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清美庵と蝸牛庵の釣三昧

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清美庵と蝸牛庵の釣三昧

第9号では、清美庵こと殿様 大河内正敏の食道楽エッセイ「中金の豚鍋」を取り上げ、その類い希な味覚と理研所長としての辣腕ぶりを細川光洋先生に解説していただきました。

今回は、この「中金の豚鍋」も収載されている中公文庫の『味覚』が、清美庵美食随筆集として新たに再版されたお知らせです。

復刊された『味覚』は、さらに「青とうがらし」「なまづ釣り」「色鍋島と鰻の大串」が加わり、さらに大河内ゆかりの人たち(鮎川義介、石橋湛山、伍堂卓雄、武者小路公共)や長男・次男らによる追想エッセイも添えられた豪華な内容となっています。(

細川先生の解説では、大河内に味覚随筆の筆をとらせたのは、盟友 寺田寅彦の随筆「郷土的味覚」(昭和7年2月)がきっかけだったのではないか、そして、大河内にとっての郷土的味覚は生まれ育った「江戸前の魚の味」であろう、と鋭くとらえています。さらに、何より大河内が愛したのは、船を浮かべる夜釣りの情趣であったと。

せっかくなので、新しく加わった随筆「なまづ釣り」の中から、釣りの粋ともいえる話を少しご紹介できればと思います。大河内の「なまづ釣り」の冒頭は、江戸時代のたなご釣りの話から始められています。

江戸時代の釣りで一番高尚な、そうして釣道楽をし抜いた人達の釣りは、深川の木場のたなご釣りであった、と、少年の頃よく父からはなされたものだ。亡父はそれ程釣りを楽しまなかったが、祖父が使ったと云うたなご竿が一竿残っていたのを見て成程実に凝ったものだと今だに記憶に新しい。祖父の使ったたなご釣りの道具は、残らず揃っていたと云う事であるが、火事で焼けたり散逸して残ったものは竿一竿であった。筆の軸にでもなる様な細い三四寸の篠竹を磨いた中に、鯨の穂先きが入れ込んである。糸は婦人の髪の毛の極く細くて長いのを使う。木場の筏の上に座布団と手焙りを置いて材木の間に竿を下すのだ。竿は必ず元の方を二本の指でちょいとつまんで魚に合わせる。それを小さな絹糸のさでですくい上げる。

この「たなご釣り」は、蝸牛庵こと幸田露伴の「江戸時代の釣」でも紹介されているほど有名な釣りです。露伴は大河内や寅彦とも交流がありましたから、きっと大河内は露伴と釣りの話もよくしていたのではないかと想像します。この露伴の「江戸時代の釣」の中から、たなご釣りに関する文章も紹介しておきます。上の大河内の文章と重なる部分も出ていて面白いです。

たなご釣りの竿は普通の竹ではない、凝りに凝ったもので、或は斑竹を根元に、穂先には鯨の鬚をもちいなどした。そうしてその金具などは刀の小柄やフチカシラなどの繊巧なものの如く、金、銀、烏銅と随分に思い切った贅沢をやったのである。釣糸の如きも普通の菅糸じゃ面白くないというので、白馬の尻尾の毛をもちいたり、洒落者になると、人間の生毛をもちいた。その人間の生毛も普通の婦人のでは面白くない、柳橋の芸者の某の美しい髪の毛を所望して、それも引張って引抜いては質が弱くなると云って、その根元へ鋏をいれて鋏み取ったなどという話ものこっている。こうなると、むしろ贅沢というよりは滑稽というに近い。

大河内曰く、「江戸末期ののんびりした釣りの醍醐味は此処にあったろうと思う。」というほど、この露伴の文章からも江戸趣味の楽しさが伝わってきます。

そして、このたなご釣りに近い釣りが、大河内の随筆の表題にもなっている「鯰釣り」だと紹介しています。その詳細はぜひ復刊された文庫を読んでいただければと思いますが、この随筆の最後に大河内が紹介している釣りの達人の話がたいへん興味深いです。こんな釣三昧な生活ができたら……、と羨ましく思うほどの話なのですが、それもぜひ文庫で味わってみてください。

釣りの達人となると、文豪ではもう一人、あの井伏鱒二も挙げておきましょう。井伏は知る人ぞ知る釣りの名手。その井伏が釣りの手ほどきを受けたという師匠の佐藤垢石の言葉を紹介して、今回は終わりとさせていただきます。

「おい井伏や、釣りは文学と同じだ。教わりたてはよく釣れるが、自分で工夫をこらして行くにつれて、だんだん釣れないようになる。それを押しきって、まだ工夫をこらして行くと、だんだん釣れるようになる。それまでに、十年かかる。先ず、山川草木にとけこまなくっちゃいけねえ。」

(井伏鱒二「手習草子」より)

 

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