの中心概念になると私は思っているんです。いまのお話とちょうど裏返しなんですけれども、ちがうものを同じものと思うというのが同定で、そこに知的創造の基本があるというわけです。たとえば私がひじょうによく引用する例は、ニュートンが、リンゴが落ちる、しかしお月さんは落ちてこない、それはなぜかということを考えたということです。それは伝説であるにせよ、大変よくできた話ですね。その場合にリンゴと月の両者に共通するもの、つまりアイデンティファイさるべきものは何かということで、ニュートンが到達したのは、万有引力は共通している、それから運動法則は共通しているということですね。そういうひじょうに高度のアイデンティフィケーションに到達する。彼より前の人の考える同定の仕方は、それとはまったく違っていた。リンゴは落ちる、お月さんは落ちてこない。リンゴはここにあって、お月さんは遠いところにある。すべてちがう。ただ似ているのは丸いことくらいですね。しかし丸いということを重要視しても、どうにもならぬ……。ですから、いまおっしゃったことを裏返しにして……。

渡辺:まったく同じことなんです。普通の人では見えないところに似ているものをみつけている。「引力で引かれている」という性質に重要性を与えれば月もリンゴも類似してくる。普通の人が重要性を与えないところに重要性を与えたわけです。類似性の見えないものに類似性を与えるということが出来るのは全く「アヒルの定理」のお蔭です。まったく同じことです。

アヒルの仔の定理から物理法則の発見や創造性にまで話が拡がりましたが、さらに二人の話は“パターン認識”についても議論されます。

渡辺:(前文略)パターン認識というのは、たとえばお母さんが子どもにイヌを教えるのに、「これイヌですよ、これイヌですよ、これサルですよ、これイヌですよ」と三回か四回やれば、それでいいんですね。子どもの頭のなかに実際のイヌが残っている。イヌというのは四つ足の動物で哺乳動物で何とかかんとかと、そんなことを覚えているんじゃなくて。実例のイヌ、又はその感覚的印象が全部頭にちゃんと残っている。いや頭の中といっては間違いで感覚器官を含めた体全体に残っているといった方がよい。それがなにか抽象シンボルとは全然違うような働き方をしているわけですね。そういうものがあるからパターン認識ができる。(以下略)

(途中談話略)

湯川:(前文略)私たちは写真機じゃないけれども、写真をとっているようなものですね。それでいろんな人の顔が記憶として残ってる。それは写真をとって置くようなものです。それをまた次にとった写真とくらべて見て、モンタージュしていちばんそれらしいものに修整する。人の顔など十年たったらだいぶん変わっているけれども、やはり前の顔と似ておりますから、それと同定する。しかし、同時に、いまのがいまだ、前のものは前だということも知っている。だから、現実に写真はとらないけれども、写真をとるのに近いことをやっているので、コンピューターにむちゃくちゃに写真をとらせたらどうですか。

(途中談話略)

渡辺:(前文略)写真と写真が似ているというときに実はさっきの論理的な不決定性がまだはいってくる筈です。それでさっきの価値観念が入ってくる。似ているというのが、機械だけで自動的に決定されるとはいえますまい。それは人間が生きているからできるので、コンピューター自身では論理的不決定を押し切れない。

湯川:そうですね。人間のパターン認識というのは不思議でして、新聞なんかに非常に小さく誰かの顔が写真の中に出ていても、それで誰かわかる。わりあい有名な人であれば、ひじょうに小さい写真でもわかる。なんでわかるのか、度々その人の顔の実物や写真を見てるからに違いないが、やはり不思議ですね。その人の特徴は何ですかと聞かれても全然答えられないのにね。

渡辺:それはなかなかむつかしいけれど第一に機械にどう価値観念をもたせるか。人間が教えたら、これはおもしろくないです。それはきまっちゃうから……。コンピューター自身で自身の生存との関連において価値観念を作り出して、それから類似性を生みださなければ本当でないと思います。そうすると、やはりコンピューターに生物なみのからだをもたせて、生物の生存本能を受けつがさなきゃだめだろうということになってくる。それはなかなか大問題になります。

(以上、『湯川秀樹著作集別巻 対談』(岩波書店)より)

ここまで来ると、村上先生が巻頭で示唆されている現在のAIブームへも一石を投じる内容で、倫理的な問題も大きく関係してきますが、朝永振一郎の座談「人工頭脳をつくることはできるか」(朝永振一郎・山内恭彦・杉田元宜・茅野健・高橋秀俊・富山小太郎、1960年11月24日、『科学と技術の広場』第2号1961年掲載)の中で、上の渡辺先生の話されたことと同様な問題を朝永先生も言及されているので、断片的ですがいくつか紹介しておきます。

「いまに人間のように働く機械が出来たらどうなるか。」

「やっぱり猫も生き物なんで、猫が生きているということについてやはり人間として甚大な考慮を払わなけりゃならないと思うんです。機械については人間が作ったものであるから、そこまで考慮するかどうかはまた別問題だ。とにかく生き物であるということで人間について最も重要な関係があるのですけれど……生きるということに対する価値の問題ですね。人間は電子機械と同じなんだから、いったん電子機械が出来たら人間は消えてしまってもいい、とそういう考え方をしていいかどうか。これが人間として非常に重要な問題だと思うんですね。」

「意識の問題が計算機の話に出たけれど、人工内臓ね、それだってまだまだ受け入れられてないけど……。あれはいつになったら進歩するか? 計算機だって十年たてばずいぶん進歩するでしょうけれど、人工内臓だったら十年のうちどれだけ進歩するか? 進歩はしますけれどね、ずいぶん遠いでしょう?」

「われわれが生きているうちに生物をつくるなんてことはまあ思っていない。ただこの問題は、原理的にいって、生物は機械と同じであるかどうかということを知りたいということだと思うんです。この、知りたいのは単なる好奇心じゃなく、やっぱり人間の尊厳というか何とかいう問題に関係して……。」

(以上、『朝永振一郎著作集別巻1 学問をする姿勢』(みすず書房)より)

第6号で掲載した朝永先生の随筆「鳥獣戯画」は、生き物をどう見るかというスタンス、すなわち上の言葉にある“生きるということに対する価値の問題”を、朝永先生ならではの優しい眼差しでとらえ、綴った作品であり、より強くこれらの言葉に重みを加えていると思います。同号で執筆いただいたご長男の惇さんが、「昨今の状況を知ったら、どう思うであろうか。」と書かれていることとも交響してきます。

ここまで、だいぶ長くなってしまいましたが、最後に“パターン認識は価値観念に依存している”という「醜いアヒルの仔の定理」の結論を、鴎外の分身でもある「かのように」の五条秀麿の言葉でまとめ直して結びとします。

君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。

 

備忘録indexへ

 

PAGETOP
Copyright © 窮理舎 All Rights Reserved.