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江戸中期に重なる日英学者の記録書を読む

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江戸中期に重なる日英学者の記録書を読む

明和8年(1771年)、江戸は千住の骨ガ原で腑分け見学をしたのは杉田玄白と前野良沢、中川淳庵。当日、腑分け者の虎松は病気不在だったため、90歳になる腕利きの祖父が担当した。春の生暖かい明け方、三名は携えていったオランダの解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解剖図と、腑分けした内臓各所に一つとして違っているものがなく、それまでの全ての権威の説との差異を確認して、ただただ驚嘆するばかりであった。実際にこの眼で見ぬうちはどんなものかわからぬぞと、玄白たちは心の底に疑った……

というのが『蘭学事始』に描かれている部分抜粋の要約ですが、著者の杉田玄白はこの後、『ターヘル・アナトミア』を前野らと翻訳して、日本初の洋書翻訳書でもある『解体新書』を刊行します。玄白はこれによって蘭学の大御所として知られますが、一方で、当時の社会情勢を医者らしい克明な描写で記録した歴史家でもありました。まさに、「この眼で見ぬうちはどんなものかわからぬぞ」という批判精神をもったリアリストだったと言ってよいでしょう。

第17号では、塩村耕先生に「リモート授業で安政コロリ体験記を読む」を書いていただきましたが、本項では、玄白が記録を残した江戸時代中期の出来事を、同時代に海を隔てた英国の博物学者ギルバート・ホワイトの記録書と照らし合わせながら見ていきたいと思います。

このギルバート・ホワイトは、年齢は玄白より13歳年長で、1720年に英国南部ハンプシャー州セルボーン村の牧師館で生まれました。オクスフォード大学で博物学を学びましたが、35歳頃からセルボーンに戻り、以来74年の生涯を閉じるまでこの地で副牧師として送り、その間に記録したセルボーンの自然(主に鳥類)の観察は、友人へ送った手紙という形で『セルボーン博物誌』(Natural History of Selborne, 1789)として英国を誇る書物となりました。

この『セルボーン博物誌』は鳥類の観察では精緻を極めており、ダーウィンにも影響を与えたと言われますが、本項では後半に記録されている当時の気候現象などを描いたくだりを紹介したいと思います。先の玄白らの腑分けではありませんが、自らの足で歩き、その眼で見た観察記録は霊眼ともいえるもので、自然の神秘の扉を開き、通常なら見逃してしまう造化の不思議を、柔らかい描写で見事に捉えています。

ここで紹介する箇所は友人のバーリングトン氏に宛てた手紙で、『博物誌』(全66信の書簡)中では第62信目の記録になります。

1776年の、あのひどい寒さに伴って起った出来事の中には、非常に珍しい変ったことがありましたので、かなり詳細にお話ししましても、御意に召さないものでもありますまい。
(中略)
1月7日――この日は、終日吹雪。ひきつづき12日まで、霜と霙と、ときおりの雪。12日には、大雪が人の世のすべての営みを蔽いつくし、吹溜りは門柱の天辺をこえ、刳道もすっかり雪に埋まる。
14日には、私は、よぎない所用で、たびたび外出しましたが、あんなにひどく荒れるシベリアの天候にあったのは、はじめてのことです。狭い道は、たいてい、すでに生垣の天辺をこす雪に埋められ、雪は生垣の間を吹きよせられて、実に面白い変った形となり、想像に絶して、みれば見るほど驚きと歓びとを感ぜずにはおられませんでした。
(中略)
14日から、雪は、いよいよ烈しくなり、荷馬車や駅伝馬車は、通行不能になりはじめました。もはや時間通り発着することは、できなくなったのです。
(中略)
20日になって、厳寒襲来以来はじめて太陽が照りました。
(中略)
22日、私は所用のため、北辺の地にも似た、このまことに荒涼とした怪奇な風景の中を通って、ロンドンへまいりました。ところが、首都ロンドンは、田舎よりもなお一層異様な姿を呈しておりました。と申しますのは、雪が深くつもっているので、車輪も馬の蹄も通りの舗石にはふれず、したがって、車は少しも音をたてないで走り廻っているのです。このように、町の騒音や、ガタガタという車輪の音が聞こえないのは、異様な感じを与えこそすれ、決して気持のよいものではなく、無気味な荒廃の感じを運んでくるような気がするのでした――
  静寂こそ恐ろしけれ――ヴェルギリウス――
27日は、終日大雪で、夕方、寒さが非常にきびしくなりました。(中略)日中は風が刺すようで、いくら頑丈な人たちでも、この風にまともに向かうことは、ちょっと我慢のできかねることでした。テムズ河は、ロンドン橋の上手も下手も、忽ちのうちにすっかり凍ってしまって、人々の群は、氷の上を駆け廻っておりました。通りは、もう異様なまでに雪に塞がれ、雪は粉々になって、踏むと埃のように舞いたち、さらに鼠色に変色して、天日塩を思わせるものがありました。屋根の上につもった雪は、カチカチに乾いて、ロンドンの町の家々の上に、前後26日間雪をのせておりました。最年長の主婦たちが、これほど長い期間雪の消えなかったことは、物心ついて以来はじめてのことだと言っております。
(後略)

(『セルボーン博物誌』山内義雄訳、出帆社)

この引用については、第9号の桜井邦朋先生が巻頭で書いている小氷期の時期とも重なります。1776年といえばアメリカ独立宣言の年でもありますが、日本では安永5年で折しも玄白の記録では、安永3年(1774年)に大寒波が江戸にも襲来していることが記述されています。玄白らが『解体新書』を刊行したのもちょうどこの年でした。玄白のその記録を見てみましょう。(読みやすくなるよう原文に句読点を入れています。)

三年の冬、例よりは寒気強く、所々の入口氷厚く船路絶て、來る正月に松はやすべき便りもなし。一と日朝、巳の刻まで名にしおふ両国川も氷閉ぢ、往来の船もとだえし事の侍りき。駿河國は暖國にて都て氷と云物を六七十年も見し人なし。然るに此冬は御城の外堀に氷閉しと也。此年頃、聞も及ばぬ寒気なり。

(『後見草 下』)

江戸でもロンドンと似たような気象現象があったことがわかります。とくに、氷が張るような事象を6,70年も見られたことがなかった静岡でも、同様の現象が見られていたのは興味深いことです。玄白のこの『後見草』(のちみぐさ)には、宝暦から明和、安永、天明という、いわば江戸中期のルネサンス(蘭学や芸術文化が非常に栄えた期間)に主に江戸で起きた社会事象を見事に活写しており、『方丈記』の鴨長明に自らをなぞらえている所も、その魅力的な一面を表していると思います。

上の大寒波が襲来した安永3年(1774年)前後には他にも際だった出来事が起きており、安永元年の冬から二年にかけては疫病が流行し、かなりの人々が亡くなったと記録されています。江戸ではあまりにも死者が多いため、幕府から人参という薬が身分の低い者たちに配られたとあります。時の奉行が調べたところでは、棺桶の数は19万にも上ったといいますが、その多くは身分の低い者ばかりで、ほどほどの身分以上の人たちはこの疫病にかかることはなかったと、玄白は鋭く指摘しています。安永4年には飛騨で百姓一揆、5年には疱瘡が流行し、7年には伊豆大島の三原山が噴火してその鳴動が江戸中に響き渡ったと書かれています。

さて、ホワイトの『博物誌』に戻ると、第65信目の記録には以下のような記述が見られます。

1783年の夏は、驚くべき異常な夏で、恐ろしい現象があいついで起こりました。と申しますのは、びっくりするような流星、ものすごい雷鳴が、わが国の諸州を震駭し困却させたばかりではありません。ふしぎな霞というか煙のような霧が、幾週間となく、英本島、ヨーロッパ全土、さては、それ以外の地方までも立ちこめたのですが、これは、全く珍しい現象で、今までにちょっと類のないことでした。(中略)真昼には、太陽は、雲のかかった月のように白っぽく、大地や部屋の床に錆色の赤褐色の色を投げておりましたが、とりわけ、日の出日没にはものすごい血のような色をしておりました。この間、ずっと暑熱はきびしかったので、獣肉は屠殺した翌日にはほとんど食用にならない有様でした。小径や生垣にはハエが夥しく群がり、ために馬は半ば狂気じみて馬に乗る気にもなれませんでした。田舎人たちは迷信的な畏怖の念を抱いて、この赤い陰鬱な太陽を眺めはじめました。実際どれほど教養のある人にしても、薄気味わるくなるのも無理はありませんでした。この間、カラブリア(イタリア南西部)とシシリイ島の一部は、地震で爆発震動しました。ちょうど、そのころ、ノールウェイの海岸では、海から火山が噴出しました。
(後略)

この手紙に続く第66信目には、同じく1783年から84年に起きた他の出来事も描かれており、暴風雨に見舞われ、大粒の雨が3インチほどの巨大な雹になり、大洪水が発生して畑に大損害を与えた記録が書かれています。「大きな雹が池や沼をうつ有様を見た人たちは、水の逆巻く姿はまことに物凄い光景で、水面から中空に3フィートも高く、泡や飛沫をあげていたと言っております。」とその凄まじさを物語っています。

この1784年は日本では天明4年で、この時期はあの「天明の大飢饉」が起こりました。当然ながら玄白の記録にも、ホワイトと同様にその烈しい天変地異が記録されていますので、そのくだりを見てみましょう。

その年もくれ、明る二年の春よりは、海上の波あらく、何がしの浦、何がしの沖、船とも数多破れし事、何百艘とも知れざるよし。凡(ただ)此年一年の間の溺死せし人数しれず、わづか極月十七日の一日にさへ七百餘人死せしとなり。六十二年前方、かかる覆船の難多かりしが、夫より後は聞傅え侍らずと、老たる人の語られき。
(中略)
又同年、春より夏に至り、雨多く降けるにより、所々洪水の訴しげく、中にも伊予土佐の地は甚しく、田畠もあれ損し、人馬数多、魚の腹に葬られしと也。又関東も日々に日和あしく、空曇り、暑さ強く、日毎に蒸が如く、文月の初めより、小き地震二三度づつふるはぬ日はなかりしなり。扨(さて)同月十四日の子の刻頃、どろどろと鳴出し、物音強く、ゆり立たり。人々の寝たる頃なれば、驚き騒ぐ事少なからず。明る十五日は殊に空打曇り、残る暑さもわきて強く、諸人、日の暮るを待かねて、涼みがてらに端居して居たる頃、又俄にゆり出し、踏もとまりかね、壁を振ひ、瓦を落し、戸障子なんどを打倒し、大地ゆさゆさ動揺して、古くあやしき家どもは、見る間に倒すも多かりき。翌朝見渡せば、庭の面は氷のごとく開き裂、其中にも小日向の江戸川岸、三尺許も震り開きけり。程経て後に聞ぬれば、相模國小田原は城の櫓を初として、商人農人の家蔵より神社仏閣に至るまで、直に立けるはなかりし由。八十年前、未の年の大地震と聞えしは、殊に勝れ侍りしが夫より後、かく甚だしき更に覚え侍らずと、百年近き老翁の昔を引て語られたり。

天明2年(1782年)、海が大荒れして700人余りの人が亡くなったと思えば、雨が多く洪水は四国に及び、夏には暑さも厳しく蒸すような状態で、次第に地震が江戸でも起こるようになったというのですから、上のホワイトの記録と重なるところがあります。小田原では80年来の大地震が起き、100歳近い老人が「覚え侍らず」と言うほどの出来事だったとあります。しかし、激動の天明期はまだ続きます。天明3年(1783年)7月、有名な浅間山の噴火が起こりました。しかも、その始まり方が実にリアリティのある描写となっています。

然るに六日の夜半頃、西北の方、鳴動し、雷神かと聞ば、さに非ず、一聲一聲鳴渡れり、夜は已に明けれど、空の色ほのぐらし。庭の面を打見れば、吹来る風にさそはれて、細き灰を降せたり。漸く午の刻に至る頃、風も止、灰も止、初めて夜の明し心地せり。又其日の夕暮方より、同様に鳴出し、終夜止もせず。明る七日は猶はげしく、降灰も大粒にて、粟黍なんどを見る如し。手に取て能見れば、灰にはあらで、焼砂なり。又是に交りて馬の尾の如き物、同じ様に降来る。色は白も黒も有。又其砂の積ること、違はあれど、深き所に至りでは、繁き霜かと怪しまる。同八日の早朝は、其震動の強きこと、頃日よりもすさまじき也。人々の申せしは、過し頃、薩摩國櫻島の焼ける日、空曇り、灰降りぬ。是は夫より多ければ、遠國にてはよもあらじ。近きあたり、日光か筑波の山にてあるべしと、口々に云触たり。
(中略)
昔より七難とて災難七ッなるなかに、そも是はいかなる難にて侍る。聞さへも猶おそろしく、惣て此度の變災にかかりし所、浅間獄の麓より、利根川のみきはに至り、凡(ただ)四十里計の内、皆泥海の如くになり、人家草木一つもなく、砂に埋れ、泥に推れ、死亡せし牛馬限り幾程と云、数しれず、老若男女僧俗まで、合て二萬餘人也と。さればこそ元利根川、新利根川、其川下の流れ流れ、人馬の死骸充満せり。宝永四年亥年に富士山の焼けるは古今の變事と聞えしが、是はそれにも増りし由、實に希代の天災なり。

噴火の描写は長く続くので途中略しましたが、浅間で起きた噴火の降灰が江戸まで届き、昼でも空がほの暗かったのですから、いかに大きかったかが分かります。略している箇所では、利根川からは家財や潰れた家、夥しい死体が流れてきたとも書かれています。軽井沢では、急に空が暗くなり、雷火が眼を射るかと思うと、日中でも暗夜のようで松明や提灯がなければ昼でも歩けなかったとあり、更に湯よりも熱い泥土が降ってきたというのですから、噴火の凄まじさが伝わってきます。富士山の宝永の大噴火よりも増さると書いているほど、「希代の天災」だったのです。

この後、天候不順が続き、米価は高騰。身分の低い者たちは食に窮し、川に身を沈める者、先に死んだ者の死体を切り取って食べる者も出るほど、飢饉の惨状は語るにしのびないものとして描かれています。また追い打ちをかけるように、飢饉の後は疫病が流行し、二つの災難によって人が死に絶えた村々まで出て、「斯かる無慙のありさまは如何に乱離の後とても及ぶまじ」というほど凄惨なものでした。天明6年(1786年)には箱根山が噴火、洪水も相次ぎます。さらに、「空中に怪しき音」がしたり、「月の二ッ並び出し」、「海の面潮一時に真水となり」、旋風台風も吹き荒れ、政治の頽廃に風紀乱倫、将軍家薨去も加わり、「此程の変事共、此事の御知せと始めて思ひ合ひたり」、「人道の乱れ侍る事、是非もなき世のならはし也」と悄然と結んでいます。

安永や天明期の描写だけでもこれほど多くの天変地異と酸鼻を極めた出来事があったのですが、その前の明和期でも絶え間ない天変地異は起きていました。明和7年には日本国中が急に空が赤くなったり、海では「有べき物其地にはなく、あるまじきもの其地に生」じるなど、それまで聞いたことがないような出来事が起きています。また、帚星が何度か観測され、「君が代はくさきもなびく帚星 天下太平ぶうん長久」といった狂歌も歌われていますが、上のホワイトの記録にも年代は異なるものの「びっくりするような流星」の観測が記されていることは興味深い共通点です。さらに、江戸に旋風が吹き荒れ、家々が倒されたり、感冒も流行するなど、玄白の目は人事諸般も含め、敏感に当時の社会を捉えています。

流星に関しては、コロリ流行や大地震のあった安政期にも帚星は観測されており、ドナティ彗星などはその一つかと思います。現代では2020年にネオフィズ彗星、2011年にラヴジョイ彗星なども観測されており、確かに気になる共通点は思い当たるところです。

玄白はこの終末論的危機感に貫かれた『後見草』の結びをこう記しています。

…若かりし時より風化次第に乱れ下り、此の末いかなる世とやなりなん。また如何なる事や出来なんと、五十年にあまる老の身にも応ぜぬ事のみを、日夜案じ居り侍りし…

玄白の目には、この後そう長くは続かなかった徳川の世の行く末が見えていたのかもしれません。これを現代の我々に置き換えるならば如何なる読み方もできるでしょう。しかし、少なくとも異常現象だと今般言われている出来事は、遠い昔にもやはり似たようにあったということは言えるでしょう。

『後見草』を脱稿した翌年の天明8年(1788年)、56歳の玄白が書いた漢詩を最後にあげておきます。この翌年の1789年、海の向こうではフランス革命が起きました。

空斎暁不眠(空斎暁眠らず)
擁褐対残燈(褐を擁して残燈に対す)
隔戸聞過雁(戸を隔て過雁を聞き)
凄然嘆暮年(凄然として暮年を嘆ず)

眠らずに夜を明かした私は、粗末な服を着て灯火の残りと相対している。家の外を雁たちが飛び過ぎていく声を聞くと、かつて交遊し切磋琢磨した友たちを思い出し、我が老いた身を凄然と嘆いているのだ。

(天明8年8月30日「鴻雁来たる」)

果たして我らが現代も、「此の末いかなる世とやなりなん。」

 

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