科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

鈴木三重吉『赤い鳥』が生んだ、寺田寅彦「茶碗の湯」に見る、漱石と子規の遺伝子

  • HOME »
  • 鈴木三重吉『赤い鳥』が生んだ、寺田寅彦「茶碗の湯」に見る、漱石と子規の遺伝子

鈴木三重吉『赤い鳥』が生んだ、寺田寅彦「茶碗の湯」に見る、漱石と子規の遺伝子

2019年5月1日に発行した『科学絵本 茶わんの湯』に関連して、本項では、寺田寅彦の「茶碗の湯」の文体について触れてみたいと思います。

きっかけは、「鈴木三重吉 赤い鳥の会」会長の長崎氏から頂いた一部資料(『赤い鳥』の科学読み物、小田迪夫、1980年6月『三重吉「赤い鳥」通信』)でした。そこには、鈴木三重吉が、科学者に書かせた文章をどのように手直しして、どのような文体の科学読物に仕上げていたのか、について非常に興味深い指摘がなされていました。

資料著者の小田氏は、『赤い鳥』に掲載された科学読物の中で、動物学者の内田亨氏の書いた「蟻地獄」の文の中に、三重吉の文章の調子を感じとられています。せっかくなので、「蟻地獄」のその箇所を引用しておきます。

・・・・。箱の用意が出来たらば、その土なり鋸屑の上なりへ、蟻地獄を倒さにおいて、見てゐて御覧なさい。四五分間は、そのまゝ、じっとしてをりますが、その中に急にはね起きて、ぢりぢりと後ずさりをしながら、中へもぐり込んで行きます。お尻で土を分け、円く輪をゑがいて頭の先についてゐる、大きな鋭い牙をシャベルの代りに使って、土をはね上げて、後向きのまゝ下へ下へとさがって行くのです。そして下になるほどだんだんに輪が小さくなって、翌る朝までには、すっかり、すり鉢なりの巣をこしらへ上げてしまひます。それからは、お天気のいゝ日には、穴のくぼみを大きくして、底のところから頭の先だけつき出しながら、牙をひろげ、鬚のやうな触角を延ばして何か食べものになる虫が、穴の中へすべり落ちて来るのを待ってをります。・・・・

(『赤い鳥』第八巻第三号67頁)

小田氏は、この文章には、三重吉の『綴方読本』に説かれている“展開叙述”の方法が実践されており、まぎれもなく「読み手を科学の世界に誘い入れようと努め」る三重吉の思いが読み取れると言います。合わせて、この『綴方読本』の三重吉の文章を引いておきます。

要するに綴方作品の芸術的価値としての狙ひどころは、普通は一に実感的な写出に尽きてゐるものとしなければならない。

(鈴木三重吉『綴方読本』517頁)

三重吉は「自然現象や動植物の生態の説明にも、この実感的描写を適用」し、更に、「見てゐて御覧なさい」とある文は、教科書にあるような観察を指示する単純な説明文ではなく、あたかも蟻地獄を目の前で見ているような生き生きとしたイメージが伝わるように書かれている、と小田氏は続けます。その補足として、三重吉が永島信吉氏にあてた手紙の文を紹介しています。

国定教科書は、多少改良されても、タカがしれてゐます。根本の欠点は、日本語の生きた表現がないこと、取材や叙写が児童の生きた感覚・感情・想像をとり入れ得ないことです。

このことについて、長崎氏も、「三重吉が求めたのは、単なる知識伝達ではなく「児童の生きた感覚・感情・想像」に訴える読み物としての科学的説明文でした。」と書かれており、いうなればそれが、“『赤い鳥』科学読物の文体の先駆性”であると小田氏も特筆されています。

こうしてみると、「茶碗の湯」に書かれている3箇所の「御覧なさい」にも、上と同様に、三重吉の求めた“生きた表現”の痕跡が認められます。それは、川島禎子先生が文学解説で指摘されているように、寅彦もまた、三重吉同様に、写生の文体を正岡子規や師の夏目漱石を通して培ってきており、それが三重吉のいう叙写や写出といった“生きた表現”と見事に重なり、この名作の完成に結実しているのだと思います。まさに、画家の津田青楓のいった言葉どおり、「寅彦も三重吉も漱石の血が通っている」のでした。

寅彦は、この「茶碗の湯」を書く4年前、同じ子ども向けに書いた「夏の小半日」を『ローマ字少年』に寄稿しています(大正7年8月)。この大正7年8月といえば、まさに三重吉が『赤い鳥』を創刊した時期と重なります。寅彦はこの「夏の小半日」で、叙写を取り入れた「ご覧なさい」の文体を既にしたためています。それどころか、結びまで「茶碗の湯」と瓜二つの文章で仕上げているのです。参考に一部を挙げておきます。

遠浅の浜べで潮の引いた時、砂の上にきれいなさざ波のような模様が現われる事があります。これは細かい砂の上で、水があちらこちらと往復運動をするためにできるものです。何か浅い箱か盥(たらい)のようなものがあったら、その底へ細かい砂を少し入れ、その上に水を入れて静かにゆさぶってみるとおおよそこのような模様のでき方を実験する事ができます。また機会があったら水の底にできているこの波形の波長を計ってごらんなさい。通例、深い所ほど波長が短くなっているでしょう。

(中略)

海岸では晴れた夏の日の午前にはたいてい風が弱くて、午後になると沖のほうから涼しい風が吹き出します。これは海軟風ととなえるもので、地方によりいろいろな方言があります。陸地の上の空気は海上よりも強くあたたまり、膨張して高い所の空気が持ち上がるから、そこで海のほうへあふれ出すので、それを補うため、下では海面から陸のほうへ空気が流れ込むのがすなわちこの風です。それだから海軟風の吹く前には、空の高い所では逆の風が吹き出すわけです。

海軟風は沖のほうから吹き始め、だんだん陸に近よって来ます。浜べはまだ風がなく蒸し暑くて海面が油を流したようにギラギラして、空を映している時、沖のほうの海面がきわ立って黒くなって来るのがよく見える事があります。これは沖から寄せて来る風のために、海面がさざ波立って空が映らなくなり、そのかわり海水の色が透いて見えるためであります。この黒い所が浜べに近づいて来ると、もうそよそよと涼しい風を感じるようになります。

浜べで見られるおもしろい現象もまだいろいろありますが、またいつかお話ししましょう。

いかがでしょうか。随所に見られる文体に、すでに三重吉が求めていた“生きた日本語の表現”である写生の精神が宿っていることが十分に読みとれるかと思います。

そして、実は当り前ではあるのですが、面白いことに、二人に宛てた漱石の手紙をそれぞれ読んでみると、所々に「ご覧なさい」や「御覧」が出てくるのです。参考に、三重吉が名作「千鳥」を書くきっかけとなった漱石の言葉も挙げておきます。話の流れは、三重吉が神経衰弱で休学して故郷の広島の能美島で療養していたときの手紙です。

(前文まで略)君は島へ渡ったそうですね。何かそれを材料にして写生文でも又は小説の様なものでもかいて御覧なさい。吾々には到底想像のつかない面白い事が沢山あるに相違ない。文章はかく種さえあれば誰でもかけるものだと思います。・・・・・

(明治38年11月10日、鈴木三重吉宛夏目金之助書簡より)

三重吉は漱石のこのすすめに従って「千鳥」を書き上げ、結果としてそれが『ホトトギス』に掲載され、一躍文壇デビューとなったことも不思議な廻り合わせです。療養に関連していえば、寅彦にも「嵐」という名品があり、これも漱石を通して『ホトトギス』に載っており、そう考えるとますます、二人には“漱石の血が通って”いるわけです。

川島先生の解説にあるように、三重吉は自身の小説の原点に、寅彦の「団栗」をあげるほど、寅彦の抒情性には傾倒していました。三重吉が寅彦に『赤い鳥』への原稿を求め、それが「茶碗の湯」という作品で寄稿されたとき、おそらく三重吉は、自身の求めていた“科学読物の文体”と見事に一致した寅彦の文章を読み、俄然得心したのではないか、個人的にはそう考えたいのですが、読者の皆さまはどのようにお感じでしょうか。

最後に、そのことを裏づけると思われる、三重吉が寅彦について書いた『渋柿』の文章を紹介しておきます。

私の二十四での最初の創作の刺戟は尤も近接的には『団栗』から得たと言ってよい。それ以来、寺田さんはいつまでたっても、終に最後まで『団栗』の中の寺田さんのように思われていた。しかし結局、これは私のハルシネイション(幻覚)だけのものとは言えないようである。どこまでも、貴く、なつかしき寺田さんよ

(鈴木三重吉「寺田さんの作篇」より)

 

備忘録indexへ

 

PAGETOP
Copyright © 窮理舎 All Rights Reserved.