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花を捨てて根を移す、ケーベル先生の「Festina lente」

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花を捨てて根を移す、ケーベル先生の「Festina lente」

日本の国民的花は、堅い、硬(こわ)ばった、魂なき、萎(しぼ)むを知らざる菊ではない、絹のように柔らかなる、華奢なる、芳香馥郁(ふくいく)たる短命な桜花こそ実にその象徴である。日本人はこの美しき花の束の間に萎みそうして散りゆくその中に、わが生の無常迅速の譬喩と、わが美と青春の果敢(はか)なきを見るのである。

(『ケーベル博士随筆集』久保勉訳編、岩波文庫より)

まるで古代ギリシアの哲人のような人格を備えた人。それが、表題のケーベル先生こと、ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber)博士です。冒頭に紹介したケーベル先生の随筆集からの抜粋は、日本人という民族を見事に言い表した文章だと思います。この文章がどのような意味を帯びてくるかについては後述します。

第13号と第14号では、山崎和夫先生にハイゼンベルク先生や湯川秀樹先生をはじめとする現代物理学の泰斗たちとの思い出を、前後二編にわたって綴っていただきました。とくに、14号の編集後記で紹介した、山崎先生の御尊父の田中秀央(ひでなか)先生とケーベル先生の出会いについて、そしてケーベル先生とはどんな人物だったのか、本項で少し案内できればと思います。

田中秀央先生本まず、田中秀央先生を知っていただくのに良い書籍があるので紹介しておきます。京都大学出版会から2005年に刊行された『田中秀央 近代西洋学の黎明―『憶い出の記』を中心に』です。この本には、田中先生の自叙伝『憶い出の記』を中心に、親交のあった人たちの回想文や書簡(西田幾多郎や田辺元、朝永三十郎、新村出など多数)などが多く収められており、近代日本の知のネットワークがどのような繋がりで作られていたかを知ることができます。その軸となる一人が、まさにケーベル先生でした。

日本人初の西洋古典語学者となった田中先生は、三高時代にドイツ語を教わっていた榊亮三郎先生との出会いがきっかけでその道への進路を決められました。当時、西洋古典をやるには東京帝国大学で教鞭をとっていたケーベル先生の下にいくしかない事を知った田中先生は、京都から東京へと居を移し、ケーベル先生の人柄にもひかれながら、西洋古典の深山へと入っていきました。(当時の東京帝大には英語講師だった夏目金之助もいました。)

苦学生だった田中先生は、ケーベル先生の下で学ぶ傍ら、中学校の英語の教師もかけ持ちですれば生活してゆける、とその許可をケーベル先生に乞うと、「君に中学校の先生はさせたくない」と30円を工面してくれたと言います。(ケーベル先生は元々金銭面には淡泊で、自らの仕事を金に換算するということに興味もなく、車夫が給金を持ち逃げしても咎めることもしなかった、というエピソードがあります。そこから想像しても、ギリシアの哲人がぴったり当てはまる人物ではないでしょうか。)

そうして、田中先生とケーベル先生の二人の師弟関係が始まっていきます。ここからは田中先生の文章を引用しましょう。

ケーベル先生の第一印象は見るからに温和な人をひきつける美しい先生であった。この先生を見るために約20名もの多くの学生がギリシア語の組に来たものと思う。それで日が経ち寒くなると共に一人減り二人減りして、12月頃には数人になった。(中略)私は一人となった。これは明治40年11月頃のことである。それからいよいよ教室で師一人に弟子一人という、まことに贅沢ではあるが、そこに力の湧いて来る授業や人格形成が始まった。

ある時は、神田駿河台のケーベル先生邸へ夕食に招待され、学習のノウハウだけでなく、ゲーテをはじめとする人生の箴言も授かりました。その中の一つが、表題ラテン語の「Festina lente」(ゆっくり急げ、急がば回れ)でした。田中先生の「小生のせっかち」をよく知っていたケーベル先生からのその言葉は、人生を貫く座右の銘となり、それはご子息の山崎和夫先生にも伝えられました。そのほか、ケーベル先生からいただいた書物やベッド、洋服、小物類などについても田中先生は述懐されており、「度々先生の御宅で夕食をいただいたが、必ず何か無形のよいものを戴いた。」と言います。“無形のよいもの”という所に、師弟間に隠された奥深さを感じます。

そのようなケーベル先生とは一体どんな人物だったのでしょうか。調べれば調べるほど、近代日本の知の形成にとっていかに偉大な存在であったかが分かります。

ケーベル先生はロシア生まれのドイツ系ロシア人で、モスクワの高等音楽学校でピアノをルービンシュタインに、作曲をチャイコフスキーに学びましたが、卒業後、志望転換し哲学の道に入りました。学位論文はショーペンハウアーに関するもので、著書の中にも『ショーペンハウアーの解脱論』や『ショーペンハウアーの哲学』があるほど、ショーペンハウアーへの傾倒は深かったようです。

音楽に関しては、内気なケーベル先生は公衆の面前で演奏することが苦手だったことがその道を断念した理由のようですが、それでも、ピアノの勉強は昼食と夕食の前後1時間ほどはとっており、日本に来てからもいくつかの慈善音楽会にだけは参加されていました。寺田寅彦の随筆に、その中の一つの音楽会を聴きにいった様子が描かれています。(寺田寅彦「二十四年前」

ケーベルさんは少しはにかんだような色を柔和な顔に浮かべて聴衆に挨拶した。」と寅彦先生の随筆に描かれているケーベル先生の、その御宅に寅彦先生が訪ねていった話については随筆を読んでみてください。「蝉時雨の降る植物園の森の裏手の古びたペンキ塗りの洋館がほんとうに夢のように記憶に浮かんで来る。」と結ばれている寅彦先生の随筆は非常に印象的です。

ケーベル先生に感化されたのは田中先生や寅彦先生だけではありません。ケーベル先生の御宅を訪ねた日本人はかなりの数に上ります。直接講義を聴講し、後に世に出た人材の一部を挙げると、桑木厳翼、波多野精一、阿部次郎、西田幾多郎、田辺元、安部能成、九鬼周造、和辻哲郎、そして西洋古典語学を学ばれたのは田中先生と久保勉先生のお二人だけでした。このほか、音楽に関しても指導を受けた滝廉太郎たちもいますが、それに関しては別の機会に取り上げられればと思います。

これらの影響を受けた著名人たちの多くがケーベル先生に関する文章を残しているのですが、余りに多いので、ここではいくつかに絞って紹介します。まず、上で登場した寅彦先生の師でもある夏目漱石を挙げておきましょう。漱石先生は「ケーベル先生」()と「ケーベル先生の告別 」()を書いていますが、とりわけ「ケーベル先生」の中での描写が抒情的です。

先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられた希臘(ギリシア)の彫刻に血が通い出したようなものである。雑鬧(ざっとう)の中に己れを動かしていかにも静かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲(びょう)の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかに革で作ったサンダルを穿いておとなしく電車の傍を歩るいている。

漱石先生の目にも、古代ギリシア人の心象がケーベル先生に重なっていたようです。多くの近親者たちも、同様なイメージを抱いていたことは確かです。ケーベル先生のギリシア的雰囲気は、その教育観にも強く表れていました。そのことを示すエピソードを和辻哲郎氏の『ケーベル先生』(弘文堂、アテネ文庫)から、やや長いですが紹介します。

先生の最初の年のみの聴講生であった西田幾多郎博士の言葉が、簡単ながら非常に示唆するところの多いものに思はれる。それは、「先生がわが國に來られた頃、いたくわが國の學風の輕佻浮薄なるを嫌つて居られたやうに思ふ」といふ言葉である。西田先生はその一例として、古典語を知らずに西洋哲學を理解しようとする考の輕佻なることを直接警(いまし)められたと云つてゐられるが、さうしてまたこの警めは二十年後のわれわれの時代にも同じやうにくり返されてゐたものであるが、しかし問題は古典語のみのことではなかつた。ヨーロッパ文化の攝取の態度が全面的に問題であつた。根を移さうとせずに、たゞ人目を驚かすやうな花だけを切り取つて來ようとする。その結果は、その花をたづさへた人がひどく尊敬されたといふだけで、その花を咲かすやうな植物はわが國には育つて來ないのである。さういふ態度で當時の學者や秀才たちは、騒々しく、仰々しく、大きい身振りをもつて、ヨーロッパの知識をふりまはしてゐた。その氣取りや衒ひが先生にとつてはまことに鼻もちのならないものに感ぜられたのであらう。前にあげた初期の學生の顔ぶれのなかでも、高山樗牛(ちょぎゅう)などはさういふ傾向の代表者であつた。先生が樗牛を極端に嫌はれたのはそのためである。

そこで先生は、樗牛が大思想家であるかのやうにもてはやされてゐた日本において、花をすてゝ根を移すことをぢみに物静かに努力せられた。「本物」に對する感覚が先生の周圍に少しづつ發生して行つた。この感化は先生の學問上の立場とか功績とかといふことよりもはるかに大きい意義を持つてゐるといつてよい。

上の漱石先生を真似るならば、多くの花で飾られた衒学の陋巷を、いかめしい革靴でなく、しなやかなサンダルでおとなしく歩くこと、いかにも静かに、「本物」の根を移そうと努力されたのがケーベル先生だったのです。それは現代でも同様ではないでしょうか。そのことを最もよく見通されていたのがケーベル先生ご自身です。警鐘とも予言ともとれる言葉も残しています。

日本人の本質の中には、子供らしさや、精神的ならびに道義的健全やまた自足の諸性質がある、がしかし今日の日本人においては、これらの諸性質は借り来られたるさまざまの間違ったことによって、社会的ならびに精神的生活のあらゆる領域を通じて窒息している。私の観るところに従えば、これらの良性質を復活せしめることが、貴国の教育家にとっての真の――当分のうちは恐らく唯一の――任務であろう。――現今貴国の若い人たちの大多数がよってもって自己を飾りまた少なからずそれを誇としているところの、『近代文明』のきらきら光る似而非黄金は、彼らによく似合わない、――が、しかし彼らはいつかはそれに対して高い代価を払うことになるかも知れない!――

(『ケーベル博士随筆集』久保勉訳編、岩波文庫より)

花を飾るのではなく、根を移すということ。これは、冒頭で掲げたケーベル先生の日本人観とも繋がるものです。その根の移し方は、決して性急ではなく焦らず行うこと。ケーベル先生流のギリシア的な智慧の愛で表現するならば、まさに「Festina lente」の精神だと思います。

母国に戻ることを予定していたケーベル先生は、同時期に勃発した第一次世界大戦のために日本に留まらざるを得なくなり、そのまま日本の地で息をひきとられました。生涯孤高の独身でした。亡くなられた遺骸は、薫陶を受けた弟子たちによって、キリスト教徒であったケーベル先生らしく簡素に行われたと言います。弟子の一人である波多野精一が、冴えた余韻をとどめながら、その様子を書き遺された文章があります。

ギリシア的自由とキリスト教的敬虔との融合はますます完全に遂げられ、世及び人との和らぎも亦ますます完全に達せられて、この美しき魂は、靜かにやすらかに、自身信ぜられた如く、ほろび易き形骸を去つて永遠の生に移り行いた。

六月十八日の夕暮、先生の遺骨が十數名の弟子達の手によつて地に委ねられ、簡素なる十字架が白百合の花に包まれて立ち、何等の教會的儀禮も用ゐられず、愛弟子久保君によつて先生のつねに愛誦された、ルカ傳(第二十四章)のエマオの弟子達の一節、殊にイエスに對する彼等の願ひの言葉「我等と共に留れ、時夕べに及びて日もはや暮れんとす」の一句が讀み上げられ、先生の遺志にもとづいたこの式らしからぬ葬式が終りを告げた時、誰か先生の個性にふさはしき靜けさと豊かさと象徴的の美しさとに感慨を禁じ得たであらう。

(波多野精一「ケーベル先生追懐」より)

日本と日本人を愛するがゆえに、その本質を見抜いていたケーベル先生が、この地に遺していったもの。守り伝えていくのは私たちなのだと、本項を書きながら、越年を数日前にして自覚を新たにする心境です。

Festina lente ! (フェスティーナ レンテ!)

σπεῦδε βραδέωσ ! (スペウデ ブラデオース!)

 

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