哲学することの始まり――梅園と露伴へ通じる論理学
第12号では、野矢茂樹先生に「ただひたすら哲学する」と題して、物理学から哲学に転身した大家の大森荘蔵先生を紹介していただきました。野矢先生は、大森荘蔵先生の姿を通して、「哲学を研究するとは、自ら哲学することであり、哲学するとは、哲学問題をとことん考えること」だと説かれ、大森先生のように「裸一貫で哲学問題に立ち向かう姿勢」にあこがれている、と締め括られています。
では、哲学問題とは何か、という話は第12号を読んでいただくとして、ここではもっと平易に、哲学することの始まり、つまり、考えるという行為に必要なこととは何かについて取りあげてみたいと思います。
結論から言ってしまうと、考える技術にはそれなりのコツのようなものがあるということです。上に挙げた哲学問題というのも、何かしらの問題そのものを問う、ということであり、それには言葉や言語を身につけることも必要です。そして、最も役に立つのが本項のテーマである論理学を使うことです。
では論理学ってなんだ、ということになるわけですが、論理とはそもそも考えないためにある。と言ってしまうと逆説的になってしまいますが、一言でいうなら、ある前提から結論を導く道筋にかかわること、と言えましょう。例えば、
鳥は空を飛ぶ。
燕は空を飛ぶ。
だから、燕は鳥だ。
という三段論法で見ると、上の例は偶然うまく噛み合いましたが、もし
鳥は空を飛ぶ。
飛行機は空を飛ぶ。
だから、飛行機は鳥だ。
となると、もう論理的じゃなくなります。この例で大事なのは、「鳥は空を飛ぶ」という前提の意味をはっきりさせることです。結論はそこに書かれてあり、書かれていない結論を引き出すと、飛躍ができてしまい論理的でなくなります。この例をもう少し拡張して、
AはB。
CはB。
だから、CはA。
としたらどうでしょう。上の例などと合わせてみると、この推論では、「AはB」の「は」の意味をどうするかに肝があることが分かります。このように、推論のかたち(形式)をとことん研究するのが論理学であり、いま挙げた「は」という言葉のほか、「または」「かつ」「ではない」といった言葉をもっと深めていくと命題論理学という学問になっていきます。論理学自体はギリシア時代まで遡る歴史の深い学問です。
この論理学の世界を、タブローという図を用いて明解に分析する手法を解説したテキストが、最近やまなみ書房から『形式論理探究 第1巻』として刊行されました(→)。著者の高木翼氏は、哲学科の現役大学生(2019年現在)という才気にあふれた方です。とにかく将来が頼もしい!
この本の前書きがわかりやすいので、高木氏が書かれた説明を少し紹介してみましょう。
形式論理とは、経験によって得られる個別の内容ではなく、論証の形式に注目する論理である。人が何を思い、そして何を考えるかということは、その人の個人的な経験によって左右されるが、推論の形式は客観的に決まっている。そこで、経験という個人がもつ主観的な体験に左右されずに、誰もが納得できるような、論理の客観的な側面に注目したのが形式論理であるといえるだろう。
そして、このテキストでは論理学の基礎として、命題論理と述語論理の二つをしっかり解説してくれた上で、より複雑な問題への応用のために、タブローという図法が更に解説されています。ここで命題論理とは、上で例に示したような推論の形から一つの文(命題)を分析する話で、述語論理とは、主語と述語の間の関係を分析する話で、例えば「○○は猫が好きだ」といった文を扱えるようになる論理手法です。このテキストは、上で挙げた「かつ」「または」「ではない」といった論理を記号化する話(連言、而立的選言、否定など)から始まり、各章豊富な確認問題を通してしっかり精通できるような仕組みになっており、章ごとの演習問題も付いています。まさに、考えることを始めたい、初学者にお薦めの一冊です。
さて、このようなギリシア時代に端を発する論理学の世界ですが、我が国ではどうだったのか気になります。
全く同じではありませんが、非常に緻密な思想体系をつくりあげた人物がいます。本誌の第2号で佐藤文隆先生に紹介して頂いた、三浦梅園がまさにその筆頭です。梅園は、論理学のなかった日本に、日本人独自の論理思想を生み出しました。これも詳しくは第2号を読んでいただきたいのですが、梅園の創唱したものは「条理」という学問でした。事物の間に必ず条理があるという考えは梅園以前にもありましたが、自然そのものの知識や関心から「条理」の思想体系をつくりあげたのは梅園が最初です。
例えば、上に挙げた形式論理と似たような例でいうと、自然界には「気」が満ちているが、「気」を語るには必ず「物」をもって来なければならず、「気」は「物」と対立して初めて意味のあるものとなる、といったように、梅園の論理思想には対立概念が全体を貫いています。「反観合一」という梅園の思想もこれに基づくものです。このような反対や対立、矛盾の意義について考えたのは、西洋ではヘーゲルが挙げられます。そして、古来より「条理」とは筋目の立っていることを意味しますので、まさに形式論理的法則があるわけです。
梅園の「条理」では、「気」であったり「物」「理」「故」「没」「露」といった諸々の対立概念が多く出てきます。その当時、梅園は中国からの学問を基礎として、このような論理思想を打ち立てていったのですが、そこには西洋からの学問が全くなかったというところが驚嘆すべき点です。
この梅園の思想の中核ともなる「対立」や「矛盾」の概念には、上の形式論理でいう「ではない」という否定の論理が含まれています。この否定の論理には不思議なものがあり、「ではない」と言ったとたんに、「ない」ものが現れます。否定することで、そこにないものを見てとることができるのです。
この否定の不思議を追求した例として、幸田露伴の『血紅星』という面白い作品があるので、ちょっと紹介して結びとしたいと思います。この作品に登場する主人公は、皆非居士という万巻の書を読み尽くしたが故に全ての欠点が目にとまり、知らずのうちに「皆どれも非ず」の世界に没入してしまった男の、悲劇というか喜劇というか、まさに矛盾した世界観を表現した小説になっています。
例えば、その冒頭。
一も非なり二も非なり、三も非なれば四も非なり、五六七八九十、乃至百千万億悉皆非なり、昨日は素より非今日も又非昨日は又々非に極まったり、何かは知らず生れ出でしがそもそもの非、・・・・
といった具合に、漢文調でテンポよく、お経のように綿々とこの「非」の調子が続いていきます。ある日、この皆非居士に月界から美しい仙女がやって来て、月宮殿の姫宮が、万巻の書を読み尽くしたという皆非居士に会い、一篇の詩がほしいという。皆非は、自分の我が儘をきいてもらうのと引き替えに月世界へいきます。美酒に酔い、贅を尽くす中、皆非は、姫君の好きな題で詩を吟じてみせようと話すと、姫君は「皆非先生御自身を題にして御筆揮ふていただきたし」と優しい声で囁くや否や、
熱血霧となって八万四千の毛孔より飛び、黒烟頭上におこって奥歯の軋る音烈しく、見る見る眼は輝き渡り五体に火焔の燃え立つ途端、あっと一声叫ぶ刹那、身を躍らすこと八万由旬、血紅の光りを放つ怪星となって流れおつる無辺際空
と、まるで超新星爆発のようなカタストロフが起き、皆非居士は血紅星となって消えていった、という結末で終わります。
すべてを否定することで、すべてを包含する空なる星と化していった、という露伴らしい作品世界が描かれています。梅園の世界とも重なる皆非の世界。論理学と通じていることは面白いことだと思います。
¬ (∀x) P(x) ∈ ∅