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彼岸前の糸瓜忌に思う、子規と漱石と寅彦と虚子

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彼岸前の糸瓜忌に思う、子規と漱石と寅彦と虚子

今年(2017年)は正岡子規と夏目漱石 二人の生誕150年の節目にあたります。とくに、子規の命日である9月19日は、毎年糸瓜(へちま)忌として関連施設等()で催し物が開かれます。

なぜ“糸瓜”なのかは、子規の辞世の三句がすべて糸瓜を詠んだ句であったことに由来します。その三句とは、「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」。へちまの水は旧暦8月15日に取るのが習いでしたが、当時亡くなる直前の子規にはそれができなかった、その無念さを詠んだ句です。

寺田寅彦の書いたものには、いくつか子規の登場する話があります。もちろん、子規との邂逅は漱石を通じてのものでしたし、そのことについては以前、この備忘録でも触れました()。今回は糸瓜忌も近いということで、子規の亡くなった頃の様子について、寅彦や漱石の文、それから高浜虚子の回想などを通して触れてみたいと思います。

寅彦を語る上で漱石の存在を欠かすことができないのと同様に、漱石を語る上で子規の存在を抜かすことはできません。寅彦が子規について書いた作品は、「根岸庵を訪う記」(明治32年9月)「子規自筆の根岸地図」(昭和9年8月)「子規の追憶」(昭和3年9月)などがあり、ローマ字随筆でも「HAZIMETE MASAOKASAN NI ATTA TOKI」(大正7年10月)と題するものもあります。このローマ字随筆には、「根岸庵を訪う記」とは少し異なる表現で、初めて子規と出会った時の印象を綴った文がありますので、邦字表記のほうで紹介します。

如何にも大病らしく青白い頬はこけているが、大きな切れ長な目の中には一種の力強い光があって、向き合った人の腹の奥底まで見透さねばおかないというように思われた。

(「初めて正岡さんに会った時」より)

叙情に流されるのを抑え、ローマ字文らしくリズミカルな音の響きを意識して書かれた文だと思います。

一方で、同郷の出として子規と一緒に行を共にしてきた高浜虚子の『子規居士と余』(日月社、大正4年)の中に、子規の亡くなった日のことについて、叙情を漂わせながら書いている箇所があるので紹介します。(子規居士は子規の戒名)

妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足(はだし)のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。

余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門(かど)を出た。

その時であった、さっきよりももっともっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかというような心持がした。

子 規 逝 く や 十 七 日 の 月 明 に

そういう語呂が口のうちに呟かれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。

真夜中の月明りの中で、逝ったばかりの子規のけはいを感じとっている虚子の内面の動きが、絶妙な筆運びで描き出されています。子規が生涯提唱してきた写生の精神を受け継いだ冷静な眼で、的確に事実をとらえ語っているところが、子規の妹が狼狽する姿を、より重さをもって伝えているようにも思います。

この後、子規の葬儀での虚子の姿をとらえた寅彦の一文が、「高浜さんと私」(昭和5年4月)にありますので抜粋しておきます。

子規の葬式の日、田端の寺の門前に立って会葬者を見送っていた人々の中に、ひどく憔悴したような虚子の顔を見出したことも、想い出すことの一つである。

子規の葬儀のことについては、寅彦日記の明治35年9月21日付にも、

朝新聞を見たれば今朝九時子規子の葬式ある由故不取敢行く。御院殿の踏切を超ゆる時、行列に出会い、其儘従い行く。夏目先生代理として湯浅君も会葬せり。田端大龍寺にて焼香。立上る香の煙、読経の声そゞろに心を動かして棺の前に君が面影を思ひ浮べぬ。

と記録されており、漱石不在の中、執り行われた葬儀の様子が寅彦の心情も加えて書かれています。漱石はこのときまだロンドンにいました。この葬儀の後、12月1日付の虚子(高浜清)宛の手紙に、子規訃報に接しての漱石の言葉がおくられています。このロンドン滞在中の漱石は心身共に疲弊していたことはよく知られますが、この手紙の直後の12月5日には日本に帰国しています。この手紙の最後に「倫敦にて子規の訃を聞きて」と前置きして俳句五句が詠まれているので紹介しておきます。

筒 袖 や 秋 の 棺 に し た が は ず

手 向 く べ き 線 香 も な く て 暮 の 秋

霧 黄 な る 市(まち) に 動 く や 影 法 師

き り ぎ り す の 昔 を 忍 び 帰 る べ し

招 か ざ る 薄(すすき) に 帰 り 来 る 人 ぞ

遠く隔てられた異国の地にあって、複雑な感慨をもって親友の死を見つめている情景が感じ取れます。“きりぎりす”は子規の若かりし頃に作成した漢詩文集『七艸集』を想起させています。漱石は帰国後、無題で子規のことを書き綴っているものがありますので、これは全文引用しておきます。

水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬもの亦年を逐ひ日をかさねて消えんとす。定住は求め難く不壊は尋ぬべからず。汝の心われを残して消えたる如く吾の意識も世をすてて消る時来るべし水の泡のそれの如き死は獨り汝の上のみにあらねば消えざる汝が記臆(原文ママ)のわが心に宿るも泡粒の吾命ある間のみ

淡き水の泡よ消えて何物をか蔵む汝は嘗て三十六年の泡を有ちぬ生ける其泡よ愛ある泡なりき信ある泡なりき憎悪多き泡なりき[一字不明]しては皮肉なる泡なりきわが泡若干歳ぞ死ぬ事を心掛けねばいつ破るゝと云ふ事を知らず只破れざる泡の中に汝が影ありて前世の憂を夢に見るが如き心地す時に一辨の香を燻じて此影を昔しの形に返さんと思へば烟りたなびきわたりて捕ふるにものなく敲くに響なきは頼み難き曲者なり罪業の風烈しく浮世を吹きまくりて愁人の夢を破るとき随處に聲ありて死々と叫ぶ片月窓の隙より寒き光をもたらして曰く罪業の影ちらつきて定かならず死の影は静かなれども土臭し今汝の影定かならず亦土臭し汝は罪業と死とを合せ得たるものなり

霜白く空重き日なりき我西土より帰りて始めて汝が墓門に入る爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たりわれこの棒杭を周る事三度花をも捧げず水も手向けず只この棒杭を周る事三度にして去れり我は只汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ

(明治三十六年頃)

この文こそ、子規の葬儀に参列できなかった漱石が、本来なら読むべきはずの弔辞だったのかもしれません。二人の間でなければ語ってもわからぬものが存在していたからこそ、この短文には、一文一文、言葉の接ぎ目から、子規への余情をたたえた漱石の心の哀切がこぼれ出てくるような思いがします。

上で紹介した明治35年12月1日付で虚子宛にロンドンから送った漱石の手紙には、「同人生前の事につき何か書けとの仰せ承知は致し候へども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。と断りを入れていましたが、帰国後に子規亡き日本の土を踏み、改めて漱石の心にわき出てきた思いが上の無題文として結晶したと言えます。

近代小説の英雄ともなった漱石、もし子規と出会っていなかったら、作家漱石は誕生しなかったでしょう。そして、その漱石を通して「ホトゝギス」でデビューを果たした寅彦もまた同様に、後の随筆家としての存在はあり得なかったでしょう。それだけに子規の及ぼした影響は偉大であったと改めて思います。

「ホトゝギス」に載った寅彦の初期作品は『藪柑子集』(大正12年、岩波書店)に纏められました。その後書に寄せた小宮豊隆の一文「明治の文学史を編もうとする者は、明治の文壇の一つの流れの上に於ける『藪柑子集』の位置を、決して見遁がす事を許されない。」からも、「ホトゝギス」が生み出した寅彦の力の大きさを判じることができると思います。(第2号で紹介した「窮理日記」は、『藪柑子集』には収まりませんでしたが子規在世中に投稿されたものです。

大好きだったベースボール。その白球を今でも追いかけている子規の姿を思い描きながら、長くなった本稿を終りとします。

卯 の 花 を め が け て き た か 時 鳥

卯 の 花 の 散 る ま で 鳴 く か 子 規

 

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