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大河内正敏と寺田寅彦の“味のある”交情

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大河内正敏と寺田寅彦の“味のある”交情

第9号の「随筆遺産発掘(九)」では大河内正敏を取り上げました。大河内の理研での辣腕ぶりについては細川光洋先生の解説をご覧いただくとして、ここでは、大河内と寅彦の書いた随筆の中で互いに啓発し合ったと思われる作品を、いくつか文献を渉猟しながら紹介していきたいと思います。

連載で取り上げた大河内の作品「中金の豚鍋」は昭和7年11月のものですが、この年、大河内は味覚随筆を立て続けに6本も書いており、その背景には寺田寅彦が同年2月に書いた「郷土的味覚」が関係しているのではないか、と細川先生は解説で鋭く推察されています。この「中金の豚鍋」が書かれた頃、つまり昭和7年の初冬に、二人は幸田露伴らと一緒に味覚の粋を堪能した記録が残されています。

それは、当時鐵塔書院の代表をしていた編輯者の小林勇氏による、晩年の幸田露伴を追想した名エッセイ『蝸牛庵訪問記』(昭和31年3月、岩波書店)の中の「昭和七年 雑誌・雉酒」からの話にあります。引用は、『鐵塔』という雑誌についての降りから取っています。
(余談ですが、この「鐵塔書院」の名づけ親が幸田露伴であることも、同書に情趣深く綴られています。)

この雑誌を機縁にしての思い出がまだある。寺田寅彦は、わずかに十三冊出ておしまいになったこの雑誌に十一回原稿をくれた。お願いをしなくてもいつも速達で送ってよこした。大河内正敏もよく寄稿してくれた。大河内は猟をよくしたが、その年の初冬、水郷で得た鷭(ばん)を利久煮と称する料理法で私にご馳走してくれた。そのときその鷭の料理は大変うまいので、今度は露伴先生をよんでもらいたいというと、大河内は先生が来て下さるなら、今度の休みにまた猟にいってこようというわけで、つぎの週に大河内から先生をおまねきしたいという案内があった。お相伴には大河内と学生時代からの友人である寺田寅彦が来るということを知らされた。その晩、大河内の次男信敬(のぶひろ)の家でこの三人の先生方と信敬及び私がまた鷭の利久煮を大いに賞味した。

そのとき宮中で正月行うというお雉様という酒が出された。それは雉の羽ぶしの肉とか、その他よく運動し使われるところの肉を刺身のようにして、それを焼く。一方上等の酒をあつかんにして、コップの中に入れておいた雉の肉にさっとそそぐのである。そのあつかんがちょうどのみごろになるまでには雉の肉からよい香りと不思議な味が出てくる。この酒の味のよさ、酔心地のよさは、ひれ酒とか、海鼠腸(このわた)酒などの比ではない。先生はすっかり上機嫌になってひとりで約三時間近くもしゃべりまくった。先生ののんだ雉酒は五杯をかくことはなかった。寺田寅彦は元来酒をたしまない人であるが、このときばかりはつりこまれたとみえてコップに二杯のんだ。赤い顔をしてコップの底に残っている雉を箸でつまみ出してそれを噛んでみて、「味がない、まるで木っ葉のようだ」といった。

寅彦が陶酔した大河内の雉酒。宮中の正月料理といわれるだけに、まさに極上の食道楽(グールメー)です。昭和7年は、味覚随筆もさることながら、露伴翁をはさんでの絶品料理は、二人にとっても忘れがたい食の思い出のひとこまであったでしょう。

面白いことに、この前年の昭和6年にも、二人は互いに啓発し合うかのように似たテーマで随筆を書いています。きっかけは大河内が昭和6年7月に書いた「楽茶碗」という随筆にあります。この随筆の中で大河内は、

青磁の茶碗に挽茶を入れて見た所で少しの感興も起らない。それは色の調和も何もないからである。特に青磁の色は冷たい感じを興える。それが茶の色との不調和以上に悪い。茶碗は冷かな感じを出すより、温味が欲しい。楽茶碗は黒でも赤でも、茶の色と最も調和する上に親しみのある温味を持つ。

(『陶片』より)

と書き、青磁に対して「私は元来青磁の色を好まない一人である」と本音を吐露しています。どうやらそれが、青磁好きの寅彦の目に触れたのでしょう。翌8月にさっそく大河内は、「青磁の壺」と題する随筆で以下のように書いています。短い作品なので全文引用しておきます。

青磁の壺

或る知名な茶人が頻りに推賞する青磁の壺を拝見させて貰った時、甚だ失礼な質問かと思ったが、一体此の壺は何処が好いのですかと聞いて見たら、いや何処と言う事はないが何しろこれだけ備わった砧青磁(きぬたせいじ)で、しかも無疵の物は少い。それが一萬円とは安いものだと言われた。どう言う訳かそれが自分には少なからず癪に触った。砧青磁と言うだけで萬金に値するものを、くどく聞くワカラズヤがあるかと言わぬ許りであった。それ以来青磁に対する反感を持つようになったのと、なお一つにはどうしても青磁其物が好きになれない生れつきだ。楽茶碗の中に書かなくてもよい青磁の色を貶して冬彦博士に叱られた。君がそんなに青磁が嫌いなら、よし一つ青磁讃美論を書いてやろうかと言われたことがあった。がしかし冬彦博士の好きな青磁は茶人には余りもてない天龍寺辺りの罅(ひび)入の多いものらしい。小石川辺の古道具やで買ったのが病みつきだと云うのだから、近頃物のコワレ方の研究に趣味を持つ先生の事だ、何んでも陶磁器の罅入の生成原因について先人未知の説明がうまくついて独り悦に入っている様子だ。

(『陶片』より)

寅彦に叱られたとはいえ、当時割れ目の研究をしていた寅彦を揶揄するような結びには苦笑を禁じえませんが、そうして、この文中で寅彦が書いてやろうと大河内に話した“青磁讃美論”が、同年12月に書かれた「青磁のモンタージュ」になるかと思われます。その理由に、この随筆は大河内の次男信敬が発行編集する雑誌『雑味』第5号に寄稿されているためです。この作品もそれほど長いものではありませんので、大河内と並べて読んでもらえるよう全文引用しておきます。

青磁のモンタージュ

「黒色のほがらかさ」ともいうものの象徴が黒楽の陶器だとすると、「緑色の憂愁」のシンボルはさしむき青磁であろう。前者の豪健闊達に対して後者にはどこか女性的なセンチメンタリズムのにおいがある。それでたぶん、年じゅう胃が悪くて時々神経衰弱に見舞われる自分のような人間には楽焼きの明るさも恋しいがまた同時に青磁にも自然の同情があるのかもしれない。

故夏目漱石先生も青磁の好きな人間の仲間であったが、先生も胃が悪くて神経衰弱であったのである。先生は青磁の鉢に羊羹を盛った色彩の感じを賞したことがあったように記憶する。

青磁の皿にまっかなまぐろのさしみとまっ白なおろし大根を盛ったモンタージュはちょっと美しいものの一つである。いきのよいさしみの光沢はどこか陶器の光沢と相通ずるものがある。逆に言えば陶器の肌の感触には生きた肉の感じに似たものがある。ある意味において陶器の翫賞はエロチシズムの一変形であるのかもしれない。

青磁の徳利にすすきと桔梗でも生けると実にさびしい秋の感覚がにじんだ。あまりにさびしすぎて困るかもしれない。

青磁の香炉に赤楽の香合のモンタージュもちょっと美しいものだと思う。秋の空を背景とした柿もみじを見るような感じがする。

博物館などのように青磁は青磁、楽は楽と分類的に陳列してあるのも結構ではあるが、しかしそういう器物の効果を充分に発揮させるようなモンタージュを見せてくれる展覧会などもたまにはあっていいかもしれない。もっとも茶会の記事などを見ると実際自分の考えているようなモンタージュ展を実行しているのであるが、それは限られた少数の人だけのためのものでだれでもいつでも見られる種類のものではない。

西川一草亭の生花の展覧会などはある意味で花やくだものと容器とのモンタージュの展覧会であるが、あれをもっと拡張したような展観方法があってもいいと思う。

器物の美にはもちろんそれ自身に内在する美があるには相違ないが、それを充分に発揮させるためにはその器物の用と相関連したモンタージュの把握が必要ではないかと考えるのである。赤楽の茶わんもトマトスープでも入れられては困るであろう。

(『寺田寅彦随筆集』第3巻、岩波文庫より)

寅彦が青磁を好む背景には、漱石の存在があったということも頷けますが、何よりも結びのチクリとした一文が大河内には効いているのではないでしょうか。この文中で寅彦が喝破している、“陶器の翫賞はエロチシズムの一変形”という指摘も説得力を感じます。さらに、後年映画や連句などでも展開される「モンタージュ論」が見られることも重要な点であると思います。そして、楽茶碗を好む大河内が“豪健闊達”なら、青磁の好きな寅彦や漱石には“どこか女性的なセンチメンタリズムのにおいがある”と、さらりと評しているのも見事としか言えません。この青磁論争は、寅彦に軍配が上がるのではないでしょうか。

この随筆の後、時は昭和7年に移り、寅彦は2月に「郷土的味覚」を書き、それがまた大河内への味覚随筆への筆を走らせることになります。そして、11月に大河内が書いた「中金の豚鍋」の結びには、寅彦の諧謔味のある返答が記されているのも、二人の盟友関係を物語る何よりの証拠になるでしょう。

互いの言動が互いの趣味や創作に啓発を与えてきた大河内正敏と寺田寅彦。同じ明治11年生まれで誕生日も8日しか違わない二人をうまく捉えている文章が、大河内の評伝を書いた宮田親平氏の『「科学者の楽園」をつくった男』(河出文庫)にあるので、そちらを紹介してこの項を終わりにしたいと思います。

寺田寅彦とうまがあったのも、学問だけでなく趣味の広さが合致したのであるにちがいない。あるとき大河内は寺田にいったという。

「君は学者になってよかった。なっていなければ、こんなになんでもできるのだからたいへんな道楽者になっていた」

寺田は、これに、

「うん、そうかもしれないな」

と答えたというのだが、この問答は名前を入れかえても通用したであろう。

“今も忘れられない食味の思い出”。二人にはいつも“精神の自由”があった。

 

(補足)窮理舎の地元足利市には、青磁や色鍋島など、陶磁器のコレクションが集められた栗田美術館があります。

 

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