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非線形科学が指し示す新しい科学のパラダイムとは

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非線形科学が指し示す新しい科学のパラダイムとは

第8号の巻頭言では、蔵本由紀先生に、非線形科学の視座から映し出される現代物理学との関係性について、とくに両者の間に見られる“軋み”の根源について、これまでの研究も振り返ったメッセージ性のある論考を展開していただきました。

この中で蔵本先生は、原子や素粒子のような「モノ」的な世界と、統計物理学によって記述されるような「コト」的な世界を、それぞれ主語的、述語的と言い換えて世界を理解する図式も提案されています。そして、この二つの軸の均衡を回復しようとする動きが、様々な分野で生じているのは歴史の必然でもあると喝破されています。

この蔵本先生の話と“同期”するように解説されているのが、同号でご執筆いただいた鎌田浩毅先生の「科学的ホーリズム」の視点です。鎌田先生は、地球研究にとって必要なことは、地球をまるごと捉え、全体を一つのシステムとして理解する発想だと説きます。また、その発想とは異なる手法が、近代科学の発展の礎となったデカルトによる「要素還元主義」だとも指摘されています。(デカルトは、明証・分析・総合・枚挙の4つを、『精神指導の規則』として唱えました。要素還元主義はこの規則に則るものです。)

これは上の蔵本先生と同様な視点ですが、別の著書でも、このことについて蔵本先生は次のように語られています。

「分解し、総合する」一辺倒ではない科学のありかたが可能なことは、もっと広く知られてよいと思います。それは分解することによって見失われる貴重なものをいつくしむような科学です。ひとたび分解してしまえば、総合によって貴重なもの(傍点)を回復することはまず不可能なことだと心得るべきです。むしろ、複雑世界を複雑世界としてそのまま認めた上で、そこに潜む構造の数々を発見し、それらをていねいに調べていくことで、世界はどんなに豊かに見えてくることでしょうか。それによって活気づけられた知は、どれほど大きな価値を社会にもたらすでしょう。今世紀の科学への最大の希望を、著者はこの方向に託しています。

(『非線形科学 同期する世界』集英社新書より)

このような視点は、寺田寅彦の数々の随筆によって示唆されてきたことでもあると思いますが、これとは別の視点から新しい科学パラダイムの可能性について論じられているのが、第6号で巻頭言をご執筆いただいた村上陽一郎先生です。

村上先生は、要素還元主義でない新しい科学の可能性のヒントとして、「協和」「共時性」「同時性」の理念を、ケプラーやピタゴラスを例に挙げられています。これは、第8号の「音楽談話室」で井元信之先生が取り上げられた話(「天体の音楽」)と共通する部分です。村上先生の例によると、ケプラーにとっての「協和」とは「協和音」のことであり、協和音程はただちに幾何学的な図形に転換できるとして、以下のようにまとめられています。

和音とか図形などは、いわば「同時」的、「共時」的な秩序を示しているのであって、要素(たとえば和音を構成するいくつかの音、図形を構成する点や辺)間の関係は、「同時」的、「共時」的な地平の上に載せてはじめてその秩序を問うことができるものであることになる。

(『近代科学を超えて』講談社学術文庫より)

さらに、これに続けて、

このような要素間の「同時」的、「共時」的な関係は、すでに繰り返し述べてきた西欧近代科学の表看板であるあの「一意的法則による、時間・空間内での事象の記述」からは基本的に脱落してしまう性格をもっている。というのも、表看板での「一意的法則」とは、具体的には、ニュートンの運動法則であって、それは本質的に対象の「継時」的変化を把握するものであり、現代的場面で言っても、「時間」を含むシュレーディンガー方程式が量子力学において把握するのも、対象の「継時」的変化なのであって、つまりは、「継時」的秩序のみを追求しようとするのが、西欧近代科学の特色であり、またある程度は、現代科学の特色でもあるからである。

と指摘され、こうした「共時」的秩序の例として「形態学(Morphologie)」という概念も、ゲーテを引き合いに挙げられています。

この「形態学」は、蔵本先生の巻頭言に登場したフランスの数学者ルネ・トムのカタストロフィー理論でも重要な役割を果たしている概念です。トムは、自身のカタストロフィー理論を生物の形態発生など様々な「形」の研究に応用しましたが、別の論考では惑星の位置関係も「形態」として捉えています。これは、井元先生が紹介された、ケプラーが音律と惑星軌道に見出した法則的関係と同様の視点であり、大変興味深いことです。(「形の科学」については、小誌の表紙画の戸田盛和先生も携わられた分野ですので、また別の機会を設けて紹介できればと思います。)

「私は揺らぎを云々する人が嫌いです」と発言したトムの言葉が蔵本先生の巻頭言で紹介されていますが、この言葉どおり、トムはフランスの雑誌Le Débatにおいて、1977年にノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンと、決定論と偶然性をめぐる論争を繰り広げました。そのときのトムのタイトルは「偶然にストップを、ノイズに沈黙を」でした。このトムの真意とその背景については、蔵本先生の巻頭をお読みいただければ分かるかと思います。

以上の蔵本先生と村上先生の論考を通して、新しい科学の可能性は「非線形科学」と「共時的感覚」が鍵を握っているのではないかと考えます。これと関連して、トムと同じフランスの数学者ポアンカレは、科学の永続性を考える上で、法則の進化について以下のように述べています。

理知が創造し、或いは観察した、理知の外に存在するものとして考察されたこれら法則はそれ(傍点)自体変化し得ないものであろうか。この疑問はただ解けないものだというばかりでなくて、少しも意味のないものである。物自体の世界に於いて果して法則が時間と共に変動し得るかということを考えて見て何の役に立つのか、かような世界に於いては時間という語が恐らく全然意味のないものになるのに。この世界が何であるかということについて我々は何一つ言うことが出来ないし、何一つ思惟することも出来ない。出来るのはただ我々の有する知能と余りかけ離れていない知能にとってこの世界がどんなものに見えるか、どんなものに見え得るかということだけである。

(『晩年の思想』河野伊三郎訳、岩波文庫より)

そしてポアンカレは、科学の客観的価値というテーマの下で次のようにも言っています。

唯一の客観的な実在は事物の間の関連であって、そこから普遍的調和が生まれるのである。もとより、この関連・この調和を考えつくのは、これらを考える精神、あるいはこれらを感ずる精神以外にはあり得ない。にもかかわらず、この関連・この調和は客観的なものであることを失わない。思考力をもつものすべてにとって、共有のものであり、共有のものとなり、また、いつまでも共有であることをやめないだろうからである。
(中略)
科学と芸術によってのみ文明は価値があるのである。

(『科学の価値』吉田洋一訳、岩波文庫より)

これは、蔵本先生の巻頭言にある一文とも通奏低音のように響き合っています。

無縁と思われていた二者がある共通項によって結びつくごとに、惰性化された世界像は更新される。「文化としての科学」が果たすべき重要な機能がここにある。

こうした世界観の表れの一つが、蔵本先生が携わられた同期現象であったり、井元先生が紹介して下さった「科学と音楽の結びつき」や「天体の音楽」なのでしょう。

今後、小誌が追究していくべき重要なテーマであると思います。

 

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