科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

寺田寅彦とアインシュタイン――『物理学序説』への展開と道程

  • HOME »
  • 寺田寅彦とアインシュタイン――『物理学序説』への展開と道程

寺田寅彦とアインシュタイン――『物理学序説』への展開と道程

今年(2022年)はアインシュタイン来日100年の節目ということで、第22号からは伊藤憲二先生による小連載「一世紀前の日本の物理学とアインシュタイン来日」が始まりました。本連載では、大正11(1922)年11月17日(金)~12月29日(金)までの約1カ月ほどのアインシュタインの日本滞在を中心に、当時の社会や物理学界が来日前後でどれだけの影響を受けたのか、様々な史料に基づきながら出来事の裏側や後世へのインパクトを探っていきます。

そこで本稿ではこの来日に関連して、寺田寅彦とアインシュタインをテーマに見ていきたいと思います。なぜ寺田寅彦か? という理由は副題にもあるとおり、寅彦先生が当時着手していた『物理学序説』(未完)と大いに関係があるからです。何よりこの執筆構想を背景に、寅彦先生のアインシュタイン観や相対論への理解度が、当時では先進的であった印象もうかがえます。日記や書簡等を通して、早速その読書歴などをたどってみましょう。

まずは『物理学序説』(以下『序説』)に着手するまでのプロセスを見ていきます。

○『物理学序説』への下地――「物理学の基礎」として

細谷暁夫先生の『寺田寅彦『物理学序説』を読む』をお読みいただいた方は既にご存知かと思いますが、寅彦先生が相対論にも関係する認識論的な世界に本格的に関心を持ち始めたのは、アインシュタイン来日よりも前の大正4年頃からでした。詳細はこの本をお読みいただくとして、この頃の来歴を大まかに挙げると、まず大正4年1月2日に当時入院中の長岡半太郎へ認識論の講義をやりたい旨の相談をし頓挫しますが、その数日後から約一年かけて以下の関連書の購入・読書、および関連稿の執筆を始めます。(以下、可能な限りですが、寅彦先生が読んだと思われる原著のリンクも貼っておきます。)

1月6日 Laue『Das Relativitätsprinzip』(相対性原理)を購入
    Mach『Die principien der wärmelehre』(熱学の諸原理)を購入
2月  ポアンカレ「事実の選択」翻訳(『東洋学芸雑誌』32巻399号掲載)
4月13日 Gibbs『Elementary Principles in Statistical Mechanics』(統計力学)を読む
7~8月 ポアンカレ「偶然」翻訳(『東洋学芸雑誌』32巻406号、407号掲載)
8月8日 ボルツマンの論文を読む(論文名不明)
9月6日 「方則の可能と意義」執筆(「方則に就て」と改題し『理学界』13巻4号掲載)
10月4日 プランクの論文を抄訳(論文名不明)→「物質とエネルギー」「知と疑い」執筆もこの頃か?
11月9日 「科学の目指すところと芸術の目指す処」執筆(『科学と文芸』2巻1号掲載、後「科学者と芸術家」に改題)
11月21日 紀平正美『認識論』(岩波書店)を購入
12月9日 田辺元『最近の自然科学』(岩波書店)を献呈入手
12月27日 Studyの空間論を読む(原著不明)
12月29日 Enriques『Problems of science』(科学の問題)を購入
Stewart『A critical exposition of Bergson’s philosophy』(ベルクソン哲学の批判的解説)を購入

そして翌大正5年1月5日には、哲学者の桑木厳翼の『現代思潮十講』(弘道館、大正2年)を購入し、10日にはさっそく弟の彧雄氏宛に、認識論の「根本問題に興味を感じ始め、余暇に此方面の本など読み居候、御令兄様の御著書なども拝見致居候。何卒将来御指導を願度と存居候。」と書簡を送り、前年末からのベルクソン批判書の読書を続けています。このベルクソン批判書は、手帳への抜書きも多く散見されており、後の相対論への理解や『序説』執筆へも奏功したと思われます。さらに大正5年の来歴も下記すると、

1月30日 「自然現象の予報」執筆(『現代之科学』4巻3号掲載)
2月13日 プロバビリチーの問題考案
3月4日  Kant『Prolegomena・・・』(プロレゴメナ)を購入
11月19日 Locke『An essay concerning human understanding』(人間知性論)を購入
11月23日 「時の観念とエントロピー並びにプロバビリティ」執筆(『理学界』14巻7号掲載)
11月末  発熱、胃潰瘍で寝込む
12月9日  漱石、逝去
12月29日 Mach『The analysis of sensations・・・』(感覚の分析)を購入
12月30日 「物理学の基礎」起稿

と、師との離別に見舞われながらも、「物理学の基礎」として、いよいよ『序説』への本格的な歩みが始まっていきます。既にラウエの『相対性原理』を読んでいたように、この時点で相対論関係への関心も進んでおり、それに伴う認識論的な掘り下げも潜行していたと思われます。

翌大正6年1月には、前年に書いた「時の観念とエントロピー並びにプロバビリティ」への反響として、石原純や桑木彧雄氏との往復書簡が交わされます(石原純氏との書簡は全集未収録ですが、その内容はほぼ「物理学と感覚」(大正6年11月『東洋学芸雑誌』34巻434号掲載)と同様。関連備忘録はこちらも)。

この大正6年は、2月10日にボーアの1913年の論文『On the Constitution of Atoms and Molecules』(原子および分子の構造について)を翌日にかけて熟読し、翌月の3月11日に「原子の構造に関する学説」(『東洋学芸雑誌』34巻427号掲載)を執筆、8月12日には郷里の高知第一中学で「物理学の基礎としての感覚」を講話、10月14日には教え子の阿部良夫(科学哲学・科学史専攻、北海タイムス社長、北大で教鞭、日本科学史学会発起人の一人)とマッハについて論じています。この年は、1月にやりとりした桑木氏との書簡が最も重要と思われますので、その主要部を下記しておきます。「夏目先生が亡くなられてからもう何処へも・・・」と漱石先生への離愁が吐露されている手紙ですが、ここでは読書と思索に関する部分を引用します。

ヂェームス(注:デュエム(Duhem)の誤り)の「物理学の理論、其目的及構造」といふ書物のある事を始めて承知致し是非取寄せて熟読致度と存候、何卒右書籍の原名(発行所もわかりますれば)等御示教願上度祈り候、其他此種の書物で面白そうなのを御閑の節御洩し被下候はゞ大幸に御坐候、私の此れ迄見たものはポアンカレ、マッハの諸書(後者は目下調べ中)其外にはカントのプロレゴメナ、ロックのヒューマンアンダスタンヂングの一部、ミルのロジックの一部、アンリックの科学の問題位のもので極めて狭いものでありますが、永生きが出来れば追〃色〃読み度い希望をもつて居ります。どうか御指導を祈ります。」 理学界にだしたのは(注:「時の観念と・・・」のこと)誠に乱暴なもので、編輯員の強情を満足させる為に書いたようなもので読者には済まないようでありますが、以前から考へて居たボンヤリした考を無秩序に書いたに過ぎません、大兄の御眼に止り恐縮致候 何卒御遠慮なく色〃御批評御示教願上候、あの考をもう少し進め度と思つて居ますが仲〃容易でありません、一体小弟などは所謂「盲蛇に恐ぢず」の方で前人のいつた事を知らぬから勝手な事を平気で公にするような訳で御恥しい次第でありますが、プロレゴメナの緒言の第一頁にある文句を読む毎に稍(やや)安心するような心持が致します。

(大正6年1月10日付け桑木彧雄宛書簡より)

Duhemの著書御示教下され難有奉謝候、早速取り寄せて一覧致しましよう
(中略)
 此頃はマッハの「感覚の分析」の米訳をポツポツ読んで居ますが兎も角も大変に面白い本だと思ひます 随分議論でもして見たいような処もありますが矢張り感心する処が多く色〃の暗示を与へられて居ります。」 小供の時吹矢で小鳥をねらつて歩いた時矢の命中する時は命中する前の瞬間に必ず命中するといふ予覚がある事を経験しましたが、マッハの本を読んで此れが一種の時間の前後に関する錯覚によるものだろうと思はれて面白く感じました。

(大正6年1月18日付け桑木彧雄宛書簡より)

ここにあるデュエムの「物理学の理論、其目的及構造」は、原著はDuhem『La théorie physique : son objet, et sa structure』(後、1991年に『物理理論の目的と構造』小林・熊谷・安孫子訳、勁草書房)で、1月21日に丸善で購入しています。桑木氏に薦められたこの本には、タイトルどおり物理理論の目的と構造や、量と質、仮説の選択などが書かれており、『序説』で中断され、執筆予定だった第3篇「物理学の目的とその方法」の骨子となるものが含まれていると思われます。

『序説』で物理学者に一読を勧めているミルのロジックは、原著はMill『A system of logic, ratiocinative and inductive』(論理学体系)で、同年2月4日に中因果律の項目を読んでいることが日記に記録されています。また、「アンリック(注:エンリケス)の科学の問題」は上に書いたEnriques『Problems of science』が原著ですが、この本には、歴史と心理と科学/事実と理論/科学知識の価値/論理の問題/・・・といった科学一般論の有益な話題が網羅されており、手帳への抜書きも多く散見され、これも『序説』執筆予定の第3篇以降に言及される内容であったと思われます。

桑木氏への手紙にあるとおり、マッハに関しては『感覚の分析』の読書に次いで、書簡後の1月30日にMach『Popular scientific lectures』も丸善で追加購入しており、その内容にはコルチ線維/人の目はなぜ2つなのか?/物理における比較原理/発明と発見における偶然の役割/方向感覚/・・・など、上のデュエムやエンリケスと同様に手帳への抜書きらしきものもあり、『序説』への影響が深く感じられます。

こうして、大正6年は10月頃まで『序説』への基盤となる読書や執筆などが続いていましたが突如中絶されます。前年末の漱石先生の死に次いで、妻 寛子さんが亡くなるという悲運が重なり、さらに翌大正7年は家族の相次ぐスペイン風邪と思われる感染、同年8月には3番目の妻 紳子さんと結婚しますが、10月にその紳子さんも感染らしき不調、そして翌大正8年1月には寅彦先生も罹患し、これが引き金となってか、胃の不調なども続き年末に吐血、翌大正9年から休職します。大正7~8年は他の随筆執筆や研究はしていましたが、『序説』への熱意は一時中断された状態でした。しかし、休職によって再び余暇ができたことに加えて『序説』への再燃を促した大きなきっかけが、まさにアインシュタインだったと思われます。

○『物理学序説』への展開――相対性理論の吸収

大正9年1月末、日記にはさっそくアインシュタインが登場します。

朝ネイチュア―を読んだ、日蝕観測の結果アインスタインの理論の確かめられた事に関する記事が多い

(寅彦日記、大正9年1月25日より)

これは、アインシュタインが1915年に一般相対性理論を発表し、そこから導かれた検証可能な予言の一つがイギリスのエディントンらの観測隊によって確認されたというニュースでした。この年のアインシュタインに関する話題は、観測結果のほかに人種問題やレナルトとの討論など社会を騒がせた報道もあったのですが、これについては翌年書かれた小伝随筆「アインシュタイン」をご参照ください。

一連の話題を受けて寅彦先生は、2月11日付で桑木氏宛に

クリストは人間に罪人といふ自覚を与へた アインスタインは人間の五官の無能を強く指摘した

といった手紙をしたためます。この「五官の無能」という表現こそ、約2年間離れていた『序説』への起稿を促す起爆剤になったと思われます。この言葉が誘因したかのように、寅彦先生は8月10日には、『序説』でも文献に挙げられたPierre Villeyの『Le Monde des Aveugles』(盲の世界)を神田で購入します(9月18日読了)。10月14日には、これも『序説』で挙げられている上野直昭の『精神科学の基本問題』(岩波書店)を読み、同様に『序説』文献となった安倍能成『西洋近世哲学史』を10月23日から、同じく紀平正美『認識論』も11月9日から読み始めています(安倍氏の場合『西洋古代中世哲学史』も29日から読書)。そして、11月12日の『序説』起稿へと進んでいきました。

このように、大正5年末の「物理学の基礎」起稿から『序説』執筆へと再開するにあたって、寅彦先生は小宮氏に以下のような手紙を送っています。

物理学序説は矢張り序説で物理学でないんだから大丈夫 君のエンヂョイせらるべき性質のものですが、さううまく出来るかどうかは分かりません。しかし大体系統だけ立てゝ見ましたが事によつたら面白いものになるかも知れないと思ひます

(大正9年11月16日付け小宮豊隆宛書簡より)

「大体系統だけ立てゝ見ましたが」とあるように、恐らく執筆計画メモを元に各項目を書ける所から進めていったのではないかと想像します。

さらにこの翌日、桑木氏に以下の書簡を送ります。

「時間及空間の相対性」別刷頂戴難有う御坐いました、哲学史を背景としての御解説非常に面白く有益に拝見致しました。かういふ風に考へて見て始めて相対率論が万人に対して意義をもつてくるやうに思はれます

(大正9年11月17日付け桑木彧雄宛書簡より)

ここにある桑木氏の「時間及空間の相対性」は、同年7月に広島で行われた講演記事でした(後に『絶対と相対』(下出書店)に収録)。桑木氏にも刺激を受けて、寅彦先生の執筆意欲も、そして相対論への関心もにわかに盛り上がってきている心情が、次の小宮氏宛書簡に見られます。

序論をかく必要上からも相対原理の勉強が必要になつて毎日よみつゞけて居るがやつぱり面白い、此れをやらなくては嘘のやうな気もする。

(大正9年12月9日付け小宮豊隆宛書簡より)

この時期に寅彦先生が読んでいたのはフランスの物理学者レムレー(Lémeray)の書いた『Le principe de relativité』(相対性原理)で、12月2日付の日記には「レムレー相対率論読み、序説修正」と、恐らく『序説』第2篇第5章「数と空間時間」の辺りをアップデートしながら書き進めていたのではないかと見受けます。そしてこのレムレー本の読書後、12月8日からはトルマン(Tolman)の『The theory of the relativity of motion』(運動の相対性理論)を読み始め、手帳にもその抜書きが散見されています。相対論の勉強はまだまだ続き、12月12日にはトルマン本を読了し、翌日13日からはボノラ(Bonola)の『Non-Euclidean geometry』(非ユークリッド幾何学)を丸善から取り寄せ、14日から読み始めます(これも手帳に抜書きあり)。16日にはまた丸善からマッハ(Mach)の名著『Space and geometory・・・』(空間と幾何学)も追加入手し、先のボノラと入れ違いで読み始め、21日に読了。これも手帳に多く抜書きされました。この間、いくつか生じた疑問や興味を受けてか、20日付で桑木氏宛に以下の手紙を送ります。

アインシュタインの1916の一般相対原理論の単行印刷物の表題出版所等御序の節御示教被下間敷哉 御願申上候」 此頃はじめてマッハの「空間と幾何学」を読みましたが矢張り面白いと思ひました、マッハがもう少し生きて居たらアインシュタインを待たなかつたかも知れないやうな気が致しました。

(大正9年12月20日付け桑木彧雄宛書簡より)

最後の文章はマッハ派の寅彦先生らしい意見です。所望していた1916年のアインシュタイン論文は、『Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie』(一般相対性理論の基礎)で、寅彦先生の相対論への関心が『序説』執筆と合わせて、じわじわと深まっている状況が感じられます。

さて、休職していた大正9年から翌大正10年へ移ると、前年からの相対論関係への興味が拍車をかけるようにしばらく先行して続いていったようです。この年に寅彦先生が渉猟した多くの関連書と執筆した関連随筆を時系列に挙げておきます。

1月23日 Freundlich『Die Grundlagen der Einsteinschen Gravitationstheorie』(アインシュタインの重力理論の基礎)を購入
3月25日 『Nature』相対論特別号を読む
4月26日 Moszkowski『Einstein, Einblicke in seine Gedankenwelt』(アインシュタイン、その思索への洞察)を読む
5月7日 「アインシュタインの教育観」(『科学知識』1巻1号)を執筆(11日脱稿)
5月17日 アインシュタイン論文(1916)を読む
5月19日 Schlick『Raum und Zeit der gegenwärtigen Physik』(現代物理学における空間と時間)を読む
5月21日 Cohn『Physikalisches über Raum und Zeit』(空間と時間の物理学)を読む
5月22日 Schlesinger『Raum, Zeit und Relativitätstheorie』(空間、時間、相対性理論)を読む(24日読了)
  同日 アインシュタイン講演(ライデン大学)をタイプ始める
5月24日 Lenard『Über Relativitätsprinzip, Äther, Gravitation』(相対性理論、エーテル、重力について)を読む
5月30日 Fricke『Der Fehler in Einsteins Relativitätstheorie』(相対性理論の誤謬)を読む
6月2日 「星の大きさを測るマイケルソンの方法(Hosi no Ôkisa wo hakaru Michelson no Hôhô)」(『ローマ字世界』11巻7号)を執筆
7月21日 Eddington『Space, time and gravitation』(空間、時間、重力)を読む
8月10日 改造社山本実彦氏より10月号にアインシュタイン伝執筆依頼
8月21日 「アインシュタイン」(『改造』3巻12号)を執筆

以上のように年始から夏にかけて、まだ休職中とはいえ、相対論関連書8冊のほか、アインシュタインの論文や講演、雑誌記事を怒濤のように読み込んでおり、その間に関連随筆の執筆までするという凄まじい期間でした(勿論、気象関係の研究論文も並行して進めています)。上に挙げた関連書のうち手帳に抜書きされているものを挙げると、Freundlich, Schlick, Cohn, Schlesinger, Lenardが認められ、特にMoszkowskiの本は「アインシュタインの教育観」や「アインシュタイン」の種本となっています。この本は、翌年に『アインスタイン:思索の跡をたどりて』(高橋誠訳、改造社、大正11年)として刊行されました(抄訳のためか伝記部分が少)。アインシュタイン論文などに関しては、桑木氏宛に

此頃やつと1916の論文を見ましたが何だか六ヶしいものだと思ひました、」 レナードの反対論のパンフレットも見ましたが、エライ意気込で何か云つて居るけれ共肝心の問題になるとスーツト横の方へそれて居るのがおかしいと思ひました。」 Schlickのも此頃見ましたが他のツマラヌものに比べると流石にいゝやうな気が致しました

(大正10年7月2日付書簡)

といった感想も送っています。この後、桑木氏は『物理学序論』(下出書店)や上に挙げた『絶対と相対』などを刊行し寅彦先生に献呈しますが、寅彦先生からは御礼方々、「小弟も此の真似事のやうなものを書いて見たい希望を持つて居ますので多大の御かげを蒙る事になるだらうと存じます」(9月24日)、「それからポアンカレ―を読みかけた処に御坐候」(10月22日)などと手紙に書いており、その存在は兎に角よい刺激となっていたようです。

さらに、上掲書のほかに寅彦先生が読んだと思われる関連書を追加で挙げておきます。

Lawson『Relativity; the special and general theory by Einstein, Albert, 1879-1955』
Cyon『L’oreille, organe d’orientation dans le temps et dans l’espace』(耳:時間と空間の方向性を決める器官)
Cyon『Das Ohrlabyrinth: ALS Organ Der Mathematischen Sinne Fur Raum Und Zeit』(耳の迷路:空間と時間の数理的感覚器官)

Cyon(シオン)はロシアの生理学者で、手帳には「3 dimensional spaceノ起因ヲ半規管二求メントシタ」等と注記。これは、マッハの本と関連して『序説』第2篇第4章「感覚」への反映もうかがえます。Lawsonの本は、アインシュタインの原著(の英訳)ということで、最も信頼できる書として知人にも薦めています。和書では、教え子の阿部良夫氏が後に書いた『相対性理論』(岩波書店、大正15年)石原純『相対性原理』(岩波書店、大正10年)などを推薦していたことが書簡から分かっています。

また、上掲書のうち1916年の論文やパンフレット類は、当時フランスの国際数学者会議に行き、戻ったばかりの隣人の数学者 高木貞治氏から借用していたことも分かっており(5月16日付け日記)、そのほかアインシュタインに関する欧州での情報は、当時留学していた航空研の後輩、小林辰男氏からの書信で入手していたことも日記に見られます(3月21日)。『序説』執筆の背景には、桑木氏や石原氏、小宮氏だけでなく、高木貞治氏や後輩や教え子といった人物たちの存在も一役買っていたわけです。

○アインシュタイン来日

さて、ここまで見てきましたように、寅彦先生はアインシュタインが来日する前年までに、自身の物理思想の基盤となる『序説』執筆を進める傍ら、それと密接に関わる相対論の理解と吸収にも余念がなかったことがよく分かります。そんな展開が捗ってきた頃、図らずも大正10年12月8日に改造社の横関愛造氏がアインシュタイン来日の相談に寅彦先生宅へ来訪します。10月頃にアインシュタイン来日の噂が一部報道されるという状況でしたので、一年ほど前から桑木氏や長岡半太郎に相談をしていた横関氏にしてみれば、当然その流れで寅彦先生にも話を持ちかけることになったのではないかと思います。寅彦先生は11月から職に復帰したばかりでした。

年が変わり大正11年、寅彦先生の復職と歩を合わせるかのように、アインシュタイン来日の正式な調整は進み、その決定の報道が『東京朝日新聞』に掲載されたのは2月7日。ここから11月に来朝するまでには細々とした出来事があったわけですが、その辺りは伊藤先生の連載(第22号)の文献等をご参照ください。

いよいよ来日の約1カ月前となった10月3日、寅彦先生宅に「改造」記者が訪れ、12月に出すアインシュタイン特集号への依頼を受けます。これは「相対性原理側面観」と題して寄稿されますが、この中には『序説』と繋がる記述があるので下記しておきます。これは、後の量子力学への示唆ともとれるのではないでしょうか。先に述べた「五官の無能」という事を踏まえるならば、「常識」を「五官」と置き換えて読んでみてもよいかもしれません。

科学と常識との交渉は、これは科学の問題ではなくてむしろ認識論上の問題である。従って科学上の問題に比べて六かしさの程度が一段上にある。

そして、「抽象的系統の中に花鳥風月の美しさとは、少し種類のちがった、もう少し歯ごたえのある美しさ」を瞥見したい人たちに相対論研究を勧めて稿を閉じ、来日への餞としています。

満を持して、11月17日のアインシュタイン来日後、いよいよ待望の講演を前に、寅彦先生は小宮氏宛にその本音を漏らします(23日)。

アインシュタインには未だ会ひません、廿五日から学校へ来るから其時に話しでも出来るかと楽しんで居ります。何だか余り引つぱりだこで嘸(さぞ)迷惑な事だらうと思つてなんだか気の毒なやうな気がします。何しろ改造社ではアウスニュッツエン(注:ausnützen、使い尽くす)しないではおかないでしゃう。」 矢張少数の人が引つぱり廻して、それ等の人の紹介する日本だけしか見ないでかへしてしまふ事になりはしないかと思はれます

(大正11年11年23日付け小宮豊隆宛書簡より)

この指摘も的中するのですが、そんな期待と楽しみを半分に、翌24日は神田青年会館で通俗講演、25日は東京帝大物理学教室で特別講義(26日を除いて12月1日まで)、26日は猿楽町宝生会の能楽見物に同行、28日は昼にレセプション、夜は懇話会、と立て続けに目まぐるしい日々を送り、ここで一服、小宮氏宛に一連の感想を伝えます。

大先生達がスツカリモノポライズ(注:独占)して居て吾〃末輩は中〃近付けない。少〃不平であります、しかし其中に或る機会が到来しさうなので楽しみにして居ます。」 一昨日だつたか総長の午餐の時に遇つて一寸握手すると、イキナリ君はスペクトルのロートフェルシーブング(注:赤方変位)の問題をどう思ふと聞かれてマゴツイタ、僕の存じよりを述べるとそれから諄〃と説明を始めた、あとからつめかけて居る人達に気の毒だから何でもヤーヤーで逃げてしまつた」 講義は佳境に入つた、本をよんで妙に腑に落ちなかつたやうな事がアインシュタインの口からきくと頭の中へ透徹するから不思議であります。」 昨夜は岩波の科学叢書の会、あすは改造社主催の歓迎会 連日連夜のゴタゴタでなんだかぼんやりしてしまひます。」 アインシュタインを日本に招聘する事を主張しやうかと思つて居るが如何でしやう」 これから和製アインシュタインが沢山出来て困る事だらうと心配して居ます。さしあたり髮をモヂヤモヂヤにする事はきつとはやる

(大正11年11年30日付け小宮豊隆宛書簡より)

アインシュタインに赤方変位の意見を訊かれたくだりは、後年メスバウアー効果によって確認されることになります。それにしても、ずっと学び続けてきた相対論の元祖アインシュタインと初めて対面し、会話をした日が誕生日(28日)であるとは、いかにも寅彦先生らしい劇的な運命ではないでしょうか。

特別講義も最終日の12月1日、夜は帝国ホテルで改造社主催の歓迎会に出席し、寅彦先生はここで初めてアインシュタインのバイオリン生演奏を耳にします。バイオリンを弾いていた寅彦先生にとって当然その影響力は大きく、5日には同郷の弘田龍太郎宅へバイオリンを取りに行っています。この辺りの詳細は、第13号の井元信之先生の「音楽談話室」をお読みください。

この刺激的な演奏から間を置いて、6日にはアインシュタインに贈る錦絵の選定に、小宮氏と京橋の渡辺木版店に行き、「藤懸静也著画集ほか50枚」を選んでいます。面白いことに、この選定から「浮世絵の曲線」(『解放』大正12年1月)という随筆が生まれています。選定された錦絵は後日、半太郎先生によって京都に移っていたアインシュタインに届けられました。

こうしてアインシュタイン来日をめぐる寅彦先生の相対論物語は一幕を降ろしますが、総じて、『序説』という物理学者としての世界観を築く上で、アインシュタインが果たした役割はこれ以上の言を俟ちません。最後に、「相対性原理側面観」からその影響の一端を象徴する文章を引いて本稿を終わりにします。

今のところ私は、すべての世人が科学系統の真美を理解して、そこに人生究極の帰趣を認めなければならないのだと信ずるほどに徹底した科学者になり得ない不幸な懐疑者である。それで時には人並に花を見て喜び月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を感じる。それは花や月その他一切の具象世界のあまりに取り止めどころのない頼りなさである。どこをつかまえるようもない泡沫の海に溺れんとする時に私の手に触れるものが理学の論理的系統である。絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めたい。

 

備忘録indexへ

 

PAGETOP
Copyright © 窮理舎 All Rights Reserved.