湯川秀樹と三十一文字の世界
第3号の「随筆遺産発掘(三)」では、湯川先生の随筆「京の山」を細川光洋先生に紹介・解説して頂きました。初出誌『洛味』からの原文での掲載で資料価値も高いです。
随筆「京の山」は、湯川先生が殊の外、比叡の山に自身の人格を投影していたことがよく理解できる作品であり、湯川先生にとって、京都が故郷として特別の意味をもっていたこともわかります。この他にも、「ふるさと」や「大文字」「むくげの花」など、故郷である京都を描いた随筆がありますが、とくに「大文字」には、細川先生の解説中にもある末弟の滋樹(ますき)さんとの戦争による痛切な別れが描かれています。この随筆の最後にある、
私の心の中には、いつまでも彼の幼年期かあるいは青年期の姿が定着している。私がいくつになっても彼は年をとらない。大文字の火がともるごとに、その姿がよみがえる。
という文は、まさに「京の山」で詠まれている最後の短歌の中の「逝きし人別れし人」という句にも重なる深い心情が読みとれます。
湯川先生が短歌を”和歌”とよぶのを好まれたことは、細川先生の解説中で取り上げられておりますが、湯川先生がご自身と和歌の関係について、次のように話されているのが興味深いです。
私は物理学者でありますから、自然界そのものについては、一生懸命探求をしておって、俳句のような見方とは全く違う見方であるけれども、いつも相手となるところのものは自然であり、四六時中そんなものを相手にしているのは、やっぱりいやになることがあるわけです。それとは全く別なもの、客観性と主観性という言葉で申しますならば、できるだけ自分の主観性というものを生かせる。あるいは知性とか理性というものに対して、人間の感性、感覚、情緒というものを表に出せる、それを生かせるような、そういう活動の場もほしいわけです。そういう気持ちの表現が和歌をつくるという形でときどきあらわれてくるわけです。(「和歌について」より)
なぜ俳句でなく和歌(短歌)なのか、ということも上の文からも理解できます。さらに湯川先生は、
年がら年じゅう物理のことばかり考えて、それで一生終わるというのは本当に人間らしい生き方ではないと私は思っている。
ともおっしゃっています。これは、寺田寅彦とも重なる姿勢だと思います。程度の差はあれ、一人の人間に理系的要素と文系的要素があるとするなら、年を重ねるに従って、理系であっても文系的感性が人生を豊かにしてくれることがあるのではないか。理系の視点に文系の視点を加えることで、思考や想像力の次元が広がり、より豊かな発想が得られるのではないか。そのような意志の表明ともいえるものが、上の湯川先生の和歌に対する考えに含まれているように思います。現今の日本社会を、もし湯川先生がご覧になったら何とおっしゃるでしょう。
そうした意味でも、湯川秀樹と三十一文字の世界には、文理の垣根をこえた奥深い宇宙が広がっています。第3号の中でも案内してありますが、9月21日(水)に、細川先生がパネリストの一人として登壇され、「湯川秀樹の短歌」と題する公開講座が現代歌人協会主催で行われます。理系の方にもぜひ興味をもって頂ければ幸いです。
とくに、細川先生の解説中でも触れられている、歌人の吉井勇と湯川先生との交流は、同人誌「乗合船」を通しても知られており、2015年の夏には、湯川先生から吉井勇宛の未公開書簡も細川先生によって発表されました。「吉井勇全歌集」(中公文庫)には、細川先生の解説もありますので、こちらも興味のある方はぜひお読みください。
追記:
上で案内した現代歌人協会主催の公開講座「湯川秀樹の短歌」が、去る2016年9月21日に東京神田の学士会館にて行われました。聴講させていただき、細川光洋先生の講演が素晴らしかったのは何より、歌を詠み上げられる先生の声も朗々としたもので、聴講者の胸に心地よく響きました。さらに、栗木京子さんと司会の渡英子さんとの3人のパネルディスカッションも非常に関心を深めるものでした。
それぞれの視点で選ばれた歌の中に、“天地(あめつち)”という言葉の入った歌が共通してあったことは、個人的に興味深かったです。湯川先生は李白が好きで、とくに「天地(あめつち)は万物の逆旅(げきりょ)にして、光陰は百代の過客なり」という、芭蕉も気に入っていた李白の文章から、ご自身の歌(「天地は 逆旅なるかも 鳥も人も いづこよりか来て、いづこにか去る」)を詠まれています。庭に入れ替わり立ち替わりやってくる鳥を見ていて表現されたこの歌は、哲学的な響きと合わせて、“逆旅”(仮りの宿りというニュアンス)の中に、湯川先生がひときわ親近感を持たれていた西行法師と共通する漂泊のイメージも浮かばせます。個人的には一番好きな歌で、湯川先生の厭世観であったり、自伝エッセイ『旅人』ともおぼろげに重ね合わせてしまうところがあります。
湯川先生の歌は、これまで主に全集などでしか読むことができませんでしたが、この度、細川先生による精撰で講談社文芸文庫より『湯川秀樹歌文集』が刊行されました。和歌のほか随筆も収載されており、湯川先生の歌に多く親しんで頂けると思います。読んだことがない方は、この機会にぜひ触れてみてください。
また、第3号で紹介した随筆「京の山」が初めて載った同人誌『洛味』が入手できましたので、その表紙などもアップしておきます。京都在住の文化人たちによって手掛けられていた文化誌だけに、とても味わい深い印象を受けます。