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バリアフリーから見えてくる「立場と感覚の相転移」

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バリアフリーから見えてくる「立場と感覚の相転移」

今年も糸瓜忌を迎え、新刊の『寺田寅彦「線香花火」「金米糖」を読む』に収録した随筆「備忘録」中の「仰臥漫録」を読み返しながら、正岡子規の最期を改めて考えてみました。結核から脊椎カリエスに冒され、「腹背中臀ともいはず蜂の巣の如く穴あき」、寝返りさえできない仰臥の世界。患部の「繃帯とりかへのとき号泣多時」、時に苦痛が募って「癇癪を起し人を叱す 家人恐れて近づかず」、或いは「俄に精神が変に」なり「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と「自殺熱はむらむらと」起き、「小刀を手に持つて見ようとまで」苦悶する。睡眠中の断続的な疼痛、歯や目まで痛みながら、それでも「食事は相変らず唯一の楽しみ」と誕生日には会席膳五品を平らげる。そしてまた繰り返される「まぐろのさしみ」「菓子パン」「ぬく飯」・・・「便通繃帯取替」「号泣また号泣困難を窮む」日々。病勢は進み、徐々に麻痺剤を用いながらも、あれだけの数の詩編を誌した子規の生命力は、寅彦先生が書いたとおり「巨人のヴァイタルフォース」そのものです(「子規の追憶」)。度重なる煩悶の中に時折漂うユーモアも、寅彦先生が悲劇の中の喜劇を感じた所以かもしれません。

こうした子規のグロテスクな生理欲求や強烈な病者のエゴイズムに偶然にも思いが重なったのが、今年芥川賞で話題になった市川沙央さんの『ハンチバック』です。主人公の「井沢釈華」は作者の市川さんと同じ筋疾患先天性ミオパチーを患う1979年生まれの女性で、成長期に育ちきれない筋肉は心肺機能も正常値を維持できず、仰臥時は人工呼吸器を着け、呼吸器から離れている間も、定期的に痰を取る吸引器は必須で、喉にはめ込まれた気管カニューレのために咳もできない。カニューレの穴をふさげば声は出せるが、喉への負担や痰が増えるので極力喋らず、最低限度で音声言語を使う。それも長い会話は息切れするためできない。この病を幼少期に発症した「釈華」は、右肺を押しつぶす形で背骨が極度にS字状に湾曲していく。そのため、ベッドは左側からしか降りられず、寄りかかるのは右側が楽な格好で、テレビは当然ながら左前方にしか置けない。物を取るにも右手しか伸ばせない。だから「釈華」は作中で、「世界の右側と左側に独特な意味を与え」たS字に湾曲した背骨とともに、「私の成長曲線も標準の人生からドロップアウトした」と独り語る。両親の遺産で土地建物も所有するグループホームは「釈華」にとって「終の住処」であり、そうして物語の軸は施設のヘルパー「田中」との性的関係によって進行していきます。釈華の性欲はまるで子規の旺盛な食欲に対比されるような露骨な欲求で表現されますが、それについては本題からずれるのでここでは止めます。

ここで注目したいのは、読書シーンで語られる紙の本への憎悪です。それを作者の市川さんは、「釈華」の言葉として「読書文化のマチズモ」と主張します。マチズモとは通常、筋力に象徴される「男性優位主義」の意味に取られますが、ここでは「健常者優位主義」(通常エイブリズムと表記)へと置き換えて、作中では敢えてルビ表現されています。そのように書かれた背景については、ライターの宮崎智之さんの「渋谷のラジオ」での番組「BOOK READING CLUB」のアーカイブで分かりやすく説明されているので視聴してみてください。当局でメディアディレクターも務める今井楓さんとタッグを組んだ期待のラジオ番組です。ちなみに宮崎さんは本作品を登場時から注目されており、芥川賞の受賞を当てられていたことも付言しておきます。

市川さんは作中で、この読書文化のマチズモを5つの健常性として以下のように指摘しています。

・目が見えること
・本が持てること
・ページがめくれること
・読書姿勢が保てること
・書店へ自由に買いに行けること

さらに心に痛く突き刺さるのは、「その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた」という一文です。「紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする」と語る「釈華」こと市川さんは、授賞式のコメントでもこのマチズモについて出版界に訴えていました()。

窮理舎が刊行している科学者の随筆誌『窮理』は、電子書籍の中心媒体であるkindleで創刊したのが始まりでしたが、実はその動機は市川さんの訴えるマチズモを意識していなかったことを大変遺憾に思っています。動機は単純で、紙媒体ではそれなりの部数で取次を経由しなければ書店流通できないことに加え、雑誌の返品率が年々増加していたことを回避しつつ、実験的にこのような新しい雑誌を刊行でき、全国一律に頒布できる可能性に注目したことが挙げられます。結果的には、紙媒体を切望する声によって現在は取次流通もしていますが、単行本に関しては未着手のため喫緊の課題です。近年では、日本出版インフラセンター(JPO)によって、アクセシブル・ブックス・サポートセンター(ABSC)が設立され、読書バリアフリーへの様々な取組みが出版界に向けて情報発信されており、窮理舎も協力態勢をとっています。

ここで読書バリアフリーといっても、電子書籍だけでなくオーディブルや点字なども挙げられ、朗読という観点からはラジオやYouTubeも有用と思われます。また、読書からさらに広げた視覚障害者のバリアフリーとしては、科学未来館の2代目館長でご自身も視覚障害者である浅川智恵子先生が活用されている「AIスーツケース」も紹介しておきます。14歳の時に視力を失った浅川先生は、視覚障害者が自由に世界を探索できる新技術を探求されてきました。それについてはTED Talksのスピーチ「How New Technology Helps Blind People Explore the World」もご覧ください。さらに、映画『桜色の風が咲く』のモデルにもなり、全盲ろうでありながら東大で教授となられた福島智先生の話も追記しておきます()。福島先生にとって、点字で本を読むこと、日記や手紙を書くこと、自分で思考することは救いだったと言います。カフカの『変身』や芥川龍之介の『歯車』を読んで自身の生き方に重ねているエピソードは、健常者にはない啓発的な視点を与えます。他にも上の市川さんと重なったのは、「車椅子の物理学者」としても知られるスティーブン・ホーキング博士です。学生時代に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、余命2年といわれながらも発症から50年以上も驚異的な研究活動を続け、2018年3月14日(アインシュタインの誕生日)に亡くなりました。ホーキング博士の半生(特に家族との闘病生活)については、『博士と彼女のセオリー』(The Theory of Everything)というタイトルで映画化され当時話題にもなっています。

何よりバリアフリーで特筆しておきたいのは理数系の学習支援です。これは理学関係の出版に関わる窮理舎から見てもまだ遅れている分野ではないかと感じます。例えば、理工系で基礎となる数学教育に注目してみると、その多くの出版物は紙媒体が主流です。とくに数式読み上げの問題は晴眼者にとっても重要で、例えば積分の場合、「インテグラルaからbまでオブf(x)」としたり、微分の場合は「微分dyバイdx微分終了」といった、英語表記も交えた読み上げで表記するなど、様々な提案もなされてきています。現況では、「ChattyInfty」というソフトが開発されており()、その進展も期待されます。現在、東大で数学を研究をされている視覚障害者の田中仁先生が書かれた共著論文もあるので参考に挙げておきます()。

また理工系教育では受験や試験環境の整備も重要で、昔の話では、東大理学部の試験で受け入れ対応がなかったために文転したといった話()や、欧米と比べて視覚障害者の理数系への進学率は少ないといった話もあるようです。なぜそこまで数学教育のバリアフリー化にこだわるかというと、そうした整備が視覚障害者と晴眼者のコミュニケーション手段にも有用であり、晴眼者の数学理解にとっても意義があると考えるからです。数学における抽象的な事柄の理解においては、むしろ視覚障害者のほうが優れているかもしれません。晴眼者は3次元のものを2次元の紙面で図に描いて理解しようとしますが、視覚障害者からすればナンセンスな話でもあり、むしろ4次元以上の世界は万人にとって見えない世界であるため、視覚障害者のほうが深い認識に達する可能性をもっているとも言えます。全盲の数学者の約6割がトポロジーを専門としているのも納得できる話です()。

そうした点で、全盲の数学者で知られるオイラーやポントリャーギンの例は、その業績分野をみても頷けます。オイラーは31歳頃から視力が低下し、還暦を過ぎた頃には両目を完全に失明しており、その後は脳内で執筆した論文を口述し、子どもたちが筆記したことで膨大な量の論文や著書を遺しています。ポントリャーギンは14歳の時にストーブの爆発事故で失明していますが、母親の献身的なサポートが数学研究を推し進めたと言います。その専門が微分幾何であることも得心します。

話が広がってしまいましたが、このようにバリアフリーを考えていくと、健常者には見えない視点が見える一方で、真の理解者は誰なのかという錯覚も起きてきます。例えば先の『ハンチバック』でいえば、被介助者である「釈華」のほうがヘルパーの「田中」より経済的には強者であったり、背も高く見下ろすようなくだりが出てきますが、健常者と障害者という単純な分け方やラベリングが浅はかであることもこうした例で分かります。市川さんは「相転移」という言葉が好きだそうですが()、そう言われてみると、この『ハンチバック』という作品の登場人物や物語の構成に相転移的な構図も重ね見てしまいます。

以前刊行した『寺田寅彦『物理学序説』を読む』では、「感覚」の章で登場する盲目の学者ピエール・ヴィエイの『盲人の世界』と合わせて、「鸚鵡のイズム」を仲立ちに、感覚を失うことと脳が作り出すイメージは別物である話を細谷暁夫先生に紹介して頂きました。寅彦先生はこの短文の中で、「反省的自覚なき心の機械的状態」あるいは「鸚鵡のような心的状態」という意味のシッタシズム(psittacism)を前提に、

他人の研究を記述した論文を如何によく精読したところで、その研究者自身の頭の中まで潜り込む事が出来ない以上は、その人の得た結果を採用するという事にはやはりこのイズムの匂がある。

と看破しており、上の細谷先生の「脳が作り出すイメージ」ということが示唆されます。このことは、随筆「KからQまで」の第5節

盲や聾から考えると普通の人間は二重人格のように思われるかもしれない。性格分裂者のように見えるかもしれない。時によって「眼の人」になったり、また時によっては「耳の人」になる。そうして「眼の人」と「耳の人」とは、必ずしも矛盾しないとは限らないからである。

からも理解できるでしょう。

健常者がいつ障害者になるかも分かりません。しかし障害を負っても、そうでなければ見えない世界や、逆に可能性が広がる世界があることは上でみたとおりです。人生のフェーズはいかようにも変わり得ます。巨人のヴァイタルフォースも、せむし(ハンチバック)の怪物の世界も、健常者には気づかない観点をもたらすある種の人間の相転移ではないかと想像を巡らしつつ、自戒をこめて、市川さんが指摘された読書バリアフリーへの準備を始めていきたいと思っています。

最後に、本稿の参考図書として上の宮崎さんの著書『平熱のまま、この世界に熱狂したい――「弱さ」を受け入れる日常革命』もお薦めしておきます。今回とり上げた『ハンチバック』や『仰臥漫録』の理解を深めるだけでなく、バリアフリーやジェンダー、ケアなど、日頃見過ごしてしまいがちな日常の盲点(とりわけ弱い立場にある側からの目線)を驚くほど優しい言葉で言語化しており、肩の凝りがほぐれるような読後感で、人生行路、考え事をしていて思わぬ迷路に悩まされたら原点に戻れるような本です。これも一つの相転移かもしれません。

本稿テーマは、例えば介護や福祉にまで踏み込めば、ここで語り尽くす事は不可能なほど課題や知るべき事が多いのですが、理系出版物に関わる側として何を為し得るかについてまとめてみた次第です。

 

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