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郷土の考古学者 丸山瓦全

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郷土の考古学者 丸山瓦全

第16号では、亀淵迪先生に「旅の楽しみ」と題して故郷の北陸にかつてあった杉津駅の話をご執筆いただきましたが、そこで紹介された民俗学者の柳田國雄の叙景がまた味わい深いものでした。今回はこの柳田國雄とも交流のあった考古学者で、窮理舎の地元足利市で活動していた丸山瓦全という人物を少し紹介させていただきます。窮理舎もよく世話になった、足利学校傍の古書店の尚古堂さん(2020年5月に閉店)のお知り合いの竹澤謙氏が昨年刊行された『丸山瓦全―とちぎの知の巨人』(随想舎)という本も合わせて、下記に抜粋紹介などしていきます。この機会に読者の皆さまにも知っていただければと思います。

丸山瓦全丸山瓦全は明治7年(1874年)に、足利市の街中の“通(とおり)”と呼ばれる中心部で、老舗の油商を営む丸山家の長男として生まれました。幼名は太一郎、本名は源八。この“通”という地名は今も足利中心街に残っており、第3号でご執筆いただいた小沼通二先生ともご縁のある地なのですが、それは別の機会に紹介します。

さて、この瓦全、若い頃は和歌・狂歌・俳句・都々逸や芝居などに熱中したようですが、家業の油店を継いだ後、ある所用で北海道旅行に出た際に、列車内で読もうと神田で買った歴史本がきっかけで考古学に興味をもち、この道に入ったと言います。(窮理舎の代表は中学時代は考古学を学びたいと思っていたところ、湯川秀樹の『旅人』と出会い、物理学に興味が移り今に至ります。人生なにがきっかけで己のたつきとなるか分かりません。)瓦全はこの後、油店経営の傍ら考古学研究に励むことになります。瓦全は自身のことを、「浅学薄識の小売商人でありますが、柄にもない遺蹟遺物漁りに趣味を持って居りますので、商売の油売の余暇に、体の油売りをいたしまして、独り楽んで居るので御座います。」(上掲書より引用)とNHKラジオで紹介しています。

そうは言うものの、考古学史に瓦全の残した業績は確かな足跡が認められます。その代表的なものは、佐野市羽田の竜江院に置かれていたエラスムス像の発見です。この木像は、1600年(慶長5年)に九州に流れ着いたオランダ船「リーフデ号」の船尾に取り付けてあったもので、国指定の有形文化財になっています。そのほか、瓦全は足利考古会を結成し、地元の郷土史や考古学研究の発展に尽くしています。国指定の文化財関係では他にも、県内塩谷町にある巨大石仏の佐貫石仏や、大谷石採石場跡の壁面に彫られた大谷観音なども紹介しており、足利学校や日光杉並木の保存にも貢献。これだけの活躍ができた背景には、家族の支えもあったことは言うまでもありません。実際、家業のほうは弟の順一郎に任せていたとも言われます。

瓦全が柳田國雄とどこで出会ったかというと、大正2年に行われた考古学会の足利研究旅行でした。夜に開かれた講演会で、柳田は「地方渚君に対する希望」という題で話しており、この背景には、瓦全に眼をかけてくれた当時の学会の評議員で幹事だった高橋健自の存在があったようです。高橋もこの夜、「鑁阿寺(ばんなじ)の南蛮伝来の剣に就て」という講演をしています。瓦全はこの知己を得て後、柳田が主宰していた雑誌『郷土研究』に初めて“瓦全”の名で投稿が掲載されました。瓦全という名の由来は、中国唐期に書かれた『北斉書』中の「元景安伝」の言葉「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」に因んでおり、「何もせず瓦のように生き永らえる」という謙譲の意味で使ったとあります。

この頃から瓦全の中央学界や全国の諸学会とのネットワークは広がっていきます。地元足利では梁田(やなだ)出身の民俗学者 中山太郎との交流もありますが、他には隣の群馬県の郷土史家たちとも多くの接触があり、中でも上毛郷土史研究会を起こした豊国覚堂(本名・義孝)の主宰する雑誌『上毛及上毛人』には数多く投稿しています。この『上毛及上毛人』には、第16号の高瀬正仁先生のエッセイや第13号でも取り上げた中谷治宇二郎も投稿しています。(高瀬先生も群馬県桐生のご出身です。)治宇二郎先生は、昭和2年2月発行の同誌第142号で「吾妻郡名久田村大字赤坂出土土偶に就て」を発表されており、豊国覚堂や瓦全との交流は不明ですが近い所で活動していたことは認められます。その証拠に瓦全も同時期に同誌に多く投稿しています。

瓦全は、この『上毛及上毛人』の第274号(昭和15年)に投稿した「上毛之印象(二十二)」で、「我が家の鹿祭」という興味深い文章を紹介していますので下記に引用します。

今より八十年前の、安政七庚申年如月念一日、狩師に逐はれて孕(はらみ)鹿が、前の高徳寺大門より我が家に遁(のが)れ入りし時、祖父は鹿は春日明神の使ひ姫なりと称し、之を助けて其夜、其頃殺生禁断の地であった、太田の金山に放ち、夫れより後、其際近傍の書家に拓して写生せしめておいた其図を掲げて、年々歳々其日に鹿祭りを行って居ります

(『丸山瓦全―とちぎの知の巨人』より)

素封家であった丸山家らしい家伝だと思います。60年の節目だった大正9年の鹿祭では、瓦全は『足利考古図集』を記念刊行しており、そこには鹿に関する物品を関係者諸氏から寄贈されています。寄贈者リストには、上で紹介した柳田國雄や高橋健自、中山太郎をはじめ、梅原末治、中島利一郎といった錚々たる顔ぶれが見られ、この時点での瓦全のネットワークの広さを物語っています。ちなみにこのときの鹿祭を瓦全は上の論文に次のように記録しています。

去る大正九年干支一循して満六十年に達した時、私が春日造の小祠を作り、奈良より春日大明神の御神札を受けて、其記念祭を執行いたしました、之は要するに、家門の繁栄を祈ると同時に、此床しい祖父の心事を、永く子孫に伝へたいと思ったからである。

寄贈品には、書画、詩歌句、漆器、陶器、文房具、鹿角製品、玩具、絵馬、拓本、古銭、小藩札などなど多彩にあったようです。鹿の本家本元の奈良からは、鹿の毛筆で揮毫された寄贈者の芳名録まであり、春日神社からも御神符や御神墨、春日曼荼羅なども下賜されたというから凄い話です。上の寄贈者の一人、中島利一郎は鹿に関する漢詩十二篇を寄せています。

この他にも、瓦全は戦時下で金属類回収令が施行される中、市内の寺にあった梵鐘の保護にも努めており、戦後においてはGHQにまで古墳旧蹟の保護を訴えたと言います。祖父がかつて保護した鹿のみならず、文化財保護への執念は根強いものがあったようです。瓦全は昭和23年1月に列車事故に遭遇しており、その3年後の昭和26年6月27日に亡くなりました。享年77。戒名は寧楽院拙堂瓦全居士。葬儀には500名を超える参列者の焼香があったと記録されています。晩年には県の文化功労章も受章しており、昨年は本人の遺品の整理なども市内であったと聞きます。

治宇二郎先生との関係があったか等わかればもっと面白いのですが、それは今後の宿題としまして、まずは窮理舎地元の考古学者をお見知りおき頂きたく紹介した次第です。上掲本については、版元の随想舎の案内などをご覧ください()。

 

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