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日本人の科学性――長岡半太郎の休学から考える長編論考

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日本人の科学性――長岡半太郎の休学から考える長編論考

君自故鄕來(君は故郷より来たる)
應知故鄕事(應に故郷の事を知るべし)
來日綺窓前(来たる日、綺窓の前)
寒梅著花未(寒梅 花を著けしや未だしや)
(「雑詩 其の二」王維)
君は故郷からやって来たのか。きっと故郷の事を知っているだろう。向こうを発って来る日、窓の前の寒梅はもう花をつけていたかい。それともまだだったかい。
 先日、いつものようにK先生からお電話があり、第15号の感想を聞かせて下さりました。長岡半太郎の話になったとき、K先生も長岡と同様のきっかけで物理の研究をしようと思ったという話になったのです。K先生は、当時森永晴彦先生が書かれた『自然』の記事「日本人にも科学ができるか?」(1976年1月号)を読み、そこから改めて御自身の物理研究の志を再確認したと言います。
 一体全体、自分が進もうとする分野に、その分野が好きだという事を除いて、自分の資質があるや否やを問うてから進む人が現代にどれくらいいるでしょうか。しかし、このことは長岡半太郎やK先生に限らず、先人たちほど悩まれたようにも思えます。一方で、K先生の時代から時を経て、日本の物理学が進展してきた現代に、今更ながら「日本人にも科学ができるか?」と問う必要はないのかもしれません。ただ、「日本人の科学性」というテーマ自体、小誌の大きなテーマであることも考え、いつもより長編ですがこの稿をまとめてみることにしました。
 まとめるに当たり、まずは自分たちの「故郷」(バックグラウンド)とは何なのか、ちょっと立ち止まりたくなり、冒頭の漢詩の問いが出てきました。そもそも立ち止まらなければ、このような問いを考える事もないでしょう。だから長岡半太郎は休学したのです。そう考えると「休む」ことも決して無駄ではないと思います。立ち止まっては進み、休んで考えてはまた進む。自らの資質やバックグラウンドを考えることに一体どんな意義があるのか、この稿でそれなりの輪郭ぐらいは描ければと思います。
 では、これから私たちの「故郷」について、特にその科学的資質について考えてみましょう。そこから自分の「故郷」の科学性について、どんな眺めが見えてくるのか、未来を考えるきっかけにできればと思います。
○東洋人に本当の科学の研究ができるか
 第15号の「随筆遺産発掘」では、長岡半太郎の「良審判官の必要」を取り上げました。細川光洋先生の解説では、長岡が休学してまで考えた見出しの問いから、その後の独創的な研究へと至る過程を紹介していただきました。とくに、長岡が惹かれ、その可能性を確信したという『荘子』をはじめとする東洋の思想は、湯川秀樹とも重なるものがありました。長岡は日本人の東洋的土台にその可能性をみたのです。現に、長岡を世界に知らしめた「土星型原子模型」の着想は、予備門時代に読んだ『訓蒙窮理問答』(ベーカー著、後藤達三訳編、明治5年)にそもそものヒントが隠されていたことが、マクスウェルの土星の環についての論文によるきっかけで繋がったと言われます。
 科学研究の資質を考える上で、何故に長岡を東洋へと向かわしめたのか。それは、もともと長岡自身が漢学(東洋史)をやるか物理をやるか迷うほどだったからとも言われますが、言い換えれば、それだけ漢学に精通していたが故にこそ東洋人の真の創造性というものに心を悩ませたのだと思います。詳しくは細川先生の解説をお読みいただくとして、ここでは、東洋人そして日本人にも科学的資質があるとするなら、ではその未来はどこに向かっていくべきなのか、とりわけ長岡以外の人たちはどう考えていたのかが気になります。
○長岡以降の先人たちが考えたこと
 明治人の長岡が悩んだように、その後進の人たちも似たような疑問を発していたようです。ここでは、長岡と縁のあった寺田寅彦や湯川秀樹らが言及したことを紹介しながら、日本人の科学性について考えてみます。とくに、K先生が触発されたという森永先生の論考を一つの軸に見ていこうと思います。
 森永先生はこの記事を執筆した70年代当時、ミュンヘン工科大学に籍を置いており、海外にいるが故に見えてきた「故郷」の姿を深く掘り下げた貴重な考察になっています。記事冒頭では、仁科芳雄がコペンハーゲンに滞在中、かのニールス・ボーアに「日本人でも科学ができるでしょうか」と聞いたという話が紹介され、そこからこの主題論考が始まっています。話の流れは、森永先生の知友の坂井光夫先生(当時、東大原子核研究所所長)から、仁科先生と同様の疑問を認めた手紙をもらったことが執筆のきっかけになっています。その内容は、仁科先生亡き後の菊池正士所長を経ての東大核研の曲折も関係する話ですが、ここでは話が逸れますので、仁科先生との思い出話や東大核研の話は略させていただき、その後からの本題を取り上げていきます。面白いことに、それぞれの先人たちの考えの中に多くの共通点が見られました。まずは森永論考で挙げられている項目を、順を追って紹介していきましょう。

・日本という精神的風土
 森永先生はこの見出しの節で、外国と比べて日本の精神的風土とはどんなものかを挙げ、とくにその発想法の違いに海外生活で気づいたことがしばしばあったと言います。それは端的にいえば、西洋的発想と東洋的発想の違いなるものですが、一つの例としてカントと孟子を挙げています。カントが弟子に、外敵により陥落間近となった市がある場合、陥落前に死刑を執行すべきかと問われたことに対して、それが市の法ならばすべし、と答えたと言います。一方で、孟子は弟子から、自分の父親が隣人から羊を盗んだらどうするかと問われたのに対して、父子の関係を尊重して訴えるな、と答えています。森永先生は、問いの中身は異なるが、社会のルールとの矛盾を扱った例として、このような発想法の違いは我々の文明生活の見えない所に隠れていて普段は気づかないが、時と場合により重要な決断の違いをもたらすと指摘されています。新型コロナウイルスの脅威にさらされている現下の日本でも、他国と比べて似たような相違は見られるのではないでしょうか。
 森永先生はカントと孟子を挙げたのですが、湯川先生は日本の精神的風土について、日本人の美的な感受性を指摘しています。その美的感受性は日本の美しい自然が育んできており、想像力など以上に日本人たらしめてきたと言います。それがために日本では西洋のような科学が発達しなかったと見る観点は、実は寺田寅彦とも重なります。寅彦先生は「日本人の自然観」の中で、湯川先生と同様な指摘をしており、なぜ日本で西洋と同じような科学が発達しなかったかについて、日本の自然の特異性が関与していることに触れながら次のように述べています。
日本の自然は西洋流の分析的科学の生れるためにはあまりに多彩で、あまりに無常であったかもしれないのである。
 無常なるが故の、自然の慈母の慈愛と厳父の厳しさ、それに順応するための経験的知識を収集し蓄積してきた結果、西洋の分析科学とは類型を異にした学問が発達した、と寅彦先生は見ています。
 更にこの三者に折り重なるようにして似た指摘をしているのが哲学者の三枝博音です。三枝先生は、自然に親しむ民族として日本人を捉え、日本人の自然への浸透は知性によるというよりも直接の情感によったと言います。それは俳句や南画などにも表れており、自然を愛し、自然と取り組む、それゆえに日本人の特長は、豊かに思想をつくることよりも日常の行動の仕方を豊富にすることに向かったのだというのです。これは寅彦先生の指摘と全くと言ってよいほど同じ感覚です。

・西洋的絶対と東洋的相対
 では、そのような日本の精神的風土は、西洋のそれと比較していかなる考えを生んだのでしょうか。そのことについて森永先生は、見出しのような概念の相違を挙げています。つまり、「西洋においては何か一つのルールがあって、万人それに従うことによって社会が成立し、東洋においては、まず目前のものないしは隣人があって、この延長として社会が存在するように思われる。」と。不思議なのはこの観点からも、新型コロナウイルスの影響で一律に都市をロックダウンした欧米と、他の都道府県と比較吟味しながら緊急事態宣言を行っていった日本の姿が重なります。
 これを三枝先生は概念的にどう捉えているかというと、
日本とヨーロッパ、一は精神的他は物質的、一は直観的他は分析的、一は体験的他は論理的、一は並列的他は構成的等々の一律的区分が、殆どすべての大小の日本文化特質論を左右している
と押さえつつ、
ヨーロッパにおいても、(中略)科学の根拠、、は自然が在る如くすべてのものが在る、、その存在にあったのである。私は簡単にするためにそれを存在の自然性、、、、、、という言葉で言い表わそうと思う。日本では学問に権威あらしめるものは存在の自然性にはなく、伝統の重視にあったのである。
(『日本の思想文化』より)
という指摘をしており、似たような視点を思わせます。
 森永先生は、上の話を物理での座標系の取り方(絶対的と相対的)に重ねて説明もしているのですが、もう一つ別の例としては、1ミリの雄ネジ1000個と1ミリの雌ネジ1000個、西洋的考えではどれも正確に1ミリで合わせるが、東洋的考えでは1000個の対がどれもお互いに合っていればよい、という譬えを挙げています。
 
・相違の歴史的背景
 ここまで見てきまして、今度は東洋と西洋の歴史的背景も見てみましょう。森永論考では、両者の違いを先の見出しに合わせて、絶対的な座標系と相対的な座標系という捉え方で分析しました。まず、西洋の絶対的な座標系の考え方はキリスト教の神の考えと同じであり、科学を「神の秩序をもとめる学とする西洋精神」によって位置づけ、その歴史は宗教と両立させてきたと見ます。これは上の三枝先生の指摘からいうと、構成的で論理的とも言える観点だと思います。
 一方で、東洋の相対的な座標系の考え方は人間関係を重視し、論語などの孔子の教えに端的に表れていると言います。これは、三枝流では並列的で体験的と言えるでしょう。森永先生はこの相違をさらに、東洋は媒達論的で微分方程式的な組立ての道徳観で、西洋は遠達論的で積分方程式的な考え方として対比させており、この辺りの指摘は上のカントと孟子の例とも重なってくるように思います。
 より歴史的に見ていくと、中世ヨーロッパの神学者たちは、上の三枝先生が言い表した「存在の自然性」という認識をすることで、その後の科学との両立を見出していきましたが、日本の同時代ではそれが無かった代わりに、「伝統の重視」という東洋の古代文化への方向性が見出されたように思います。
 ここで面白いのは、寺田門下の中谷宇吉郎の指摘です。宇吉郎先生は著書『科学と社会』において、敗戦日本の姿を描きながら、自身の携わってきた科学の社会的意義について幾つか鋭い視点をとられています。中でも、東洋と西洋の科学的土台の違いは中世時代の経験にあると看破しており、こと西洋で100年から200年も続いた科学者への迫害と虐待による暗黒時代の経験が、今日の西洋の力強い科学を生み出したのだと力説されています。そして、そのような時代を過ぎて尚、キャベンディッシュの時代のように職業にも名誉にもならない困難な状態でも科学研究を続けたことが、今日の絢爛たる西洋科学の地位を築いたのだと付言しています。
 比べて、一方の日本はどうだったかというと、明治になってから、そうした西洋の科学の花を見て、慌てて買い込んできたようなもので、種子から始めたのでは間に合わないというので最初は切花をたくさん買って来た。しかしこれではいけないというので、種子から立派に育てあげようと努力してきた人たちも出てきたが、太平洋戦争で万事がご破算になってしまった、と宇吉郎先生は悔やまれています。特に、戦中の日本の上層部の人たちに科学性が皆無であったこと、それによって日本式製鉄法の騒ぎ(アルミニウムの粉と砂鉄があれば無尽蔵に純鉄を製造できると国会まで騒がせた事件)が起きたことは、「もはや自然科学の範囲を逸脱した問題」であったと振り返っています。
 
・自然観のちがい
 以上のように、日本と西洋の歴史的背景まで概観してきたことで、両者の自然観が異なることもより明瞭になってきたと思います。森永先生の記事には、「西洋では人間は尊厳をもって自然に対立するものであって、自然の一部ではない。ところが東洋では少なくとも表面は自然の一部であるような人間が好まれるのである。」とあります。この見方は、上で取り上げた日本の精神的風土についての湯川先生や寅彦先生たちの言葉からも十分にわかることです。
 両者の自然観ということに更に詳しく踏み込んでみましょう。三枝先生は以下のように捉えます。
ヨーロッパ人たちの間で「自然」という概念の生れるのには、空間や時間の概念も亦同時に発達して来ねばならなかったし、又発達していたのであるが、いったいこれらの概念からが日本では実に近世になってから生まれたのである。(中略)ものを容れる空間、、や歴史を規定する時間、、は、やっと自然哲学者の三浦梅園(1723―89年)をまってはじめて起ったろうと思う。かような事情では、「自然」というような思想が発達しよう筈はないのである。知識が発達しても、どうしてもその知識が自然科学的でないのである。
(『日本の思想文化』より)
 このことは、上で取り上げた三枝論考から再度捉え直すならば、日本の自然観は直観的で体験的だが、西洋の自然観は分析的で論理的であると言い換えることもできるでしょう。そして更に日本流の「直観」は、東洋的な想像力や観察力によって「類推」へと自己発展していくもので、これは日本人の長所ではないかと湯川先生は喝破しています。これこそ、まさに寅彦先生の「茶碗の湯」を初めとする寺田物理学の世界ではないでしょうか。この日本ならではの東洋的自然観にこそ未来へ進むべきヒントが隠されているように思えますが、それは後述します。
 
・東洋精神と自然科学
 西洋と東洋、そして日本、これらの精神的風土と科学的土台をここまで眺めてきて見えてきたことは何でしょうか。森永先生は、自然科学はやはり西洋のものではないかと思われる、とおっしゃっています。その理由として、自然に親しみ自然の一部になることと、自然科学者になることは決して同じではないからだと言います。むしろ自然科学者に必要なのは自然を外から見る精神であり、智に対する主観的情熱ではないかと続けます。
 では、日本人には自然科学はできないのでしょうか。これまでの話や過去の事例を振り返れば、そんなことは決してないでしょう。三枝先生は次のように述べています。
思惟においては西洋も日本も何の変りもない。ただ思惟、従って又思惟の科学的組織が日本人の生活では西洋ほどに発達する必然がなかった。弱くて済んだ、稀薄で済んだ。しかし、そうした思惟は生活上是非必要とあらば必ず訓練可能である。日本人も西洋人の過去及び現在に見られるような科学的思惟を強めることができる。而も、必然が迫れば比較的に短い時代のうちにやり遂げることができる。
(『日本の思想文化』より)
 更に寅彦先生も次のように加えます。
日本で分析科学が発達しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠には日本古来の智恵を無視した科学が大恥をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。
(「日本人の自然観」より)
 森永論考に戻りましょう。上に続けて森永先生は職業的科学について触れます。
このように考えると、西洋の科学と東洋のそれには非常なちがいがありそうであるが、実は現状を見れば表面は世界の研究者意識はほとんど皆同じである。この共通意識は何かといえば、大体が、いわゆる“職業としての学問”である。(中略)それでは職業的科学の分野に対しては物の考え方の相違は影響しないだろうか。(中略)残念ながら今までの日本の研究の発展史をみていると、日本の独自のシステムが結局科学を殺してしまったことが多いように思われる。
 森永先生が70年代に抱かれたこの懸念は、佐藤文隆先生が、90年代後半からの科学界の転換期について言及した次の言葉によっても更に強く頷けます。
「科学技術創造立国」という国の政策のもとにあったこの転換期の大きな特徴は、研究費が時限的であるために、大量の若手研究者の短期雇用を生んだことである。日本全体ですすんだ不安定雇用全体からみればその数はわずかだが、多くは周囲から“賞賛されて”きた若者を待ち構えていた“困難”なだけに、当人の親や周辺の人々も「研究者という職業がこんなにリスキーなものなのか?」という痛烈な思いを抱いたと思う。もともと実態が世間にあまり知られていない、研究という職場の印象が、こんな形で定着することは憂慮すべきことである。
(『職業としての科学』より)
 そして「選択と集中」を経た現在に至るわけです。佐藤先生が言われた問題の背景には、巨大科学という「戦後の科学のメタモルフォーゼ」も根を張っていると思われます。湯川先生の言葉でこのことを補ってみます。
これは近代科学の十七世紀以来の歴史的発展の過程において生じた一種の変態(metamorphosis)であります。現代の科学者たちの大部分が、ひとつの機械の部品であるかのように、仕事をすることを余儀なくされております。各自が一個人として、今行ないつつあることの、いっそう広い観点から見た意義を把握するのが、ますますむつかしくなってきております。他の種類の人間活動との連関の喪失感は深まり、時には諦念にまで導きます。科学とは何か、科学は何のためにあるか、と自問することを止めてしまうのであります。しかし、これはひとつのアイロニーです。なぜかと言えば、まさしく今申し述べました諸傾向のゆえに、科学者が現在なしつつあるところの意義を自己に問うことが、何物にもまして肝要になってきているからであります。
(「日本の科学の百年」より)
 再び森永先生の話に戻りましょう。上に続けて森永先生は言います。
では日本の科学に対する絶対的なペシミズムであろうか。私はそうは思わない。文明は文化の接触するところに生れるというが事実、すでに日本の科学の画期的進歩は仁科芳雄氏のように“日本人にも科学ができるだろうか”ということを考えた人によってもたらされたものである。
 これに続く文章であるかのような錯覚を起こすのは、佐藤先生の次の言葉です。
 眼前の現実を超えて想像力を養うには、歴史に関心をもつのがよい。(中略)歴史はあくまでも、想像力の肥しである。
 未来の科学の社会的在り方にはまだまだ多くの可能性があり、転換期には豊かな想像力が問われているのである。
 そして、日本の科学(物理学)に新しい可能性を見ていたのは、実はあのハイゼンベルクもそうでした。
この前の大戦以来、日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的実体の間に、なんらかの関係があることを示しているのではあるまいか。今世紀の初め頃にヨーロッパでまだ広く行われていた素朴な唯物的な思考法を通ってこなかった人たちの方が、量子論的なリアリティの概念に適応することがかえって容易であるかもしれない。
(『現代物理学の思想』より)
 「極東の伝統における哲学的思想」というハイゼンベルクの言葉を後押しするかのように思えるのは、森永先生の以下の結びの言葉です。
自然の中にひたっているものには自然科学はできない。同様に現在日本人でも当然科学はできると思い込んでいる人たち、しかも自分たちの東洋的バックグラウンドを特に意識していないものたちからはあまり多くを期待できないように思われる。しかし一方、現在の日本は明らかに世界の二大文化の交点であり、意識ある指導者があれば世界の科学に非常な貢献をする可能性があるはずである。
○自分自身を知ること(ト・ヘアウトン・グノーナイ:τὸ  ἐαυτὸν  γνῶναι)
 さて、最初の問いにもう一度戻ってみます。ここまで歩みを進めてきて、日本人に科学的資質はあるでしょうか。上の森永先生の結びには「自然の中にひたっているものには自然科学はできない。」という言葉がありました。この言葉を、三枝先生の言葉を借りて次のように言い換えてみましょう。「自然を愛する日本人が何故自然の知識をもたなかったか」。これについて、三枝先生が分かりやすくまとめていますので以下に紹介します。
自然のものを食い、自然のものを着、自然物に象(かた)どって表現を学び、かようにして生活全体で自然に接し、且つ自然に愛せられながら、さて、自然科学をば発達させなかったのは何故であるか。(中略)それは、日本人は余りに自然に浸りきり、余りに自然を生活して居たからである。(中略)むしろ自然の中につかっていた故にこそ、日本人は自然を思想や学問の中へとり入れることができなかったのである。
 自然の中につかるというのは、山や川の中に棲むということではない。自然のままなるものにつかることである。自然のままなるものとは、学問の中で抽象的に考え直したものでないもののことである。酸素と水素から成っている液体とは、学問の中で考え直されたものである。渇を癒す冷たい水は自然のままなるものである。知識的に考えたものは概念である。ヨーロッパ人だって自然につかることはつかるが概念的である。日本人は一つ一つ具体的である。(中略)自然の複雑さ、もしくはその複雑さを巧みに取り入れることから生れる自然交渉の複雑さというものが日本人には顕著である。日本人は実生活上で身の周りの品物を巧みに処理し、而も巧みに美術的に取扱うのである。まことに日本人は、右のような実生活の態度では、精力的であり天才的である。世界史の中の偉観ですらある。
(『日本の思想文化』より)
 日本人である自分が自然科学を研究できるのか、長岡半太郎も抱いたその問いへの答えは上のように輪郭が少し見えてきました。問題は、森永先生が続けて語った「東洋的バックグラウンドを特に意識していないものたちからはあまり多くを期待できないように思われる。」という言葉です。上の佐藤先生の言葉を借りるならば、歴史を学ぶということも当然必要なことでしょう。例えば、第15号の池内了先生に「江戸の宇宙論」として紹介して頂いた志筑忠雄の窮理学に関する話などは、日本で物理学を学ぶ人ならば知っておいてよい内容だと思います(関連話題)。この志筑についての詳細は池内先生の解説をお読み頂くとして、朝永振一郎先生の指摘がたいへん鋭いので下記します。
 西洋に追いつこうという時に、その考えをとるのはごく自然なことですが、和魂洋才という考え方で、西洋人の科学は魂とは別なものだという。いろいろと役に立つ機械を作るとか考えだすのはむこうのまねをしよう、魂は日本の魂でいこうという考え方は、間違っているとは必ずしも言えないのですが、西洋に魂はなかったかというと、その洋才の背後には魂があったという理解をもって、科学を進めて来た人がないことはなかったと思うのですが、力が弱かったのでしょう。幕末の志筑忠雄がニュートンを理解しようとしたのは、洋才だけではなく、それを作りあげたむこうの人の魂まで理解しようと骨を折ったので、その点、他の科学者と非常に違う面があったのじゃないかと思います。
(「物理学あれやこれや」より)
 力学の計算ができることも大切ですが、それ以上に重要なことは、自分より100年以上も前の先人がこうしたことを考えていたという歴史を知るということ、それが森永先生のおっしゃる「バックグラウンドを意識する」ということではないでしょうか。そして、日本に生まれ、日本語を当り前に話す自分自身をいかに自覚するかもまた必要なことだと思います。湯川先生は次のように述べています。
こうやって生きているわれわれ人間は、われわれ自身を知りつくしているのか。自分のことは自分が一番よく知っているつもりでいるが、実は自分のことでも、やはり知らぬ部分がある。(中略)起きてる時は自覚的存在であるけれども、よく寝ているときは自分のことは何も知らぬ。夢見ているときは半分自覚的存在。夢に胡蝶となるという話もありますね。二千何百年か前の荘子という偉い人が、もうすでに、こういう状況をちゃんと見ておったんです。二千何百年先になっても変わらぬ真理を見つけていた。
(中略)
 未知なものがあるということがわかっているためには、すでにわかっている部分がなければならない。既知という認識がなければ未知もない。わかっているということがわからなければ、わからないということもわからぬ。
(「同定ということ」より)
 湯川先生は続けます。
一方はわかっている。他方はわからぬ。わからぬがわかっていることに似ている。それを頼りにして、わからぬことをわからせる。わかっていることと、まだわからぬことと、何かしら似ているということに気がつく。そこで両方を比べてみると、わからぬほうがわかってくるというのが譬え話の効能です。(中略)「荘子」など見ても、いろいろ面白い譬え話がありますけれども、荘子自身もそういう譬え話を考えることによって、この世界を理解した。それがそのまま創造的な活動であった。後になりますと、広い意味の類推のいろいろな形態があらわれてきます。
(中略)
非常に荒っぽいことばですが、似ているものは同じだと思う、そう思うときに急所を抑えている、ポイントを押さえている。単に似ているという漠然たることではなく、二つのものが、どういう意味で同じと認めるか、その本質をつかむ。そういう心の働きから創造性の問題を解明しようという発想が、私の言う同定理論へと発展してゆくわけです。
 われわれは、日常、小さいときからずっと、同定のプロセスというものを、いろんな形で、くりかえしやっている。自分が気がつかぬ間に同定ということをやっている。
(「同定ということ」より)
 どうやら自分自身を知るということのヒントは「同定(アイデンティフィケーション)」にもあるようです。
 ○日本人の科学性の未来――抽象力と思惟力
 少しずつですが、私たちの「故郷」(東洋的バックグラウンド)の本丸にたどり着いて来たようです。自分自身を知るには、歴史を学ぶこと以外に「同定」という作業が必要のようです。問題はそこからどこへ向かっていくかです。もう一度、湯川先生の同定理論の本質を見てみましょう。
そもそも人間の思考というものは、シンボルを抜きにしては、ありえない。人間は言葉を使って、言葉によって考える。言葉がある物を表現している場合、それは物そのものでない。しかし、その物と離るべからざる関係にある。そして、その物の代表者の役目を負わされているのである。(中略)現代の日本人は「木」という簡単な表意文字によって、多種多様な樹木一般を表現することにしている。樹を樹と認める図形認識の能力は、万人に共通するところのものであり、意識的な努力なしに獲得されたものであるが、そこから「木」という表意文字が生み出されるためには、抽象化と一般化の過程が必要であった。
 そして更に
月の運動とリンゴの落下とに共通する本質を発見するためには、例えば加速度という概念の助けが必要であった。それは既に高度の抽象化の結果として出てきた概念であった。
(「同定の理論序章」より)
 ここで「抽象化」という言葉が出てきました。日本人の科学性が向かうべき未来はどうやらこの方向にあるのかもしれません。今度は三枝先生の言葉から考えてみましょう。
日本人は、箇々の自然物や箇々の加工物に限りなく愛着を寄せたが(否、愛着を寄せたが故にこそ)、遂に抽象の美を知ることができなかった。自然界の法則と人間のもつ抽象的訓練、この二つが自然科学を生んだのであるが、日本人の場合では抽象力の発達がなかったので、今から一世紀より以前はずっと自然科学なしで済ましたのであった。
 (中略)全く異種類の文化であるヨーロッパ文化を漸次移植するようになって以後は、日本人は抽象力を養い、思想をもち、学術では世界的水準へ迫って来ているのである。この跳躍的な力は何処からきたのであろうか。日本文化の特質の問題はこの点を見遁してはならないと思う。日本の文化の特質の主な一つは、箇々の物への直観的愛着であった。ヨーロッパ人の一般性への思想的関心とは対蹠をなしていた。伸びるよりも屈するにあった。佶屈なると共に強靱なのは日本人の天性の気質である。ここに当然精力の蓄積が保証されてある。(中略)開け切らずに、内に凝る力は日本人の中になおなお強くあるであろうと思う。
(『日本の思想文化』より)
 湯川先生のいう同定に必要な抽象化する思惟力は、三枝先生によると、どうやら日本人の中に強靱に残っているようです。ここまで来れば答えは見えています。日本人の科学的資質を伸ばすものは、やはり日本人が古代から浸かってきた極東の自然や物にあるのではないでしょうか。そこには、中盤の寺田物理学の所で述べた「直観」や「類推」という東洋的自然観が通底しています。最後にそのことを寅彦先生の言葉を通して確認してみます。
私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを活かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり、存在理由であり、また世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけ淋しくなるのである。
(「日本人の自然観」より)
 陶淵明の「帰去来辞」に曰く、「雲は無心にして以て岫(しゅう)を出で、鳥は飛ぶに倦みて還るを知る」と。空を見上げ一片の雲を眺める。雲を見つめる私は雲へ雲へとより近づき、知らぬ間に雲の中の一部と一体となった。そこには既に雲はなく抽象の霞となった雲しかない。そして気がつくと、私は鳥が寝ぐらへと飛んで帰るのを茫然と見つめているのであった。
 「朝夕雲を眺め、その細かい行動に注意して居れば、不規則と見えた雲にも整然たるものがあり、無意味であるかの如き所に意義を発見する。遂には、雲のささやきを聞き得る様な心境に」達したのは、お天気博士こと寺田門下の藤原咲平(第7号参照)です。咲平先生は留学先のノルウェーで、鴨長明のように茫然と川面にできる渦を眺めている時に藤原渦動論の発想に至りました(関連話題)。
 雲という具象の世界から、雲の一部と同化し別の存在へと一般化する抽象の世界へ。また逆に、具象以前の抽象の世界は、眼前の自然物を通して類推や直観によって具象の世界へと人を導く。この具象と抽象を往還する自然観と同定作業にこそ、日本人の科学性が向かうべき道があるのではないでしょうか。寅彦先生の「茶碗の湯」の世界も、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」の世界も然りです。
 K先生との話から始まったこの長編論考もやっと終わりを迎えます。お付き合いくださり、ありがとうございました。最初に問うた「故郷」は見えたでしょうか。日本人の「東洋的バックグラウンド」である、その「故郷」の「花」は咲いていたでしょうか。自然や物への直観的愛着のある日本人の「花」ならば、きっとこれからも咲き続けるはずだと信じたいものです。

 

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