延焼動態図から見る関東大震災――同時多発火災と文化人たちの記録
火本(ほもと)は樋口富(ひぐちとみ)の小路とかや、舞人(まいびと)をやどせる仮屋より出で来たりけるとなん。吹きまよふ風にとかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、すゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。そらにははひを吹きたてたれば、火のひかりにえいじてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず、吹ききられたるほのほ、飛ぶ如くして一二町をこえつゝ移りゆく。其中の人うつし心あらむや。
火元は樋口富の小路だったとか聞いた。舞人を泊めていた仮屋から、出火したという。吹き荒れる風に燃え移っていくうちに、扇を広げたように燃え広がった。火から遠い家では煙にむせ、火に近いあたりでは、炎は激しく地へ吹きつけた。空へ灰を吹き上げると、火の粉が光って、そこらじゅうを赤く染める。その中を、風に吹きちぎられたものが飛んで、一町、二町(注:約100~200m)も飛んではまた燃え移る。そんな状況に置かれた人が、どうして平常心でいられようか。とても無理だ。
これは、『方丈記』に記されている安元三年(1177年)の平安京で起きた大火の火災旋風を描写したくだりです(文献:『方丈記』蜂飼耳訳、光文社古典新訳文庫)。本稿で案内する関東大震災でも、同じように火災旋風が起きました。これから見ていく記録と鴨長明の描写とがさほど時を隔てているようにも思えません。火災学の重要性を知る導入として、心に留めておきたいと思います。
第20号では、関澤愛先生に「わが国における「火災学」の系譜」と題して、日本の火災学とその歴史に関するエッセイをご執筆いただきました。とくに関東大震災時の火災による延焼動態図の一部をご紹介くださっており、当時の火災延焼の凄まじさが伝わってきます。この延焼動態図は、東京帝大で震災調査を任されていた中村清二代表(1869―1960、第18号参照)による報告資料に基づいています。
その経験に照らしても中村らの行った火災調査の精度の高さとその豊富さには驚嘆することしきりである。この調査報告には、 他に調査員として、寺田寅彦が火災による旋風について、また、地震学者の今村明恒が東京以外の各地方における火災被害についての報告を寄せている。
と関澤先生が解説くださっているとおり、全54頁にわたる精細かつ多角的な調査報告書は、現在の防災を考える上でも役立つ資料だと思います。この延焼動態図の資料は防災専門図書館のアーカイブで見ることができます。中村先生による報告書は『震災予防調査会報告第百号(戊)』になります。関澤先生の上の解説のとおり、この報告書には「大正十二年九月一日二日ノ旋風ニ就テ」なる寅彦先生の詳しい報告(コマ番号114~145、論文のダウンロードはこちら)もあります(同年11月の土木学会でも「旋風について」を講演)。この旋風調査は後年の山火事と不連続線の話にも繋がっており、震災調査時に既にその萌芽が見られていたわけです。不連続線とは気象用語でいう「前線」のことで、寅彦先生はこの不連続線に沿って火事が発生する確率が高くなることに着目していました。ご参考に報告書の中から、寅彦先生が当時の状況から想像して描いた不連続線図をあげておきます。上段が1日、下段が2日、左から右へ時系列に、太線が不連続線、並線が等圧線となっています。東京上空を、旋風の原因となったであろう不連続線が幾つも通過していた様子が捕らえられています。
第21号では地震予知の先駆者 今村明恒(1870―1948)を取り上げましたが、今村先生による報告は上記の(戊)報告書(コマ番号185~)のほか、『震災予防調査会報告第百号(甲)』もあり(コマ番号16~70)、この報告書では神奈川県や千葉県、静岡県での津浪被害の調査も含まれています。この中にも、寅彦先生の報告「阿部理学士調査関東大震災特二鵠沼別荘地ニ於ケル状況」(コマ番号242~)が提出されています。
さて、根本的な話に戻りますが、そもそも関東大震災での火災被害をなぜここまで調査していたかというと、地震被害よりも火災被害のほうが大きかったことに因ります。当時ベルリンにいた小宮豊隆に宛てた寅彦書簡(大正12年9月29日付)にそのことが明記されているので引いておきます。
今度の地震は東京ではさう大した事はなかつたのです。地面は四寸以上も動いたが振動がのろくて所謂加速度は大きくなかつたから火事さへなかつたら、こんな騒ぎにはならなかつた、死傷者の大多数はみな火災の為であります。
では、なぜ東京でこれほどの火災被害が出たのでしょうか。それは、関東大震災の前日まで日本には台風が来ており、地震当日は風が強かったことに加え、発生時刻が午前11時58分という昼食時だったことが背景にあります。当時の風の強かった状況は「関東大震災映像デジタルアーカイブ」の動画(特に『帝都の大震災 大正十二年九月一日』)で見ることができます。濛々と立ちこめる煙の映像など、下記で紹介する文化人たちが経験した状況がリアルに伝わってきます。このアーカイブには各地区の映像や解説コラムも多数あり、非常に貴重な資料です。
ならば、この台風はどれくらいの規模だったのか、当時の天気図も見てみましょう。前日の8月31日はまだ九州地方に台風はあったものの、地震当日は日本海沿岸を進みましたので、その進路の影響で地震発生時の東京は南よりの風が強く、台風が進むに従って風向きは西風、北風と変わり、そのため延焼域が広くなったと考えられます。なお、天気図は9月1~20日まで震災の影響で記録が途絶えています。
上に挙げた延焼動態図には各地区での出火元と延焼の方向や風向きが書き込まれていますので、そこで今度は実際に、4人の文化人たちの記録と延焼動態図を照らし合わせながら地震当日の状況を見てみたいと思います。文化人の記録であるせいか、文中に時折覗かせる写生的叙述がどれも印象的です。(関東大震災を経験した文化人は他にも多くいますが、今回は火災を間近で体験した人たちに焦点をあててみました。)
まずは、震災調査報告者の一人であった寅彦先生の震災日記から見ていきましょう。この日記は地震前後の8月24日~9月3日までの重要な記録で、地震前の1週間の間に、台風接近の影響による天候不順や、時の内閣総理大臣 加藤友三郎首相の急逝、地震に伴う発光現象が確認される等、注目すべき事柄も記されています。寅彦先生は地震当日、友人の津田青楓(日記中のT君)と上野二科会へ行っていました。揺れは喫茶店で紅茶を飲んでいたときにやって来たようです。最初の主要動で多くの人々が外へ逃げ出す中、寅彦先生は科学者らしく冷静な目で建物の震動を一部始終観察し、減衰してからは外へ観察に出ようとすると、勘定のボーイも居なくなっていたという状況です。ここから、外へ出た寅彦先生の様子を引用します。
T君に別れて東照宮前の方へ歩いて来ると異様な黴臭い匂が鼻を突いた。空を仰ぐと下谷の方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。これは非常に多数の家屋が倒潰したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内を覗くと石燈籠は一つ残らず象棋(しょうぎ)倒しに北の方へ倒れている。大鳥居の柱は立っているが上の横桁が外れかかり、しかも落ちないで危うく止まっているのであった。精養軒のボーイ達が大きな桜の根元に寄集まっていた。大仏の首の落ちた事は後で知ったがその時は少しも気が付かなかった。池の方へ下りる坂脇の稲荷の鳥居も、柱が立って桁が落ち砕けていた。坂を下りて見ると不忍弁天の社務所が池の方へのめるように倒れかかっているのを見て、なるほどこれは大地震だなということがようやくはっきり呑込めて来た。
(中略)
動物園裏まで来ると道路の真中へ畳を持出してその上に病人をねかせているのがあった。人通りのない町はひっそりしていた。根津を抜けて帰るつもりであったが頻繁に襲って来る余震で煉瓦壁の頽(くず)れかかったのがあらたに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町から団子坂へ向かった。谷中の狭い町の両側に倒れかかった家もあった。塩煎餅屋の取散らされた店先に烈日の光がさしていたのが心を引いた。団子坂を上って千駄木へ来るともう倒れかかった家などは一軒もなくて、所々ただ瓦の一部分剥がれた家があるだけであった。曙町へはいると、ちょっと見たところではほとんど何事も起らなかったかのように森閑として、春のように朗らかな日光が門並(かどなみ)を照らしている。宅(うち)の玄関へはいると妻は箒(ほうき)を持って壁の隅々からこぼれ落ちた壁土を掃除しているところであった。
ここまでが、寅彦先生が地震に遭遇して外へ出てから自宅に戻るまでの記述になります。主な移動は「上野公園→東照宮→不忍池→動物園裏→谷中三崎町→団子坂→千駄木→曙町」であり、具体的にどのような経路だったか、延焼動態図の本郷・上野地区と照らし合わせてみましょう(主要地を黄緑色でマークしてあります)。地図中の青い矢印線(風向き)が南風であるように、寅彦先生が下谷方面の土ほこりをすぐに嗅ぎとったことがわかります。さらに、根津を通れば曙町の自宅までは近いですが、低湿地を考慮して谷中から回り道したことも地図から読み取れます。寅彦先生は翌日視察に回り、火災調査を自身の目で確認しています(下記参照)。下谷や浅草方面の当時の映像は、上の動画の(4:25)辺りから見ることができます。地図中の青丸は薬品による火元を、赤丸は薬品外による火元を表しています(以下同)。
そこで上野の山から下町に目を移します。寅彦先生とも親交のあった岩波書店の小林勇氏の記録を見てみましょう。岩波書店の当時の住所は神田区南神保町。小林氏は地震発生時は今川小路の卸部にいたようです。大きな揺れが収まって外へ出てからの光景が綴られます。
表へ出てみると近所の家はことごとく潰れていた。ひどい砂埃があたりに籠めていて、一瞬恐ろしい静けさがあった。私たちは道に倒れている鉛版屋の屋根の上にのった。電車通りへ出る道は田丸という洋食屋と向いの松可堂がつぶれたためにすっかりふさがっており、北上屋、洋服屋、床屋、郵便局、鉛版屋などが軒なみにつぶれ、飯田橋の方を見ると、もうもうとした土煙が次第におさまるとすべての家がつぶれて広々とした眺めになっていた。
(中略)
私たちはものを考える余裕がなく、神保町の店の方へかけていった。途中にはたくさんつぶれた家があったが、岩波書店はやや傾いただけであった。(中略)午後一時頃であろうか、そのころは下町全体が煙に包まれていた。
九段下を通り飯田橋の三丁目までいって火事で通れなくなり左に折れた。小石川に近づくと、この辺の家はほとんどつぶれていなかった。先にかえっていた先生(注:岩波茂雄のこと)は小石川の子供たちはじめ皆が無事だったことをひどく喜んだ。(中略)庭でリンゴをたべた。そのあともう一度店の方を見るために、先生をまじえてみんなで神田の方へ出掛けた。九段の坂の上へ出てみると、神田はほとんど火の海で近づくことは出来ない。神保町や今川小路は焼けてしまっていた。(『惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝』より)
その後、9月3日に小林氏は今川小路へ行きますが、卸部の焼跡にはまだ炎をあげて燃え続けていた本があったようです。以上の記述から、当時の小林氏の移動は「今川小路→(南神保町)→九段下→飯田橋三丁目→(冨士見町)→小石川」といった経路で、地図上で見ていただくと、延焼した区域内だったことがわかります。地震直後、小林氏は今川小路の鉛版屋の屋根に上って飯田橋方面を見ていますが、地図上では北風と南風(青線)が入り乱れながら吹き込んでいた様子もうかがえます。神田区域の延焼の激しさを物語るものではないでしょうか。地図上の青三角は死者が多数出た場所を表しており、そのことがわかります。神田・日本橋の映像も、上の動画の(4:00)辺りから見ることができます。
続いて同じ神田区域になりますが、もうひとり、震災記録を残していた人物が作家の永井龍男氏です。永井氏は、代表的な作品である『石版東京図絵』という長編小説にも震災の様子を描いているのですが、ここでは『日本の百年』第11巻(世界文化社、昭和47年12月)に寄稿した「大震災の中の一人」という随筆から紹介します。
永井氏は当時、駿河台に住んでいました。地震発生時は下痢で寝込んでいたと言いますが、地震後はそれも忘れてしまうほどの切迫感が伝わってきます。家には、母親と乳呑み児を抱えた義姉が一緒におり、二人の兄は仕事に出ていましたが地震後に合流し全員で避難が始まります。永井氏の記述からは、上の小林氏の状況と同じく、死者が多数出た神田区周辺の凄絶さが見えてきます。
すごい地鳴りのような音と共に、幾度びか身の盛り上るのを感じたが、これは地鳴りではなく、木造の家々がゆれ動くと同時に発した音響であったかも知れない。地震と察して、よろめきつつ立上って、私が窓一杯に見たものはもうもうとした土煙であった。ふるわれた家々の壁土が、一時に空へ舞い上ったのである。
(中略)
二人の無事を見届けると、一度に気が軽くなった。ひどい地震だったが、すんでみればこんなことかと思った。屋根から見まわす近隣にも異常はなかったので、階下へ降りて行った。ただ、むせるような土煙の臭いが立ちこめ、戸棚の襖が外れたほか、大きく壁の抜け落ちた個所があった。
(中略)
神田の駿河台下、猿楽町という所は、ちょうど下町と山の手の境いにある町で、小市民向きの貸家の建ちならんだ横丁を出ると、駿河台へ上る坂の中ほどになる。その坂を上り切ると明治大学があるので、敷きゴザに水のやかんその他を抱えて、その校門内の広場へ連れ立った。
(中略)坂の上から、遠く煙におおわれた空が見えた。火災ということにもその時はじめて私は気がついたのである。われわれは、必要と思われるものを手当たり次第に大風呂敷に包み、小風呂敷は両手にさげて、乳呑み児を抱いた義姉を加えると、それから避難の群れに入った。
東京市民は、その頃から火を消すという行為を捨てて、ただ逃れる道を選んだ。
(中略)白昼のことで、火の手こそ見えぬが、行く先き先きの空は煙でほの暗く、陽の透る個所は黄色く濁って無気味であった。神田区下谷区の境いにかかる昌平橋まできて、橋を渡らずに左で上野公園を目指すか、渡って日比谷公園へ向かうかの決断に迫られた。われわれは、日比谷を選んで小川町へ出、神田橋へたどりついたが、橋の向こうはすでに煙の中だった。橋を渡らずに右へ錦町河岸添いに道をとったが、この頃はもう先きをあらそって押し合いへし合う混乱の中にあった。
結局竹橋から皇居の乾門外を通って、千鳥ヶ淵を見下ろす堀の上で、その夜をあかしたが、堀をへだてた半蔵門から麹町三丁目へかけては火の海、火の激流そのもので、堀の上までおびただしい火の粉に包まれた。
地図と照合すると、永井氏一家の避難は、まさに延焼の嵐の中を“押し合いへし合い”逃れて行った状況がわかります。避難した経路を抜き出すと、「猿楽町→(明治大学)→昌平橋→小川町→神田橋→錦町河岸→竹橋→お堀」です。お堀で遭遇した一夜の火難は、寅彦先生が直感したとおりの様相でした。おそらく千鳥ヶ淵のお堀周辺は地形の勾配も影響していたのでしょう。台風一過と相俟って、風向きの急変に拍車をかけたのではないかと思われます。人々が野天をしている映像は、上の動画の(12:45)辺りでも見ることができます。
ここで、翌日2日に同じ神田周辺を廻った寅彦先生の「震災日記」を見てみましょう。
朝大学へ行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島五丁目辺まで行くと、綺麗に焼払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた。兵燹(へいせん)という文字が頭に浮んだ。また江戸以前のこの辺の景色も想像されるのであった。電線がかたまりこんがらがって道を塞ぎ焼けた電車の骸骨が立往生していた。土蔵もみんな焼け、所々煉瓦塀の残骸が交じっている。焦げた樹木の梢がそのまま真白に灰をかぶっているのもある。明神前の交番と自働電話だけが奇蹟のように焼けずに残っている。松住町まで行くと浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と焔の海である。煙が暑く咽(むせ)っぽく眼に滲(し)みて進めない。(中略)浅草の親戚を見舞うことは断念して松住町から御茶の水の方へ上がって行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂病院の避難所になっていると立札が読まれる。御茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台は全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった。神保町から一ツ橋まで来て見ると気象台も大部分は焼けたらしいが官舎が不思議に残っているのが石垣越しに見える。橋に火がついて燃えているので巡査が張番していて人を通さない。
(後略)
寅彦先生が廻った場所も地図であげておきます。行動経路は「大学→本郷通り→湯島五丁目→(明神前)→松住町→女子高等師範学校→御茶の水橋→駿河台→(明治大学前)→神保町→一ッ橋」といった行動になりますが、小林氏や永井氏が前日に見た火災の後の状況がよく確認できます。永井氏一家が一時避難していた明治大学の前で、翌日に寅彦先生が焼死体を見ているくだりは、事態がいかに急変しながら人々を延焼の渦に巻き込んでいったかを物語っています。気象台も焼けていたことが寅彦先生の記述からわかります。
そして最後に、皇居より南側に視点を移して、金阜山人(きんぷさんじん)こと永井荷風がいた麻布周辺を見てみます。荷風先生は『断腸亭日乗』という日記に震災記録を書き残していますので、そこから地震当日の箇所を引いておきます。
九月朔。忽爽(こつそう)雨歇(や)みしが風なほ烈(はげ)し。空折々掻(かき)曇りて細雨烟(けむり)の来るが如し。日将(まさ)に午(ひる)ならむとする時、大地忽(たちまち)鳴動す。予書架の下に坐し嚶鳴館遺草を読み居たりしが架上の書帙(しょちつ)頭上に落来るに驚き立つて窓を開く。門外塵烟(じんえん)濛濛、殆ど咫尺(しせき)を弁ぜず(注:距離が近すぎて見えない)。児女鶏犬の声頻(しきり)なり。塵烟は門外人家の瓦の落下せしがためなり。余も亦徐(おもむ)ろに逃走の準備をなす時大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排(ひら)いて庭に出づ。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に倚(よ)りておそるおそる吾家を顧るに屋瓦少しく滑りしのみにて窓の扉も落ちず。稍(やや)安堵の思をなす。昼餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇(や)まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見坂を上り家に帰らむとするに赤坂溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎の一家来りて余が家の庭に露宿す。葵橋の火は霊南坂を上り大村伯爵家の隣地にて熄(や)む。吾家を隔ること僅に数町なり。
(『断腸亭日乗』「巻之七 大正十二年歳次癸亥荷年四十五」より)
荷風先生は震災の4年ほど前に、麻布の市兵衛町一丁目に新築した通称“偏奇館”へ引っ越していました(現在の六本木、泉ガーデンタワーの一角に碑があります)。近所には、俳優山形勲の父親が建てた洋風ホテル“山形ホテル”や大村(純雄)伯爵の邸宅がありました。また、最後に登場する“河原崎長十郎”は、当時荷風先生と親交のあった歌舞伎役者の四代目河原崎長十郎です。
荷風先生は地震当日は避難することがなかったため、行動経路も「市兵衛町(山形ホテル)→愛宕山→江戸見坂→市兵衛町(偏奇館)」といった短いものです。が、日記の記述どおり、偏奇館周辺の市兵衛町は延焼区域ギリギリの所で火災から免れていることが地図からもわかります。荷風先生が市中を観望した愛宕山周辺は、多数死者が出た(青三角近傍の)区域に入っていますので、いかに危険な状況だったかが見受けられます。北風による影響で南へと火が攻め寄ってきていた様子もうかがえます。そして、日中は断続的な驟雨と細雨と強風、夕方は晴れて半月が昇っていたように、台風の影響で目まぐるしく変わっていった当時の天候が目に浮かぶようです。
ここまで見てきましたように、東京の町々で発生した火災の背景の多くには旋風が原因していました。東京市中で最も被害の大きかった場所は両国・本所周辺(特に被服廠跡)になりますが、その大きな要因も火災旋風です。地図にあるとおり、被服廠跡(青三角が二つある黄緑色で囲った場所)の周辺は四方から火災域に囲まれており逃げ場がありませんでした。関澤先生は別の防災記事で、被服廠跡には避難者が大量に家財道具などの可燃物を持ち込んでいた事、風速12m/sを超す強風や周辺からの旋風によってもその延焼を引き起こしたであろうと書かれています。被服廠跡のあった本所・深川の映像は、上の動画の(7:50)辺りから見ることができます。上で紹介した寅彦先生の旋風調査の中に、当時、東京市外から確認された本所方面や東京方面の雲の写真があります。雲の様子からも火災旋風がいかに苛烈であったかが伝わってきます。
荷風先生は、偏奇館にいたときの追想を『偏奇館吟草』という詩集に纏めて遺していますが、その中に、当時の体験と感懐を「震災」という詩に詠んでいます。
震災
今の世のわかき人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の藝術を。
われは明治の児ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり。
団菊(だんきく)はしをれて桜癡(あうち)は散りにき。
一葉(いちえふ)落ちて紅葉(こうえふ)は枯れ
緑雨(りよくう)の声も亦絶えたりき。
円朝(ゑんてう)も去れり紫蝶(してふ)も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の児なりけり。
或年大地俄(にはか)にゆらめき
火は都を燬(や)きぬ。
柳村先生(りうそんせんせい)既になく
鴎外漁史(おうぐわいぎよし)も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の藝術を。
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の児ならずや。
去りし明治の世の児ならずや。
偏奇館は関東大震災は免れましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で残念ながら焼失しました。この荷風先生の「震災」という詩に象徴されるように、それまで東京に名残をとどめていた江戸風俗は関東大震災によって一変します。幕末から明治を通して色濃く残されていた江戸の風物や点景が変わっていきました。社会的には震災前年に日本共産党が創立され、震災後は統一普通選挙法や治安維持法も成立し、震災後3年を経て大正の時代は終焉を迎えます。そういった意味で、関東大震災は社会や文化にとっても分水嶺になったのだと思います。
さて、こうして関東大震災の火災旋風の記録を見てみますと、冒頭の『方丈記』の記述とあまり変わらないことに改めて驚きを覚えないでしょうか。阪神・淡路大震災(1995年)のときも火災旋風の被害はありましたが、風が弱かったため延焼速度は比較的遅かったようです。東日本大震災(2011年)でも気仙沼で巨大な火災旋風が記録されています。
現代の場合、ビル火災など建物内での火災も、課題が山積している事は昨今起きた事件で散見されました。寅彦先生も、昭和7年末に白木屋で起きたビル火災に関する随筆を遺しています(→)。現在得られている火災学の知見が、より広く衆知されるべきだと改めて思います。
上に挙げましたように、この関東大震災の教訓を活かすための資料は豊富です。それでもまだ、日本における火災学のアカデミックな環境は十分とはいえない、と関澤先生は訴えておられます。今後の国内での環境整備を期待します。日本は歴史上、震災を繰り返し受けてきている一方で必ず復興も遂げてきており、そのことも忘れずに今後の対策に備えていきたいと願う次第です。
参考資料として、内閣府中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」による関東大震災報告書がまとまったサイトを案内しておきます(→)。とくにサイト下部にある「第二編 救援と救済」には当時の避難と消防活動がどのように行われていたか、細かな記録が報告されています。
こうして震災時の文化人たちの記録を延焼動態図を通して読み直してみると、想像以上に当時の情景が生々しく伝わってきます。現代よりも不便な時代にもかかわらず、綿密な調査を行い、記録図を遺された先人たちに改めて敬意を表します。長くなりましたが、少しでもこのような記録を活かしていけるよう、後世の私たちも努めてまいりたいと思います。