科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

「お月見と台風」と「日本人の自然観」

  • HOME »
  • 「お月見と台風」と「日本人の自然観」

「お月見と台風」と「日本人の自然観」

藤原咲平と寺田寅彦、二人が亡くなる直前に書き遺したものは、表題に掲げた「お月見と台風」(藤原咲平)と「日本人の自然観」(寺田寅彦)です。

この稿を書いている現在、暦は中秋の名月(十五夜)の季節になりました。今回は、二人の絶筆作品に触れながら、そんな日本古来から伝わる自然観や古事についての話を書いてみたいと思います。

第7号で紹介した藤原咲平は、昭和25年(1950年)9月22日に67歳で亡くなりました。その亡くなる約一月前に上の「お月見と台風」を書き、その結びの節に「十三夜」について触れていますので、当時の掲載誌の画像(冒頭頁)も合わせて以下に紹介します。

お月見と台風(藤原咲平)冒頭さて立秋がすでに八月八日に過き去ったが、暑さはその後に更に幾分強くなった。統計してみればこの立秋頃は日本では夏の一番暑い盛りである。どうしてこんな暑い時を立秋等と名づけたのであろうか。これは本当は日本の事ではない。大陸では七月が一番暑い月で八月となるともう涼風が立ち初める。だから立秋といって極めて適切である。しかし日本は海上にある為に極暑期も極寒期も共に半月位は遅れる。それで立秋頃や、立春頃が一番暑かったり寒かったりする。

秋が立てば大陸では次第に空気が澄み、晴がちになり月が美しく冴える。だから蘇東坡の赤壁の賦では舟遊びをしたのが七月の既望となっている。だが一番よい月は仲秋明月と云って旧暦八月十五日である。今の暦にすれば大体一月遅れであるから、七月というのが八月で八月と云うのが九月頃になる。今年の仲秋名月は暦で見ると九月二十六日になっておる。ところが日本では九月は台風月、雨降月である。その為に徳川時代頃から漢学ばりの文人墨客達が気負って仲秋観月の詩等作り仲間を集めて月見の宴を準備しておっても、月は雨雲に隠れていっかな顔を見せない。月のない明月の詩を賞め合って、お酒を飲んで散会となる様な場合が、何時も何時もおこった。

今私は病気で調べ物も何も出来ないから、その起原や時代は解らないが、兎も角民間では十五夜の外に十三夜を祭ったものである。大きなお月様位なお飾餅を作り、大根や、ススキの花等をそえて屋根の上に出してお月様にそなえ家族子供達は縁側に出てその餅のお残りをあんこをつけて美味しく戴いたものである。所によると十五夜には野にある畑物、枝豆とか南瓜とか柿とかを子供に限って其晩食べる分丈はいくら取ってもかまわないと云う所もある。今でもこの様な風俗が未だに残っておる所も日本中にはどこかにあるであろうが、この晩秋すなわち十月頃だとたいがいは美しいお月様が見える。今年の暦では十三夜が十月二十四日になる。満月は二十六日である。どうしてこの後の月を十五夜に祝わないで十三夜に祝うのか。これも古事が調べられないから、正確には云えないが、多分気温の関係かと思う。この頃になると気温が下って夜にもなるとひたひたと肌寒になって来る。東京付近では十五度位から十二、三度に下る程度だろう。それでお月様が出て丁度見頃に昇るのが二十六日だと七時半か八時頃になる。十三夜だと月の出が五十分位早いので月の見頃が六時から七時頃になる。その頃だとそれ程寒くも有るまいからお月様を愉しんで望める事になる。この辺の理由からお月様は未だ少し丸味がたりないが美しい光は充分だから、十三夜が祝われたのであろう。

(『心』1950年10月号「お月見と台風」「四、十三夜」より抜粋)

上の文にもあるとおり、中秋の名月(十五夜)の時期は彼岸の明ける頃で、今年(2017年)は少し遅れて10月4日になります。確かにこの時期は雨雲に覆われることが多く、そのように月をみることができない事を江戸時代には「無月」と言って、敢えてそれを詠んだ俳句もあるほどでした。見えない月を俳句に取り入れるあたり、日本人の風流心を感じさせます。

一方で、咲平先生が上で紹介した「十三夜」という民間の風習も、日本人らしい雅俗です。この十三夜は、今年(2017年)は11月1日にあたっています。十五夜だけでなく、たまには十三夜を祝ってみるのも一興かもしれません。

さて、こうした雅俗の中のもう一つに、第7号で細川光洋先生に咲平先生の短歌を通しても挙げていただいた「雲の大和名」があります。これは幸田露伴の随筆「雲のいろいろ」でも多く取り上げられており、咲平先生の随筆でもいくつか解説されていますので、以下に部分引用しながら紹介したいと思います。

大和名については、随筆「旅と天候」の中に、

雲の大和名1雲の大和名2水まさ雲、蛇雲、とさか雲等は雨になり、ほそまい雲、から上げ、晴れ積雲などでは天気が続くとか、又東風は雨、西風は晴れだが、梅雨頃から夏にかけては、それが逆になる場合があるとか、又地方で天気の癖があるとかの類で、この外漁師等は風雲の見方をよく心得て居ります。これ等は漁師等の個人の経験から體得したものではなくて、既に足利時代に出た操船要術と云ふ様な古書に記されてある事で、それを昔、名主等のような指導者達が読んで漁師や百姓に教へ、それが口傳へで残つて居るものゝ様に考へられます。

(『気象ノート』昭和23年、蓼科書房より)

と、それぞれ雲の絵と合わせながらユニークな形で由来などが紹介されています。「旅に出る場合に、昔はきつと雨具の用意をしたものです。」から始まるこの随筆では、旅につきものである天候予測について、上のような大和名の雲を紹介しながら、素人でも楽しめる天気予測法を案内しています。「空模様は時間の経つにつれてもかはり、山一つかはしても変ります。その空模様から天気を予想するのです。(中略)当れば愉快、外れた場合は忘れてしまひます。と、咲平先生は素人天気予報をくつろいだ雰囲気で推奨しています。

まさに、第7号で取り上げた随筆「自然研究の樂しみ」の一文

朝夕雲を眺め、その細かい行動に注意して居れば、不規則と見えた雲にも整然たるものがあり、無意味であるかの如き所に意義を発見する。遂には、雲のさゝやきを聞き得る様な心境にも達する。

とも通じる心であり、旅に出ながら空を眺める楽しみを咲平先生は伝えようとしています。雲の大和名を通して「雲のさゝやき」を聞くもう一つの道を示したと言えるでしょう。

同様に、露伴翁も「雲のさゝやき」を自覚した一人でした。その随筆「雲のいろいろ」の中の冒頭にあざやかに据えられた一節「夜の雲」には、露伴翁のある種の悟りの境地のような心境が綴られています。

夜の雲

夏より秋にかけての夜、美しさいふばかり無き雲を見ることあり。都会の人多くは心づかぬなるべし。舟に乗りて灘を行く折、天(そら)暗く水黒くして月星の光り洩れず、舷を打つ浪のみ青白く騒立(さわだ)ちて心細く覚ゆる沖中に、夜は丑三つともおもはるゝ頃、艙上に独り立つて海風の面を吹くがまゝ衣袂(いべい)湿りて重きをも問はず、寝られぬ旅の情を遣らんと詩など吟ずる時、いなづま忽として起りて、水天一斉に凄じき色に明るくなり、千畳万畳の濤の頭は白銀の簪(かざし)したる如く輝き立つかと見れば、怪しき岩の如く獣の如く山の如く鬼の如く空に峙(そばだ)ち蟠(わだか)まり居し雲の、皆黄金色の笹縁(さゝべり)つけて、いとおごそかに、人の眼を驚かしたる、云はんかたなく美し。

(「反省雜誌」明治30年(1987年)8月号)

この露伴翁の「雲のいろいろ」にも、多くの大和名の雲が登場します。そして何より、四季折々の雲に注ぐその細やかな心情が鮮烈に描かれています。

以上のような雲の大和名の他にも、咲平先生は民間に伝わる気象予報の類も多く紹介しています。代表的な著作である『雲を掴む話』(岩波書店、大正15年)には「天気予報の今昔」と題した節に、動植物の様子動作などにより天気を判断する話を書いています。民俗学とも通じる興味深い内容で、例えば、蛙が鳴いたり、鰹節を削るに柔らかいのは雨兆とか、夕方子供の喧噪するのも雨兆といったもの、他にも、植物や鉱物、虫、鳥に関連した予報など、その多様さに驚かされます。

また、「梅雨のために」という随筆では、日本ならではの風土的性格を重んじた農業にも言及しており、

いやにじめじめした天気だと口をそろえて嫌うこの梅雨なるものも、これあるがために稲の移植ができ、そのためにマレイ辺りのバラ蒔(まき)に比して数倍の収穫を増していることを思えば、われわれ梅雨に対して絶大の感謝を捧げてよいのである。

(中略)広重の絵などにも田植といえばみのと傘とが付きものである。あの田植、俳句では早苗取りこれらこそは西洋人にはわかるまいが、われわれ日本人の最も美を感ずる真情景である。

(『気象と人生』昭和5年、鉄塔書院より)

と、梅雨がもたらす日本的感性と情緒を強調しています。こうした日本古来に伝わる独自の気象判断や暦、農業などへの咲平先生の捉え方には、寅彦先生が亡くなる直前に書き遺した大作「日本人の自然観」とも繋がる大きな思想の流れを感じます。寅彦先生はこの絶筆の中で、雨の降り方の名称についてその日本的特色を挙げており、例えば、春雨、五月雨、しぐれ、といった語彙に適切な訳語を外国語から見出すのは難しいだろうと鋭く指摘しています。いわんや雲の大和名をや、でしょう。

咲平先生が様々な随筆を通して論じてきた、いわゆる日本文化論は、寅彦先生が「日本人の自然観」を書くに影響を受けたという和辻哲郎の『風土』(岩波書店、昭和10年)や、咲平先生に本を貸したと寅彦日記にも明記されている長谷川如是閑の思想(例えば「日本的性格」など)も背景にあるのではないかと感じます。文化論についてはまた別の機会に紹介できればと思います。

一方で、グライダーを愛した咲平先生は、自らの肉体を通して、風の動きや空気の乾湿などを感じ取り、「自然と語る」極意を掴んでいったことも確かです。

激しい異常気象に見舞われることが多くなった今日、上で紹介したような古事を自然に感じることが難しいほど、ある意味で今は失われてしまった風物もあるでしょう。しかし、露伴翁、寅彦先生、咲平先生に倣い、忙中の寸暇にこそ天を仰ぎ、「雲のさゝやき」に耳を傾けてみたいと思うこの頃です。

草に寝て青空見れば天と地と吾との外に何物もなし  晴曇士

 

備忘録indexへ

 

PAGETOP
Copyright © 窮理舎 All Rights Reserved.