科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

湯浅年子補遺(其の二:ルイ・ド・ブロイ)

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湯浅年子補遺(其の二:ルイ・ド・ブロイ)

前回のポール・ヴァレリーと湯浅先生の話に続いて、其の二では量子力学建設の立役者の一人であるルイ・ド・ブロイの話を紹介します。

湯浅先生はパリに着いてから2年後に、ド・ブロイの講義をアンリ・ポアンカレ研究所で2年にわたり聴いています。講義の題目は「スピンnの粒子について」。そのときの様子を書いた湯浅先生の描写が印象的なので下記します。

教授はおおよそ学生を意識されないようで、教室に入って来られても全然表情を変えられない。往来を歩いて居られる時と全く同様である。おもむろに白墨をもたれると流れる小川のように低い流暢な講義がはじまる。手は絶えず黒板の上に数式をかき続けられる。草稿はもちろん用意して来られるのであるが、その速くて、小さい字でかかれる数式を二年の間、かつて一度も書き損なって消されたのをみた事がない。そこに整理された教授の頭脳をみるような気がした。

(「私のあった世界の科学者 三 ルイ・ド・ブロイ教授」より)

しかし、ド・ブロイの板書は早いことで有名だったようで、ジョリオ・キューリー夫人からも「フランス人の私でもド・ブロイさんの御講義は全く解らないんだから無理もないですよ。はやくてとても筆記できない」と話されていたと言います。

湯浅先生は直接ド・ブロイと対話したことはなかったようですが、外で見かけることは多々あり、その様子を綴った文章も紹介しておきます。

時折、ルクサンブール公園や、ルクサンブール駅の近くで行き遇うが、何時も、宙に眼を放って、というよりは、むしろ、盲いた人のように、あたりの雑事は見れども見えずという風で自己の裡の思索に沈潜して居られるような様子で、やや猫背で片手にしっかりと細い身体に不均合な雨傘――パリでは雨傘をもってあるく人はきわめて稀である。特にそれが男の場合には――をやや上方に支えてあるいて居られる。

(「私のあった世界の科学者 三 ルイ・ド・ブロイ教授」より)

湯浅先生はジョリオ・キューリー夫妻の下で学びながら研究をしていたわけですが、以下のようなジョリオ教授とド・ブロイを比較した評も面白く、想像をかき立てられます。

ルイ・ド・ブロイ教授が公爵である事はよく知られているが、やはり何となくそのにおいが感じられる。ジョリオ教授はよく“habitant du chateau お城の住人”と呼んでおられた。まことに、ジョリオ教授が全く小市民であるのに反して、貴族的である。

(「私のあった世界の科学者 三 ルイ・ド・ブロイ教授」より)

湯浅先生が書かれた「私のあった世界の科学者」という随筆には、このド・ブロイ教授以外にも「ジョリオ教授」や「ランジュバン教授」「ボーテ教授」「ガイガー教授」といった錚々たる人たちとの思い出話が綴られています。

最後に、この「私のあった世界の科学者」や第11号で紹介した「素人藝について」も収載されている『フランスに思ふ』(月曜書房)の岡本太郎装釘の表紙や扉絵も挙げておきます。エッフェル塔とセーヌ川が象徴的な表紙です。

フランスに思ふフランスに思ふ(表紙)フランスに思ふ(扉)

 

 

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