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熊楠と漱石と寅彦の「蓑田先生」(後編:熊楠と蓑田先生、そして漱石)

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熊楠と漱石と寅彦の「蓑田先生」(後編:熊楠と蓑田先生、そして漱石)

さて、前編では、寅彦の青春時代を彩った蓑田先生(蓑田長正(長政))との出会いと、随筆「蓑田先生」の背景を寅彦日記などを通して見てきましたが、本題の南方熊楠と蓑田長正がいつどこで出会っていたかについて、この後編で紹介します。

そのことは、『寺田寅彦全集 第十巻』2010年6月の月報10に掲載された、文芸評論家の末延芳晴氏の「「蓑田先生」と南方熊楠」に詳説されていますので、それと末延氏の著作『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社)も合わせて参考文献としてご覧ください。

まず二人が出会った時期と場所についてですが、分かっていることは熊楠が明治21年11月に移り住んだ、当時日本人留学生の多かったミシガン大学のあるアナバーでした。熊楠は大学図書館で独学を続けていましたが、留学生仲間と夜になると酒を痛飲しては激論を交わす日々を送っていたようです。蓑田長正との交流はその中から始まったことが、熊楠の日記からわかっています。以下、末延氏の文章を引用しておきます。

蓑田長政と南方熊楠の出会いと交わりの推移を追ってみると、最初は蓑田がゴリゴリのキリスト教者であったことと議論好きであったことで、二人は反目しあい、激しい議論を戦わせていたが、それでも熊楠が長政の家に泊めてもらうようなこともあった。それが、熊楠がアナバーで独学生活を始めてからおよそ二ヵ月後に起こったある事件がきっかけで、熊楠が蓑田長政はじめ日本人留学生の卑怯な振る舞いに激怒し、痛烈に批判したことで、二人の関係は断絶寸前までいくことになる。

こうして熊楠と蓑田先生の出会った背景はある程度わかってきましたが、上のある“事件”というのは、「日本人留学生禁酒決議会議」(明治22年1月24日)だったようで、蓑田長政はこの会議の主催者の一人でした。そもそもこの会議が開かれた訳は、当時の日本人留学生の飲酒が度を過ぎており、酒屋への借金など学業への支障を配慮して、当時の学長のジェームス・B・エンジェルから要請を受けていたことによります。

ところが、実はこの会議は、蓑田たち何人かの者たちが諮って、熊楠をはじめ酒癖の悪い学生らを禁酒で縛り、反対した場合は追放することで解決しようと考えていたことが後になって発覚することで、熊楠は激怒し、『珍事評論』という新聞を日本人留学生間に読ませるという行動に到ってしまいます。

この『珍事評論』、本文5枚10頁の各頁4段組で、4000字ほどがびっしり書き込まれた新聞だったようですが、熊楠はこの会議を能の『三番叟』に見立て批判を展開したとあります。中でも、蓑田長正に対する文章が末延氏の解説にあるので下記に引用しておきます。

・・・蓑田長政氏 氏は仏国革命の時人民の集会を攪乱せし巡査の頭ら分などの一向名の著はれざる鼠輩の行ひに似たること多し・・・・・・拙者も同家に止宿中頼みもせぬに戸をあらゝかに打たゝき、毎朝毎朝御おこし被下候事、決して今に怨みには存ぜず、おかしくておかしくて日々おへそで茶を沸し大に胃の保養と相成申候

ところが、当の蓑田長正は熊楠と絶交することはせず、むしろ「それまでの厳格なキリスト教者から脱皮し、本来の蓑田長政を回復し」「熊楠との心的距離を埋めていった」ことで、「二人の間に個人的交流が成立し、日記にも「朝蓑田氏来る」とか「夜蓑田氏訪ふ」といった記述が増えて」きたのではないかと、末延氏は解説されています。

その証拠に、後年熊楠が柳田国男に送った書簡(明治44年10月25日付)には、

この蓑田は頑強なる薩摩人で、耶蘇教を奉じ、…(中略)…しばしば小生と喧嘩せり。しかるに、二年ほどするうちに全く耶蘇教を脱し小生に親切になり…

と回想していることも、末延氏は紹介されています。そしてさらに、熊楠の豪快な部分が、やがて蓑田の高知での振る舞いや出で立ちにも表れてきたのではないかと推察されており、こうなると、熊楠の影響は寅彦にも無縁でなかったことになります。

その後も蓑田と熊楠の交流は続き、熊楠のロンドン日記 明治25年9月の記録には、蓑田と手紙のやりとりをしていたことも分かっています。その中で、蓑田は大学で「博言学(言語学)」を学びたく、熊楠にアドバイスを求めていたようです。それによって、蓑田はミシガン大学で言語学を修めることができ、総じて、寅彦たち尋常中学校の生徒らにその恩恵はわたったわけです。

そう考えると、前編冒頭で紹介した「未だかつて見たことがない」「不思議な雰囲気が取巻いて居た」、と寅彦の目に映っていた「蓑田先生」の存在は、熊楠なしでは成立しえなかったことになります。

明治35年9月、蓑田と再会を果たした寅彦は、翌年1月には今度は漱石と再会しています。その漱石がロンドンに向かった際の船は、途中インド洋上で、帰朝する熊楠の船とすれ違っていると言われます。蓑田先生のイメージと『坊っちゃん』の重なり、英語教師という共通項、そして寅彦という存在。いずれをとっても、漱石が東京帝国大学予備門で同期だった熊楠へたどり着いてしまうことは、歴史の必然だったのでしょうか。そこに正岡子規も入ると、さらに時のタピストリーは不可思議な様相を帯びてきます。

蓑田長正は、のちに「ジャパンタイムス紙に筆を執つて」いたりしましたが、大正7年11月28日に東京駿河台にある杏雲堂病院で、51歳の生涯を終えています。その2年前の大正5年12月9日には漱石が49歳で亡くなっています。熊楠は昭和16年12月29日、寅彦は昭和10年12月31日に亡くなったことも考え合わせると、4人がともに初冬に世を去っていることも不思議な符合に感じられます。

寅彦日記の大正7年12月1日には「午後簑田先生の告別式に行く」とだけ記述がありますが、随筆「蓑田先生」の結びには、寅彦の思いが余情を残しながら吐露されていますので、それを引いて本項の擱筆とします。

先生の訃報に接して市ヶ谷の邸に告別に行つたのは何年頃であつたか思出せない。其時の会葬者の中には前のS氏の顔も見えた。番町の広い邸宅に比べて、此の新居で臨終の地となつた市ヶ谷の家は何となく淋しく見えた。それでも座敷の装飾や勝手道具などの何でもないやうな処に矢張如何にも先生らしい雰囲気を感じて、中学時代の昔をなつかしく思出すのであつた。何でも、うすら寒い雨の降つたあとであつたかと思はれる。会葬者に踏み荒された庭の土がありありと思出されるやうな気がする。

 

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