科学と文学における「虚」と「実」――複雑系科学と物語論
この表題をみて、科学に詳しい方であれば複素関数を連想するかもしれませんし、俳句に詳しい方であれば芭蕉の言葉が思い浮かぶかもしれません。結論をいえばどちらも正解です。本稿は、この虚実論にもう少し深入りして、科学と文学について考えてみようという話です。
虚実論の手始めに、俳句で有名な芭蕉門での「虚」と「実」についての文章を見てみましょう。門人の一人、各務支考(かがみ・しこう、1665~1731)が聞いたとされる芭蕉翁の言葉です。
翁の曰く。俳諧といふに。三つの品あり。寂寞はその情をいへり。女色美肴(びかう)にあそびて。麤食(そじき)のさびをたのしみ。風流はそのすがたをいへり。綾羅(りょうら)錦繍(きんしゅう)に居て。薦(こも)着たる人をわすれず。風狂は其の言語をいへり。言語は。虚に居て実をおこなふべし。実に居て。虚にあそぶ事はかたし。此の三つの品は。ひくき人に。高き所をいふにはあらず。高き人のひくき所をいふなりとぞいへる。
芭蕉翁が言うに、俳諧というものには三つの境地(寂寞・風流・風狂)がある。寂寞(ものさびしさ)とは「情」を意味するもので、それは色事や美食を味わいながらも粗食の味わいも楽しむ境地である。風流(みやび)とは「姿」を象徴するもので、上等で美しい着物を着ていても古びた粗衣を着ている人も忘れない境地である。風狂(風雅)とはそれを表現する「言語」のことで、この言葉の世界とは、自在の心(虚)でいながら俗世間(実)の言葉で俳句をつくるべき境地であるが、一方で、俗世に心が染まって居ながら(俳句を作るような)自在な心であそぶことは難しい。この三つの境地は、俗世間(ひくき所=実)に染まって居る人が自在の心(高き所=虚)を表現できるようなものではなく、自在の心に達した人が俗世間のことを表現できる境地で、それがいわゆる俳諧である。
(『風俗文選』巻之九より)
この引用は、日常生活の中で俳諧精神を体得するための心得を、寂寞=情、風流=姿、風狂=言語、と3つの境地に分けて教えています。その要点は俗世間(実)と自在の心(虚)の相対的関係を把握することで、引用の最後の文章は、芭蕉翁の「高くこゝろをさとりて俗に帰るべし」という別の言葉でいい換えられるかと思います(服部土芳『三冊子』あかさうし)。いわば「磨き抜かれた俗語による俳諧」であり、蕉風俳諧の精神は人の生き方にも直結します。この「虚」と「実」の関係性は、俳句結社によっては「主観」と「客観」であったり、「嘘」と「真」であったり、様々に解釈されるようですが、今回はどの解釈も含めたまま以下進めてまいります。
さて、第22号の巻頭では金子邦彦先生に、研究テーマの「普遍生物学」についてその概要を語っていただきました。先生の大著『生命とは何か』と『普遍生物学』(ともに東京大学出版会)のエッセンスを要約したような内容になっていますので、巻頭を読まれればその研究の方向性はご理解いただけるかと思います。実は金子先生のご研究(複雑系研究)にも、上の芭蕉の言葉にある「虚」と「実」という事が関係しますので、先生の物語論なども絡めながら以下みていきましょう。
「普遍生物学」研究の基本的立場は、いわゆる要素還元的な量子レベルで理解していくようなスタンスはとっておらず、生命を分子、細胞、個体、生態系という階層をなすシステムとして捉え、その中で「部分と全体の相補性」を重視しています。そのためシステムという観点から熱力学が重要になり、それゆえ上の階層と下の階層が双方向的に関係し合うという見方をします。その際に「モデル化」という手法が要になるのですが、そこにヒントを与えたのが金子先生が10代のときに出会い、親しんでこられた小松左京氏のSF小説で、とりわけ代表的な長編『継ぐのは誰か?』に出てくる「普遍生物学」という――予言的ともいえる――研究テーマです。この「普遍生物学」の説明をご参考までに小説から抜粋します。
普遍生物学――この宇宙における生命現象の普遍的パターンと、そのバリエーションの可能性をさぐる生物学で、前世紀末から急速に拡充しはじめた。まだ理論的推論の域を出ないが、しかしこの分野がひらかれてから、生命の位相学的解釈が急速にすすみ、近いうちに生物学の領域における相対性理論のような、画期的な理論の出現が、期待されるところまできた。
この小説は1968年に『S-Fマガジン』誌に連載されたものですが、まるで現在の研究を予言していたかのような内容で驚きます。そのクライマックスでは、南米に存在する電波・電気人間も登場し、文明を継ぐのは誰か? という主題へと読者を誘います。小説中の「普遍生物学」の構想には、人工生命研究として生物進化をあり得べき歴史経路も含めて鳥瞰する事が盛り込まれているのですが、現実に金子先生の研究でもそうした取組みがなされており、複製、適応、記憶、分化、進化といった基本問題の解明がこれまでも進められています(上の引用への金子先生の注釈も含めて、詳細は上掲の『普遍生物学』を参照)。なかんずく、こうした研究の中で重要な「モデル化」という手法が、あに図らんや文学の「物語論」と繋がってきます。
例えば、金子先生のカオス研究では、「現実世界のある側面を切り出し、そこからある特殊な人工世界を構成し、その進展を追っていくことで、かえって現実を照射しようというもの」(『カオスの紡ぐ夢の中で』)と説明されており、このことは文学の物語論でいう所の「物語を作る過程」と共通点が見られると言います。これは虚実論で言い換えると、「虚」のモデル世界で「実」の現実世界をどこまで表現できるか、という問題にもなります。複雑系研究では主に、プログラムや文字列、シンボル等で様々な「虚」の世界が書かれる一方、「実」世界は予測不能な事象で満ち満ちており、両者の適度な対応関係をシミュレーションしていくことになります。ここで、金子先生が親しまれていた小松左京氏はどう考えていたか見てみましょう。
小松氏は自身の創作において「虚」という点に着目します。科学でいう「虚」は複素空間でいう虚数(イマジナリー・ナンバー)を媒介に量子力学などで当然の道具として使われていることに対し、文学でのそれは「物語性(ストーリー)」「虚構(フィクション)」という意識の対象(ノエマ)としてのコンセプトと、「想像力(イマジネーション)」という意識の作用(ノエシス)としてのコンセプトが共に対応する、と小松氏は言います。これをより細かく言い表せば、
「物語」は、個々の人間の、時間空間的に制限された「人生」の中に閉じこめられた「現実体験」に対して、その自己意識の代替物として仮託された「架空の自己」を媒介として虚構空間の中で経験される「擬似人生体験」としての意味をもつ。――これを「仮想体験(ヴァーチャル・エクスペリメント)」、あるいは虚数(イマジナリー・ナンバー)と同じ意味で「虚体験(イマジナリー・エクスペリメント)」とよぶべきだろうか。
(小松左京『ユートピアの終焉』より)
と敷衍しており、加えて科学の世界の例として、
先端物理の領域で、宇宙の天体の運動や、極低温の背景輻射から、物理学者たちは、宇宙時間を逆行させ、始原状態にまでさかのぼり、「極端な状態」を考え、そこから「物理法則の恒常性」をたよりに――これも「特異点」を除外しても、完全な保証はないという意見もあるが――何通りもの「可能な宇宙史過程」のモデルやストーリイを考え、どれが一番既知の法則との関係で整合性と総合性があるかをしらべている。
(上掲書より)
といった宇宙物理でのモデル化の例を挙げています。
そこで、文学の世界では実際にこの物語論というものがどれくらい研究されているものなのか、いくつかの例を見てみましょう。最近(2022年)刊行されて話題となった渡辺祐真(スケザネ)氏の『物語のカギ』によると、「物語論」は文学研究では「批評理論」という枠組みに入るようです。「ストーリーが生まれる仕組み、ストーリーの基本的構造などを研究する」というもので、上の小松氏の話とも通じます。(スケザネ氏の本ではこのほかに、物語を読み、創作する上で有用なレトリック的なヒントや多くの古今東西の作品例が38のカギとして紹介・解説されており、文理問わずお薦めします。)
さらにスケザネ氏の本では、物語を味わい創作する上で重要なカギの一つとして、「描かれたものと描かれていないもの」をいかに読み、いかにバランスよく作り込むか、が物語の総体として着眼されます。これを「対位法的読解」と解説してありますが、面白いことにこれと同様なやり方で金子先生はモデル化の説明をされています。
金子先生にとって優れた作家というのは、物語の創作に際し、ある程度まで書き込むことで細部によらない安定な記述を可能にしつつも、さらに書いていない細部によって様々な読みを可能にするよう膨らませ、この二つのバランスを絶妙に按配できる人だと言います(この辺りの話は寺田寅彦「科学と文学」の「言葉としての文学と科学」や「実験としての文学と科学」の章も参照)。この視点に立って、カオス研究についての金子先生の文章を引用します。
多くの要素が絡みあった系では、個々の要素がある瞬間にどんな値をとっているかは予想できないけれど、全体の平均値はある程度予測できる、つまり細部によらないということが起こってくる。そして、そのような個々の要素の不安定性と集団での安定性が共存する仕掛け、ないしは安定に見える記述の切り口を探ることはカオス研究の重要な課題となっているのだ。
(「複雑系へのカオス的遍歴」より)
前半で述べた「部分と全体の相補性」なども関係する話ですが、このように複雑系研究と物語論がいかに共通する要素をもつかが見えてきた所で、もう一例、小誌第21号でもご執筆いただいた文学研究者の千葉俊二先生の物語論を紹介します(千葉先生に関する記事はこちらも是非→)。千葉先生は物語の研究において「法則」と「モラル」を柱にされています。前者は興味深いことに複雑系科学に着想を得たもので、解説を引用すると、
小説をはじめとする文学作品も、細部があつまってコンテキストを形成しながら、全体で大きなひとつの統一的なテーマなり、主題を提示しているならば、必然的にそれは細部と全体とが照応対比するようなフラクタルな構造をもつということができる。もしフラクタルな構造をもち得ていないとしたならば、それはまったくの失敗作ということになろう。これは近代文学における「作家」という概念においても同じことがいえる。それこそ作品と作家はフラクタルな関係にあるので、近代の作家は処女作から出発して作品を書きつづけることでひとつのコンテキストを編んでおり、その描く軌跡は必然的にフラクタルな図形とならざるを得ない。処女作にはその作家のすべてがふくまれており、作家が処女作に向かって成熟するといわれるゆえんである。
(『物語の法則』より)
と、自然界に見られるフラクタル現象に物語の生成パターンを投射した興味深い論考になっています(「フラクタル」とはマトリョーシカのような入れ子構造をもった自己相似性のことで、数学者のマンデルブロが発見した概念です)。作家の処女作が後の作品まで原型となる、という法則性は確かに寅彦作品などをみても関心をそそられます。
では、後者の「モラル」はというと、これは森鴎外の作品『サフラン』に出てくる言葉に由来するもので、より詳しく引用すると、
「物語」は、それを物語るものにとっても、それを享受するものにとっても、それにかかわるものの意識において現象するものである。したがって、「物語のモラル」ということは、その物語にかかわるものの価値観であり、世界観であり、モラルである。「物語」には、あるパターンがあって物語的な法則に従いながらも、二度と同じかたちを示すことがない。物語を構成する一語一語が、その物語にかかわるものの価値観、世界観、モラルによって選択され、文学作品はそうした一語一語の初期値にきわめて鋭敏に依存しているからである。
(『物語のモラル』より)
として、物語を語る言葉一つ一つの「選択」にも影響するものだと指摘されています。このモラルについては、上のスケザネ氏の著書にあるケアやジェンダーなども現代では関係するかと思います。
ここまでくると、物語論と複雑系科学の強い連関が明瞭になってきました。金子先生のご著書『カオスの紡ぐ夢の中で』には、以上のような物語論を踏まえて書かれた「小説 進物史観―進化する物語群の歴史を見て」という創作も収録されています。先生の研究室出身で小説家となられた円城塔氏のペンネームのルーツがこの小説で分かりますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。
金子先生の小説にも登場しますが、例えばカオス研究では、計算機シミュレーションで初期設定が決まると、不思議なほどその後の発展が生成されていき、いわば物語が勝手に動いていくような事が起きると言います。カオスがあることで、バタフライ・エフェクトのように微小な初期値の違いが大きな差となる例もあります。まさに、作家が「書いていること」と「書いていないこと」のバランスをとるように、物語の「法則」と「モラル」によって、「虚」の世界は「実」の世界へと絶え間ない反映の繰り返しを見せるわけです。このことを浄瑠璃における近松門左衛門の『虚実皮膜論』では、以下のように急所を突いて表現されています。
芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。なるほど今の世、実事によく写すを好むゆゑ、家老は真の家老の身ぶり口上が写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく顏に紅脂白粉(べに・おしろい)を塗る事ありや。また、真の家老は顏を飾らぬとて、立役が、むしやむしやと髭は生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間を言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。
ここでの「皮膜」とは身体の皮と肉の境目のような微妙な所という意味です。上の金子先生の引用にある「書かれていない細部」といった話をイメージする上で、この近松翁の言葉を通してみると良いかもしれません。立役が顏を飾るということは「ある程度まで書き込むこと」と軌を一にします。そして、近松翁が「皮膜」と表現した微妙な「虚」と「実」の間であったり対応関係に、頂門の一針のごとく目をつけているのが湯川秀樹です。湯川先生はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を愛読していますが、この物語には現代科学の根底に触れるものがあるとして以下のように述べています。
ある人が言ったことと、その人が見たこと、行ったこととが矛盾すれば、言ったことが嘘になる。しかし、その人の意識下の動きにまで立ち入れば、虚実のまじった全体の逆説的表現の方が、真実をより完全に示すことになるかも知れない。人間の心理だけでなく、人間をふくんだ自然界についても、人間の感覚で捕えられる外面的事実や意識に浮ぶ内面的事実のほかに、もっと奇妙なものをふくむ、もっとスケールの大きな、もっと奥行きの深い全体を考えることによって、真相がより完全に把握されるのではないか。
(「カラマーゾフの兄弟」より)
ちなみに湯川先生が大学生の頃に『カラマーゾフの兄弟』を読んだときの感想も下記します。
「カラマーゾフの兄弟」は驚くべき小説である。恐ろしい、けがらわしい世界が描かれている。登場人物はさかんに嘘をつく。それにもかかわらず、読んでいくうちに何となく魂が清められてゆくような気持ちになる。……
(上掲文より)
この湯川先生のいう「虚実」と人間の意識の問題は、小松左京氏の話や千葉先生の「モラル」とも関わるものでしょうし、複雑系研究の未来への示唆ともとれます。湯川先生の代名詞である「混沌」や「具象以前」をモヤモヤと彷彿させますが、このような指摘こそ上の近松の『虚実皮膜論』や冒頭の芭蕉の言葉と表裏しているように思われます。実際に、湯川先生は近松や芭蕉についても言及しており、とりわけ近松については、「浄瑠璃は人間の知性よりも、むしろ知性では明確にとらえられていない意識下の世界により多く訴えているのではないか」(「近松浄瑠璃」)と、上の『カラマーゾフの兄弟』と同様な興味を示しています。そして、この人間心理の作用も含めた複雑な交錯を、まるで実験するかのように戯れていたのが複雑系研究の元祖 寅彦先生です。寅彦先生は「科学者と芸術家」の中で湯川先生と似たような指摘をしています。
小説家が架空の人物を描き出してそれら相互の間に起こる事件の発展推移を脚色している時の心の作用と、科学者が物質とエネルギーを抽象して来てその間に起こるべき現象の径路を演繹している時のそれとはよほど似たものであるように思われる。
そして、その虚実論には要を得て短くまとめた以下の文章があります。
俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。
数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。
虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。
二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
これは単なる言葉の上のアナロジーではあるが、連句はやはり異なる個性のおのおののXY、すなわちX1Y1X2Y2X3Y3……によって組み立てられた多次元の世界であるとも言われる。
それは、三次元の世界に住するわれらの思惟を超越した複雑な世界である。
「独吟」というものの成効し難いゆえんはこれで理解されるように思う。
また「連句」の妙趣がわれわれの「言葉」で現わされ難いゆえんもここにある。(昭和2年5月『渋柿』より)
寅彦先生はこのような連句観を映画にまで展開し、モンタージュ論や音楽形式論も交えながらその未来像について多く語っています。とくに連句と物語の関係は複雑系研究の立場から見ても黙示的です。
こうして、物語論と複雑系科学との比較を見てきて気づく点はどこでしょうか。千葉先生が提唱している「物語のモラル」に相当するものは科学にはあるでしょうか。そこに科学の価値基準や科学者の倫理観が関係するわけですが、それは上の湯川先生や寅彦先生の引用文とも結びついており、科学と人類の将来を考えていく上で切実かつナイーブな事案ですので、この件は別途とり上げたいと思います。
以上のような考察は、科学における「虚」と「実」という視点をとることで見えてきたことです。他分野を交えての今後の議論の発展を期待します。最後に金子先生の言葉で総括しましょう。
科学の歴史というのは、我々の作る「虚」と我々の注目する「実」の共進化とみなせるのだろうか。
(「複雑系へのカオス的遍歴」より)