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寺田寅彦の知られざるドイツ留学時代―高辻亮一との出会いと交流

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寺田寅彦の知られざるドイツ留学時代―高辻亮一との出会いと交流

寺田寅彦の人生には、明治42年(32歳)から44年(34歳)まで、ドイツをはじめとする欧米への留学期間がありました。明治42年3月29日、神戸からドイツ汽船プリンツ・ルドウィッヒ号で出発して後、ドイツ、ロシア、北欧、オランダ、オーストリア、イタリア、スイス、フランス、ベルギー、イギリス、アメリカと、当時にしてはかなりの広域に及ぶ遊学を寅彦先生はしました。これらの留学中の様子は、「先生への通信」や「旅日記から」を通してうかがい知ることができます(これらは後に『藪柑子集』に収録)。

今回紹介したいのは、この留学のドイツ滞在中に関わる話で、明治43年10月にベルリンからゲッチンゲンに移り、翌年明治44年2月にパリへ移るまでの約4カ月間にわたる寅彦先生のゲッチンゲンでの人物交流です。短い期間なのですが、後の随筆家としての寺田寅彦の形成にも影響を与えたと思えるほど、非常に濃密な時間を、実に稀な縁ともいえる日本人留学生の仲間たちと過ごしていました。そこには、師でもある夏目漱石や弟子仲間の森田草平とも繋がる不思議な円環があり、寅彦作品を読む上で、様々な背景をイメージするのにとても役立つ補助的な資料にもなるものです。

その寅彦先生の貴重な一時期を共に過ごしていた仲間の一人が、本項の中心人物である高辻亮一氏です。高辻氏は当時、明治生命保険株式会社の社員でしたが、社命によりドイツの保険事情を調べるため、明治43年9月にドイツのゲッチンゲンに留学しました。上に書いたように、ちょうど同じ頃にゲッチンゲンへやって来たのが寅彦先生であり、ここから分野も異なる二人の不思議な交遊が始まります。

この交遊録は、高辻氏の留学日記『獨逸だより』が元になっており、それをベースに一冊の著書を上梓されたのが義理のお孫さんにあたる高辻玲子氏で、書名は『ゲッティンゲンの余光―寺田寅彦と高辻亮一のドイツ留学』(中央公論事業出版、2011年12月)です。

この本によれば、高辻氏の留学日記は明治44年の元旦から始められており、異国の地で初めて迎える越年を「昨夜は大晦日のこととて万感胸に集まり、勉強も出来ざれば、…」と興奮した様子で書き始めています。

ここで大変おもしろいのは、同じゲッチンゲンでも二人が下宿していたのはそれほど遠くない場所で、高辻氏は聖ニコライ教会の側で、一方の寅彦先生は聖ヤコビ教会の方でした。上掲本にある当時の地図で見ると、数ブロック程度の隔たりしかありませんでしたが、このときはまだ二人は知り合っていません。

高辻氏と同じくゲッチンゲンで正月を迎えた寅彦先生は、当時の状況を「先生への通信」の中の「ゲッチンゲンから」という節の中で以下のように触れています。

この大晦日の晩十二時に日本へ送る年賀状を出しに出ました。町の辻で子供が二三人雪を往来の人に投げつけていました。市役所のへんまで行くと暗やみの広場に人がおおぜいよっていて、町の家の二階三階からは寒いのに窓をあけて下をのぞいている人々の顔が見える。市役所の時計が十二時を打つと同時に隣のヨハン会堂の鐘が鳴り出す。群集が一度にプロージット・ノイヤール、プロージット・ノイヤールと叫ぶ。爆竹に火をつけて群集の中へ投げ出す。赤や青の火の玉を投げ上げる。遅れて来る人々もあちこちの横町からプロージット・ノイヤールと口々に叫ぶ。町の雪は半分泥のようになった上を爪立って走る女もあれば、五六人隊を組んで歌って通る若者もある。巡査もにこにこして、時々プロージットの返答をしている。学生が郵便配達をつかまえて、ビールの息とシガーの煙を吹きかけながら、ことしもまたうんと書留を持って来てくれよなどと言って困らせている。ふざけて抱き合う拍子にくわえたシガーが泥の上へ落ちたのを拾ってはまた吸っています。プラッツのすみのほうに銅壺をすえてプンシュを売っている男もありました。寺の鐘は十五分ほど鳴っていました。帰って来る途中のさびしい町でもところどころ窓から外を見ている人がありました。帰って寝ようと思ったら窓の下でだれかプロージット・ノイヤールと大きな声がして、向こうの家からプロージットプロージットとそれに答えているのが聞こえました。

書いている間に日が暮れました。いっこう元日らしいところはありません。・・・・・・

(「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫より)

上の最後の一行に「いっこう元日らしいところはありません」と寅彦先生はいくぶん冷めた気分を綴っていますが、異国での越年はすでに前年にイタリアでも経験しており、上の高辻氏の感情とはそういった点でも少し異なっていることがわかると、上掲本では解説されています。高辻氏は、下宿先の老人から大晦日の様子を見に行くことを勧められますが、風邪に用心して屋内にとどまっていることも日記にしたためられており、こういった部分でも行動的な寅彦先生との違いが散見されて面白いです。

上掲本にある当時の地図を見ると、寅彦先生の上の文章に出てくる“市役所”や“ヨハン会堂”の場所も記載されていて、想像がより膨らみます。さらに、当時の二人の文章を読み比べることで、寅彦先生の「先生への通信」の新たな角度からの読み方や発見もできます。

こうして高辻氏と寅彦先生は同じゲッチンゲンという地で元旦を迎えるわけですが、二人の出会いは、寅彦先生と大学時代に物理の同期だった林房吉氏を通して始まります。高辻氏の下宿先の隣にある物理学研究所で実験をしていた林氏は、食事だけ高辻氏の下宿に来ていたことから交遊が千々に広がっていきます。

詳しくは上掲の高辻玲子氏の本を読んでいただきたいと思いますが、林氏を介してその他の日本人留学生(この中には数学者の吉川実夫もいます)も加わり、高辻氏と寅彦がビリヤードに興じたり、決闘を見物に行ったり、一緒に語学学習をするなど、寅彦の異国版青春ドラマのようなものをこの本で味わうことができます。中でも、寅彦先生と高辻氏が、二人の共通項でもある夏目漱石や森田草平の話をする点も、この本の見逃せない一つのシーンでしょう。(高辻氏と森田草平は一高時代の親友であり、そのことを通して漱石と高辻氏との出会いがあったことも、この本には詳しく書かれています。)

寅彦先生は、この約4カ月間にわたるゲッチンゲンでの交遊を経てパリに向かいますが、その10日後に高辻氏も次の留学地であるライプツィヒへ出発することで、このゲッチンゲン物語は幕を閉じます。この高辻氏のライプツィヒでの見聞についても、『獨逸だより ライプツィヒ篇―ニキシュを聴いた日本人』(中央公論事業出版、2017年10月)という本に高辻玲子氏によってまとめられています。

このライプツィヒ篇のハイライトは、高辻氏がライプツィヒに移った後、往年の名指揮者アルトゥール・ニキシュの演奏会を聴きに行っていたことです。現在でも世界有数のオーケストラとして知られるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会であり、歴代常任指揮者の中にはニキシュのほかにメンデルスゾーンも名を連ねています。

ライプツィヒは西洋音楽史の中でも重要な地。ワーグナーはここで生まれ、バッハやシューマンも生活をし、モーツァルト、ブラームス、リストも訪れています。日本人では滝廉太郎がこの地に音楽留学しており、当時の音楽院の院長はニキシュでした。そうした貴重な演奏会で、ニキシュの指揮するオーケストラを聴いた高辻氏の当時の記録は大変貴重なものです。

著者の高辻玲子氏は寺田寅彦友の会の会員でもあり、会報誌『槲』(かしわ)に寄稿された文章も、上掲のゲッチンゲン本にはいくつか収載されています。その中でも、「シャコンヌの歌―寅彦とハイゼンベルク」という文章には、バッハのニ短調シャコンヌを通して、寅彦先生とハイゼンベルクを比較している興味深い解説もあり、本誌の井元信之先生の連載「音楽談話室」とも交差する話題です。

高辻亮一氏は、日本に帰国して間もなく不治の病にかかり、10年ほど後の大正10年4月13日に38歳の若さで世を去っています。そのことは、寅彦日記の大正10年4月16日付に「高辻亮一君死去の為知(しらせ)あり」と書かれていることからも、当時の寅彦先生が亡き高辻氏との思い出を愛惜したことがうかがえます。

今から100年ほど前に、海を隔てた異国の地で、同じ日本人留学生として交遊した寺田寅彦と高辻亮一。4カ月という短い時間に凝縮された仲間たちとの物語と二人が重ねたダイアローグは、時代を超えて今も響き続けています。

 

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