代替性と枝分かれ――カオスの縁で空から百年に一度の花が降る
又思う百年は一年の如く、一年は一刻の如し。一刻を知れば正に人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈(み)つればかくる。
(夏目漱石『一夜』より)
○百年に一度の三連単
2024年は百年に一度と言ってよいエポックメイキングな年でした。なぜなら、文庫化したら世界が滅びるという都市伝説のあった『百年の孤独』が本当に文庫化された年であり、さらにそれを「代わりに読む」文庫本も刊行され、不思議なことに『百年の孤独』と似たようなタイトルとコンセプトの小説集まで文庫化されるという、まさに小誌がとり上げてきた物理の同期現象を目の当たりにしたような文庫化事象の連続だったからです。
そういった意味で、章題のとおり馬券になぞらえて“百年三連単”の年としました。連単としたのは、発売された順に読み、どれもが醍醐味のある作品であったことを含んでいます。まず初めに読んだのが柴崎友香さんの『百年と一日』、次が友田とんさんの『『百年の孤独』を代わりに読む』、そして最後がガルシア=マルケスの『百年の孤独』でした。この順に読んで正解だったのは、柴崎さんの作品が短編小説集だったことで、先に脳内で『百年の孤独』を読む前の簡易シミュレーションのようなお膳立てがインストールされ、加えて友田さんの可笑しさ連発の脱線随筆によって、恐らく『百年の孤独』をほぼ読んでしまったに違いない錯覚まで起きてしまったからかもしれません。当然ながら最後に開いた『百年の孤独』では前二冊が醸し出した残像効果によって、ガルシア=マルケスが紡いだ物語以上の“物語の花”が脳内に幻惑的に降ってきたのでした。
なぜそのような感動が起きたのか、理由は小誌でこれまで取り上げてきた複雑系科学や寺田寅彦が関係しているからなのですが、その説明をする前にまずはこれら3作品の案内をしておきます。
1. 柴崎友香『百年と一日』(ちくま文庫)
柴崎友香さんの『百年と一日』は、学校や街角の家、駅、ラーメン屋、噴水広場、銭湯、映画館、喫茶店、空港、地下街など、日常よく見かける様々な場所を舞台に、そこに流れる時間と登場人物のそれぞれの人生が立体的に描かれている不思議な短編集です。とりわけ特徴的なのは、登場人物に「男」や「女」といった名前のない設定が多いこと、それゆえ一定の時代に当てはまるような普遍性を有しており、さらに短編の合間にいくつか「ファミリーツリー」や「娘の話」といった家系や家族にまつわる話が織り込まれていることです。気になった描写を後段の複雑系科学の説明も関係するので挙げておきます。
(柴崎友香『百年と一日』より抜粋)
「建物がなにもないのに道だけがあるのは不思議だと、姉は思った。そう思ってから、道と町はどちらが先にできるのか、今まで自分は考えたことがなかったと気づいた。今まで暮らしてきた町では、道は建物の隙間に通っているものだった。両側に迫ってくる建物の間で、残った地面をつなぐように絡み合い、這う道。だから、建物がないのならどこを走ってもいいし、道なんて必要ないんじゃないかと、そんなふうに思えた。しかし、ここには道がある。道がなければ、砂の上をこのバスが走るのは難しいだろう。」
「雪は止まなかった。近年の異常気象により、この地方も、熱波で都市機能が麻痺することが数年に一度起こっていたが、寒波も大雪も予想外かつ、多くの人にとっては初めてのできごとだった。(中略)
雪は、五日間、降り続いた。一階の窓が埋まり、ついには川さえも、流れの遅いところでは表面に氷が浮かび、みぞれのような塊ができた。緊急事態宣言と外出禁止令が出され、一時は食糧不足も心配されたが、六日目の朝に晴れ渡って気温が上昇して雪が溶け始めた。」「その地下街は、全国でも一、二を争う大規模で、複雑な構造をしていた。当初はいくつも乗り入れる私鉄の地下街がそれぞれ作られ、駅前のビル街にも地下街ができて、つながっていった。全体の地図を見ると、蜘蛛の巣を、さらにパッチワークで貼り合わせたように見えた。毎日そこを通勤に使う人でさえ、全体を把握するのは難しかった。」
「駅ができて初めて列車が走ったときのことを覚えている、と祖父に聞いた、と祖母は言っていた。わたしの祖父ではなく祖母の祖父だ。祖母の父親ならひいおじいちゃんだが、もっと前はなんと呼ぶのか、今日聞いてみた三人には知らないと言われた。」
柴崎さんの本作品について詳しく知りたい方はこちらのwebちくまに掲載された刊行記念対談をお読みください。翻訳家の柴田元幸氏との充実した談話が前後二編で展開されています。この中で柴崎さんご本人が「時間が経つ話を書きたい」と話していた背景が、書名や各短編の立体的な奥行きを象徴しています。それと付け加えるならば、本作品には戦争の話がときどき挟まれているのも歴史を裏づけており、それを書かれた理由についても対談で述べられています。文庫解説で深緑野分さんが触れている「現代美術の形態に似ている」という指摘は、後述する複雑系科学との関係からも示唆的です。
2. 友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
次に読んだ友田とんさんの『『百年の孤独』を代わりに読む』は、ガルシア=マルケスの名作『百年の孤独』を“冗談話として読んでみよう”というスタンスの下で、そこに“脱線する”ことをもう一つの条件に、古今東西の映画やドラマ、お笑い、マンガ、バラエティ、ドキュメンタリーなどの記憶を連想の題材に読み進めていった読書体験記です。『百年の孤独』と同じ物語の区切りで章立てしてあるため、むしろ本書を読んでからのほうが、筋を追うのに難解と言われる『百年の孤独』を理解する助けになるはずです。友田さんは筆者と世代が近いせいか、取り上げられているドラマや映画の多くが昔なじみのものばかりだったという点も本書の味わいを倍増させています。さらに、読書を通して“読む”ということの本質も考えさせる本書の「代わりに読む」というテーマ性は奥深く、これについても後段で詳しく分析を試みます。その前に、友田さんがなぜ本書を書くに至ったかについて、ちょっとしたエピソードが前書きで紹介されていますので以下に案内しておきます。これは後の分析に重要な手がかりとなる話です。
(友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』まえがきより抜粋)
かつてイタリア・ピサに駐在する友人を訪ねた時、古い建物が囲む石畳の円形広場を歩いていると、友人の奥さんが目を輝かせながら、
「友田さん、ここはディズニーシーみたいでしょ!」
と言ったのである。ピサの街の方がずっと古く、歴史的な順序は逆だ。だが、そうであったとしても、友人の奥さんにとっての出会った順序はディズニーシーを思い浮かべてしまう、というこの感覚こそが実感なのだ。なるほどと感心した私は、これをずっと覚えていた。そして、『百年の孤独』を代わりに読むことになった時、作品の背景ではなく、読者にとって作品の手前にあるもの、つまりより新しいドラマや映画などに脱線するという方法を思いついたのだ。今になって振り返ってみると、これは手元に、私や友人たちのなかにある様々な記憶を組み合わせることで、身近な場所に自分たちなりの『百年の孤独』のパッチワークを作り出すような試みだったと言えるのかもしれない。こうすることで、誰よりもまず私自身が『百年の孤独』を面白がりながら読み進められるという気がしていたし、これを続けていくと、終いには何が起こるのだろうという期待があった。
上で友田さんが書かれているエピソードは、読みの“遡像効果”とでも言えるもので、一般的な継時変化をなぞるならば、古いものを先に鑑賞するからこそ、後の新しいものの意味や背景が読み取れたりするものですが、時にその逆転現象で、新しいものが古いものへの鑑賞に意味を与えるような不思議な時間効果が発生することを、友人の奥さんの何気ない一言から友田さんは見事に捉え、それを“脱線する”という形式で読む作業へと精華されています。この話については、友田さんご自身が人生における最大の僥倖と仰る「代わりに読む」という発見にも関係しますので、改めて触れます。友田さんが本書を書いたことが機縁で起ち上げることになった、「可笑しさで世界をすこしだけ拡げる」ひとり出版社・代わりに読む人のサイトに本書の案内があるので合わせてご覧ください。
3. ガルシア=マルケス『百年の孤独』(鼓直訳、新潮文庫)
さて、以上2冊の読書プロセスを経て本丸の『百年の孤独』を読み始めた筆者は、マジックリアリズムと言われるガルシア=マルケスの摩訶不思議な物語世界に入り込みましたが、友田さんが「代わりに読む」ことである種の免疫をつけてくれていたせいか、その案内どうり存分に愉しむことができました。『百年の孤独』は、マコンドという海から隔てられた内陸の土地に、ブエンディア家が村を開拓し、繁栄させ、百年の後に一族もマコンドも没落していく年代記ですが、無数の挿話が繰り広げられるため、全体のあらすじを要約しようがありません。とにかく次から次へと奇妙な出来事が頻発し、それがまるで聖書のような何かの啓示にも思えたり、寓意に満ちた怪文書のようにも思える一方、友田さんが“脱線”されたように、読者をからかい、諧謔を弄していると感じられる物語でもあります。特徴はその文体や叙述にも表れていて、通常の小説に比べ会話は少なめで、その代わりに細かい精緻な描写や数字の記述が重ねられています。例えば、以下のような印象的な叙述があります。
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』より抜粋)
「そこで一同はホセ・アルカディオ・ブエンディア(注:一族の長)の部屋へはいって行き、力いっぱい体をゆさぶったり、耳元でどなったり、鼻の穴の前に鏡をおいたりしたが、彼を目覚めさせることはできなかった。少したって、大工が棺桶を作るためにサイズをはかっていると、小さな黄色い花が雨のように空から降ってくるのが窓ごしに見えた。それは、静かな嵐が襲ったように一晩じゅう町に降りそそいで、家々の屋根をおおい、戸をあかなくし、外で寝ていた家畜を窒息させた。あまりにも多くの花が空から降ったために、朝になってみると、表通りは織り目のつんだベッドカバーを敷きつめたようになっていて、葬式の行列を通すためにシャベルやレーキ(注:熊手)で掻き捨てなければならなかった。」
「四年十一カ月と二日、雨は降りつづいた。小雨がぱらつく程度のときもあり、そのつどみんなは着飾って、やみあがりの病人のような顔で晴れ間を祝ったが、しかし間もなく、いったんやんでも、それはあとで雨がいっそう激しく降りだす前触れと思うようになった。樽の底が抜けたようなどしゃ降りが始まり、北から襲うハリケーンで家々の屋根は崩れおち、壁は傾いた。わずかに残っていた農場のバナナの株も根こそぎにされた。」
まるで『法華経』や『創世記』のパロディを読んでいるような気分にもなりますが、こうした描写が氷山の一角といえるほど、この物語は奇天烈な出来事の連続のため、何だかガルシア=マルケスのお笑いコント集のようにも思えてきます。だから笑いとして見るならば、ボケにはツッコミが必要であり、そうした見立ても上の友田さん作品を読めば誤りではありません。さらに物語は百年という長い時間軸で語られるため、一族の子々孫々にわたる登場人物たちも時に混同してしまうほど多く入れ替わります。これについては、新潮社のサイトにブエンディア家の家系図や池澤夏樹氏の読み解き案内も置かれているので参考に。この作品にはもっと引用したくなるような奇想天外な場面があるのですが、それは友田さんの本を読んでいただくとして、その前にこれら3冊の背景に見え隠れする複雑系科学の代名詞ともいえる「カオスとフラクタル」についてちょっと概観してみたいと思います。
○カオスとフラクタル
『百年と一日』や『百年の孤独』には、実際の現実世界にあってもおかしくはない出来事や現象が描かれています。『百年の孤独』の場合、マジックリアリズムという手法によって超現実とも言える不可思議な現象も多く描かれていますが、成り立ちとしては複雑系科学をベースと見てもよいものが多いと思います。ここでは多いとしておきましょう。そして、その多くはバラバラにしては意味を成さない、互いに様々な要素が強く関係し合ってまとまっているようなシステムばかりです。私たちの身の回りや自然界には、個々にばらした要素からでは全く予想もつかない現象が、様々な物事や人々の一つのまとまりであったり組織であったり、村や町といった大きなシステムの中から自発的に現れてくることがあります。美しい山並みや雲の動き、木々や河川、道路の枝分かれ、海岸線の複雑な曲がり具合、互いに入れ子になったような建築物や都市構造など、これらはどれもバラバラにしては理解できません。それを複雑系と総称しますが、この複雑系の科学の中でも重要な概念とされているのが「カオスとフラクタル」です。
上で引用した文章には気象に関する記述が多くありましたが、例えば、二三日後の天気は大方予測できても、一週間後やそれ以上の長期にわたる天気を正確に予報することは難しいと一般的には言われます。このように、ある時点からその後しばらくの間は予測できても、長期的になると予測できないような時間変化を「カオス」と言います(一方で、例えば生態系の個体数急増などは、逆にカオス度が高いほどカオスを予言しやすいとも言われています)。上で引用した異常気象に関する描写は、予測不可能という意味でその時間変化はカオス的です。とくに、『百年と一日』や『百年の孤独』に現れる自然現象や人事の中には、偶然に起こっていると思われることでも相関のありそうな場合も見られます。それをカオスでは「事象の間欠性」と呼んでおり、例えば車の渋滞などはそれに当たります。渋滞が非周期的で不規則で間欠的であることは偶然のように見えますが、車の流れそのものは必然なので、渋滞は偶然と必然のはざまで起きる現象と言われます。
個人的な体験になりますが、交通事故に遭ったとき不思議な相関を感じたことがあります。コロナ禍の最中に叔父が急に亡くなったとき、ちょうど小誌の新刊ができてくるため、慌ただしく発送の準備をしていたのですが、その準備を追えた翌日、葬儀場に車で向かう中、季節外れの突風や雷、雹、そしてゲリラ豪雨にも遭遇し、葬儀には間に合わないかと思いながらも、やっと近くまで来たところで2トントラック車に追突されました。こういう事故体験は偶然と必然が折り重なって起きたカオス的事象ですが、この事故の翌日、今は亡きK先生から「偶然と必然と」という名の草稿が届いたことは、一体全体、偶然なのか必然なのか、その“潮時”については今もって謎であります(この草稿は後に第24号に掲載されました)。「事実は小説よりも奇なり」とはいうものの、小説で描写される出来事にも無数の偶然と必然が重なっていることは上で見たとおりで、とくに『百年の孤独』からの引用には族長の亡き後に起きた普通でない奇怪な現象が描かれていますが、筆者の場合は近親者の死後に上のような不可解な気象現象を経て交通事故に遭い、他にも祖母の死後の翌日に東日本大震災に遭遇した体験などもあります。概して、このようなカオス的事象に遭遇するときの多くは、精神状態も通常と異なるフェーズにあるように感じます。寺田寅彦の名随筆「藤の実」でも、寅彦自身が潮時を実体験したカオス的事象が、ある種のサスペンスのように描かれています(これについては『寺田寅彦「藤の実」を読む』を)。
では、こうしたカオス的時間変化には何らかのパターンや法則のようなものはないのでしょうか。数学の世界では、このカオス的システムを逆のプロセスで見ていくと、自己相似の集合が生まれることが分かっています。自己相似とは、木々や河川、道路の枝分かれにも見られるように、スケール(大きさ)を変えた入れ子構造のようなパターンの一部を取り出し拡大してみても、元のパターンと区別がつかない性質のことで、このパターンを「フラクタル」と総称しています。とくに、都市の成長などにはDLA(Diffusion Limited Aggregation:拡散律速凝集)と呼ばれる枝分かれパターンが考えられていて、これは元となる中核市街の周りに別の地域が発達しながら大きな市街(後述のネットワーク研究ではクラスターと呼ばれる)を形成するモデルです。このDLAは交通網や電力網などの都市化だけでなく、火花放電や金米糖、河川分岐などでも使われている研究手法です(金米糖については『寺田寅彦「線香花火」「金米糖」を読む』を)。このDLAでは「フラクタル次元」という量が数学的に重要な役割を果たし、それによる空間をハウスドルフ空間と呼び、これは友田さんが博士研究された位相幾何学(トポロジー)でも登場するものです。
さらに、このようなフラクタル現象に関連したもので他に挙げておきたいのは「ネットワーク」と呼ばれる研究で、これは一時期「スモールワールド・ネットワーク」や「スケールフリー・ネットワーク」など、人間関係や送電線網、感染症の広がり方などを解明する研究として社会の注目を集めました。コロナ禍で「クラスター」という言葉がメディア等でよく使われましたが、まさにこの研究分野の用語です。数学ではグラフ理論という研究で知られており、ここから派生するトポロジーは先ほどと同様、友田さんの博士研究にも関係するものです。上の『百年と一日』や『百年の孤独』の引用と関係するところでは、家系図なども典型的なネットワークの例になります。
加えて、冒頭の漱石作品からの引用はフラクタル的な一例でもあり、漱石先生は「一刻(30分)の意識における要素」を、一篇の詩を読む一時間から半日、一日、一年、百年と自己相似的に捉え、これを『文学論』という論考において「F(認識的要素)+f(情緒的要素)」とした理論で展開しました。つまり、柴崎さんの『百年と一日』はフラクタルを暗示したタイトルと言うこともできます。
以上のように、複雑系科学の世界は文学の宝庫でもあることはよく分かりました。中でも特徴的なのは、全くまとまる気配もない無秩序なランダム性と、のっぺらぼうの秩序だった均質性の両極に挟まれた、わずかな変化が大きく作用する領域、すなわち「カオスの縁」と呼ばれる“せめぎあい”の世界です。そのせめぎあいが、えもいわれぬ美しいパターンや不可思議な人間模様を作り出します。人間の性質でいうならば、「平熱と熱狂の絶妙な混合」です。ならば、そのせめぎあいから生まれたフラクタルにおいて、例えば都市の道路網の代替経路がどんな意味をもつかを考えてみることは、友田さんの「代わりに読む」ことと何か繋がりを見いだせないか、次はそこを探ってみます。
○読むことの代替性と連句
代替性というのは何らかの交換関係によって成り立つはずですから、経済などの人間の営みを前提とした観念と言えます(脳科学的には代替性は脳の構造の現れとも言われます)。今回のテーマの一つである友田さんの「代わりに読む」ということは人の行為ですので、フラクタルの例を考えるならば社会的な構造を引き合いにするのが良さそうです。その筆頭として挙げられるのは先に触れた都市の道路網でしょう。そのほかには送電線網、電話網、通信網、鉄道網、航空便網などなど多数挙がります。これらのネットワークは一部に何らかの障害が発生したとき、別のクラスターの代替経路があるパターンでつなぎ替えを進めるなどしますが、現実にはそれがうまく行ったり行かなかったりすることは巷でよく散見するかと思います。
それでは、上で考えたような文芸におけるフラクタル構造を考える場合、代替性としてどのようなことが考えられるでしょうか。漱石先生は『文学論』で認識的要素Fの時間的なフラクタル構造を考えましたが、友田さんは読書という読む活動の中にそれに似た構造を発見されたように筆者は感じました。しかも、それは一つの市街を歩きながら別の市街を思い浮かべるような構造です。上のフラクタルの例のように、都市の道路網の代替経路のつなぎ替えをする単純な重ね写しではありません。友田さんが「代わりに読む」ことを着想したきっかけは、会社時代の後輩マツヤマ君との新しいビジネスについての雑談が元になっていると言います。しかもそれはマツヤマ君からの「もっと自分で読んだという感じが、乗り移ってこないと、ダメです」という一言から、友田さんは「脱線の経験を共有し、読んだ人の中に、読んだ記憶を作り出すことを助けられないか」という考えに至り、ある一つのフレーズに思考が収斂します。
「ニューヨークのガイドブックで、京都を旅したことがあるか?」
この問いによって友田さんは、「ニューヨークをよく知る人が、突然京都の街に迷い込んだ時の感覚が擬似的に作り出される」ように、「『百年の孤独』を読みながら、私が違う物語に脱線し、話を少しずつズラすこと」で、「代わりに読む」ことが成立するのではないかと考えたのです。この“脱線の経験を共有し、読んだ人の中に、読んだ記憶を作り出す”という発想が、単なるつなぎ替えとは異なる斬新な点です。この着想に関連して、友田さんはご自身の出版社・代わりに読む人から『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』という好評シリーズも出されています(3巻構成で最新刊は『先人は遅れてくる』という主題)。こうして友田さんは、「代わりに読む」ことを着実に成功させるために、以下のような方法を導き出します。
私が「『百年の孤独』を代わりに読む」をはじめる準備をしていたときに、思いついたのがなるべく一見関係のない話をするということだった。そうやって関係のない横道へとそれていくことで、ゆるやかに、しかし確実に前へと読み進めていく道筋、いわば読書の登坂車線を作り出そうと考えたのだ。
(「第4章 リズムに乗れるか、代わりになれないか」より)
筆者はこのくだりを読んだとき、真っ先に連句の付け合いを思い浮かべました。“関係のない横道へそれ”、そして“確実に前へと読み進め”、“読書の登坂車線を作り出そう”という流れこそ、連句の精神と重なるものです。連句とは、五・七・五の長句と七・七の短句とを、一定の法式(規則)で、一定の句数まで付け合わせていく文学です。それは、四季折々の花鳥風月を配し、恋や無常(人の死や別れなど)をうたい、あるときは日常生活の断面をえぐるような、自然・人事のあらゆるものを題材に詠み込んでいく独特の文学とも言えます。その展開には序破急のリズムがあり、変化と調和の美学があります。参加者は複数人(連衆(れんじゅ)と言います)によるため、寄合の文芸、座の文芸とも言われますが、まれに個人単独による制作(独吟)もあります。作者は順次交替していくので、ある作者は次には読者になり、逆に読者は作者に代わっていくことになります(創作心理と鑑賞心理の交錯)。メッセージの送り手と受け手が随時交替するため、類のない大きな特色をもちます。その進行の裁量は、宗匠と呼ばれるリーダー(いわば指揮者や監督のような立場)が一座の調和と統一をはかって指導していきます。連句は、同じ空間で制作する点で共時的であり、一定の時間で付け合いを進める点では通時的な座とも言えます。小誌の関連で言うと、寺田寅彦がその後半生を連句の制作に費やし、膨大な数の歌仙(36句構成)を残しました。
友田さんは「代わりに読む」を進めるにあたり条件を設けました。これを筆者は連句の式目(規則)と同様に捉えています。さらに、連句の要諦には諧謔性というものがありますが、これは友田さんのもう一つの条件「冗談として読む」に通じるものです。そして何より“関係のない横道”へ「脱線する」という条件こそ、この連句の付け合いには必要な精神で、一つの巻の変化と調和を重んじるには、同じ季語・同じ語彙・同類語などが接近して現れるのを嫌います(これを去嫌(さりぎらい)と言います)。そのうえ、「脱線」はある種の「枝分かれ」にも通じますので、上で見てきたようなフラクタル性とも重なります。
○理解作用のモンタージュ
なお、もう一つ重要な点があります。連句におけるこうした付け合いの手法は、映画のモンタージュの方法に擬せられています。エイゼンシュタインのモンタージュ理論では、映画の画面の展開はショット(場面)とショットの衝突であると説かれていますが、連句の付け合いの展開にはこれと似たところがあることがわかります。むしろ友田さんの「代わりに読む」ことの中には多くの映画やドラマが例に挙げられていることを見ても、モンタージュとの比較論で考えるほうが相性がよいかもしれません(ちなみに上のくだりで友田さんは、筆者の好きな映画『タンポポ』のいくつかの場面を絶妙に“付け合わせて”脱線してくださっています)。そこで、もう少し友田さんの本に接近するため、読書におけるモンタージュについて考えてみたいと思います。
モンタージュ(montage)はフランス語で「組立て」や「取り付け」を意味する映画用語です。日本では昭和初期に、寺田寅彦によって俳諧がモンタージュ的だと指摘されました。映画などの一般的な創作において、モンタージュの原理とはどういうものかについて、外山滋比古氏の論評にわかりやすい説明があるので下記します。
われわれがものを理解するとき、対象のありのままが知覚されたり、印象づけられたりするのではない。いくつかの部分に分析されて、重要な部分だけが、新しい関係をつくり上げて、全体であると認識されたときにはじめて、理解になるのである。
全体が、ただ、ありのままの混沌の状態で知覚されても、それでは理解されたとは感じられない。ということは、捨てられる部分と強調される部分とがなくてはならぬということで、理解はそういう選択作用の上に立っている。さらに、その選ばれた部分をそのまま圧縮するのではなく、理解者側の主観的な秩序によって再構成されるのが普通である。(「モンタージュ」より)
これは映画や連句などの創作のみならず、読書においても同様に働くはずです。もちろん、科学研究における「観察・分析・綜合・発見」といった方法でもこの原理が成り立つでしょう。私たちが“理解する”という背景には、何らかの捨象なり忘却が作用し、それによって重要と感じられる記憶の部分が抽出され再構成され、そうしたモンタージュを受けて創造が成立するということかと思います。そう考えると、寺田寅彦が指摘しているように、連句のみならず生花や造園、料理、絵画、音楽、ラジオにもモンタージュの原理が拡大できることがわかります。だとすると、連句というのは「代わりに読む」行為を複数人の文芸形式に拡げたものと見ることも可能であり、読書会などもある種のモンタージュの応用と見ることもできるでしょう。では、モンタージュ原理で最も重要となるのは何でしょう。それは、忘却や捨象といった選択作用が働くための空白・空間であると外山氏は言っています。以上に関しても、友田さんは本の中で似たような説明をされているので引用します。
適当に飛ばしながらでも、読み方次第では、的確に代わりに読むことが可能かもしれなかった。もっと言えば、適度な距離を置いて、読み飛ばしてこそ、近視眼的な態度では見えないものが見えたりするかもしれなかったし、それこそが本来の読むということかもしれなかった。一文字もサボらず読めばいいという考え方は甘えに過ぎない。
(「第18章 スーパー記憶術」より)
こうなると、どういう空白があるのか、どの部分が忘却されたり捨象されたりしたのか、といったことに焦点が移ってきます。おそらく読書会の醍醐味というのは、参加者各人の印象や感想を語り合うことで、逆に何が捨象され空白となっているかを反省できるという点で、一個人が読書をするよりも多くの理解が得られるということなのかもしれません。前半で引用した友田さんの文章に“パッチワーク”という言葉がありましたが、これこそ「代わりに読む」ことのモンタージュ的要素を示していたことがここで分かってきます。モンタージュは創作する側だけでなく、それを鑑賞する側にも十分に働くものであり、となれば、創作と同様に批評というものも重視される必要があることも見えてきます。
ところで、友田さんは「代わりに読む」の終盤に近づくにつれて、この本の冒頭で最初に脱線したドラマ『それでも家を買いました』の女優・田中美佐子さんのあるシーンをときどき回想するのですが、問題はそのシーンがドラマを何度見返しても見つからないという不思議な記憶現象に遭遇します。面白いのは、その問題のシーンが友田さんの代わりに読む進度に合わせて、折にふれ記憶に浮かんでくることです。実は、連句でもこれに似た現象があって、それを一般に打越しと言い、通常ではその繰り返し(輪廻と言います)を避けるため何らかの規則を設けることが多いのですが、興味深いことに寺田寅彦はこの打越し現象を次のように考察しています。
遺伝に関してアタヴィズム(注:隔世遺伝)の現象があるように、連句の連続においても或る一句がその前句よりも一層前々句に似たがる傾向がある。……前句の世界と前々句の世界とは部分的にオーヴァーラップしており、前句ともまた部分的に重合しているのであるから単にプロバビリティーから云ってもそうなりやすいのみならず、まだその上に一層そうなりたがる心理がある。
(「連句雑俎 五 連句心理の諸現象」より)
これを詳しく分析するためか、寺田寅彦は音楽で主題が繰り返される形式にヒントを得て、「ロンド」という名称で小宮豊隆と輪廻連句を敢えて試みてもいます。友田さんの「代わりに読む」ことにおいても、このような似た現象が現れてくる心理は大変興味深いことです。
○終わりなき境界――枝分かれの果てで
ここで、先に説明したカオスとフラクタルとの関連で言及しておきたいことがあります。友田さんはこの本の最後で、ご自身が博士研究をされてきた数学になぞらえて、「Xを代わりに読む=Yという方程式の一般解を求めようとしていた」として以下のような問いを投げかけています。
Xを代わりに読んだものがYであり、Yを代わりに読んだものがZであるというふうにどこまでもつづけていくとき、代わりに読むという操作の行き着く先に、読んだものが再びそれ自身となるような、不動点が存在するのだろうか。あるいは、今私たちが読んでいるものがみな何かを代わりに読むことで書かれたのだとして、だとしたらそれは何を代わりに読んだものなのか? その何かはさらに何を代わりに読んだものなのか? これを繰り返していくとき逆向きにたどり着くことになる、原始の代わりに読むの対象は一体何だったのか? 最初に読んだ者は何を読んだのか。
(「第20章 代わりに読む人」より)
これはまるで、果てしない残像と遡像の統合によって、人類が理解することの本質がついに完結するその最後の瞬間を言い表しているような、そしてその瞬間がもし再び原初に読んだ者へと回帰していく不動点だとしたら、それはもう、新約聖書において「わたしはアルパでありオメガである」と言ったキリストの言葉を思わせるようでもあります。確かに、人類のために“代わりに”苦しみを受けて死んだキリストは、最も根源的な代替性を担った存在と言えるのかもしれません。多くの学問分野において、ある事実を発見した人は、その時点では自分の発見した事実の真の意味を完全には理解しきれないと言います。それは、その発見の何百年後かの人間にとっても同様で、その発見が何百年の間にどのように解釈され、拡張されてきたかを知ることはできても、その結果到達した現在の解釈が真に不変な解釈なのかは誰にもわかりません。ポアンカレが「法則の進化」を説いた由縁をここで垣間見ます。
数学が不慣れな方に上の引用で出てきた“不動点”の説明を簡単にしておくと、不動点とは、友田さんの表現でいう「Xを代わりに読む=X」となるようなXの点のことを言います。これは、カオスが数学的に発見されたときに登場してきた汎用性のある数学概念で、いくつかの軌道を繰り返す周期点が周期1になる状態でもあるのですが、こうしたくだりからも「代わりに読む」ことにフラクタル性が読み取れるかと思います。実際に、この友田さんの「代わりに読む」を“代わりに”読まれた方たちがいるのです(→、→)。かく言う筆者も、すでに友田さんの本を代わりに読み始めてしまった側の一人であるでしょうか。そうして深遠なる読むことの枝分かれは続きます。
友田さんはこの本のあとがきで、「ガルシア=マルケスは私にいわば小説の逆上がりを教えてくれたのだと思う」と書いていますが、まさに上の連句の例えでいうならば、この本は「ガルシア=マルケス・友田とんによる両吟歌仙」と言っても過言ではないでしょう。友田さんがこの本を通して実践されたことは、先の外山氏の論評の結びで以下のように示唆されています。
今日においては、読者のような受容者の理解作用にはたらくモンタージュに着目することが必要である。読者の感ずる、表現のおもしろさ、美しさは、モンタージュの幾何学的過程に負うところがはなはだ大きいように思われる。
友田さんはあとがきで「小説を人の代わりに読むことはできないというのは希望である」と結論されています。かりに一人の人間が、たった一冊の本を、一生涯かけて毎日読み続けたとしても、モンタージュの原理から敷衍すれば必ず新しい発見があるはずです。友田さんが「代わりに読む」というキーワードでこれを見事に実践され、この名を刻んだ出版社と雑誌まで起ち上げられたことに未来を感じないでしょうか。
「代わりに読む」ことの枝分かれはこれからも続くでしょう。上の引用で友田さんが問いを投げかけたように、その始まりはどこで、その終わりはどこなのか、読むことの分岐は果てしなく続きます。そもそも最初に読んだ者にそれをさせたのは誰なのでしょうか? 今となっては、もはや読むことの分岐に中央の存在は要りません。連句には最後の一句である挙句(あげく)がありますが、「代わりに読む」ことに終わりはありません。枝分かれの果てで、終わりなき「代わりに読む」ことの境界が、私たちの限られた時間に問いを迫ります――ラスト、どうしようか?