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平田森三の転機と伯楽寅彦

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平田森三の転機と伯楽寅彦

第4号の随筆遺産発掘では平田森三の「綿菓子」を紹介し、寅彦から森三への貴重な手紙も合わせて細川光洋先生に解説していただきました。解説の中で取り上げられた「病院へ見えた寺田先生」という森三の追想エッセイには、理研の助手になった経緯のほかに、母親が上京してくる話が描かれていますので、そのくだりも補足として少し触れておきたいと思います。

細川先生の解説にあるとおり、“商家の長男に生まれた森三は、当初は大学卒業後郷里に帰り、両親との約束どおり漆器店を継ぐつもりであった”というところから話は展開しますが、寅彦から手紙を受けた森三は寺田邸を伺い、理研の助手としての誘いを受け、「衝動にかられた」気持ちの進むまま、“両親に相談することもなく「ぜひ理研に入れていただきたいという手紙を先生に出した」”、そして、寅彦から返事をもらった「その後で父に前からの約束は御破算にしてほしいと、許しを乞う手紙を書いた」と話は続きます。この後の展開で母親が登場しますので、その部分を引用しておきます。

それに対する返事はなかなかこなかった。十日ほど経ってから突然、母が本郷の私の下宿に訪ねて来た。家に帰れというのであるが、しかしその理由は私のまったく予想しないことであった。寺田先生という方はどんなお方か少しも知らぬから、知り合いのM教授に尋ねてみたら、その先生なら地震研究所におられるはずで、そこの助手というのなら、地震に関係のある何か大きな岩石だとか、思い機械を持ち上げたり、運んだりするような仕事に使われるのだろうとのこと、お前は体も丈夫なほうではないし、そんな無理な仕事で寿命を縮めるようなことがあってはならぬ、それに、学問というものはいくらやっても限りのないことはお釈迦様がおおせられたそうで、人間というものは他人に迷惑をかけないで寿命を全うするのがよいのだから、寺田先生には今からでもお断りをして家に帰れというのである。

その後の文章には、「ほんとうに狐や狸が化けることや、雪のなかに行倒れになった親鸞上人の頭の上に明るい後光がさしていたという話を心の奥底から信じて、私たちの幼いときから繰り返し話してくれた母に対して大学生の論理は何の値打ちもなかった」と、母親への説得を諦めた森三の心情が書かれています。

そんな母親の反対があっても、「家に帰らないで寺田研究室へ入れていただくことになった」森三は、それから6年後に盲腸で入院した際にまたもや「何の前ぶれもなくいきなり上京して来た」母親が、「先生にお目にかかるといって出かけて」いき、「帰ってからの話に、どんなお方か今まで知らなかったが、これで私も安心をした」、「こんな立派な方の教えを受けるお前は幸せだ」と話すのを聞いて驚きます。

森三は退院後、この母親との顛末を寅彦に話すと、「耳のつけ根の辺りが見る見る赤くなっていく」寅彦から、「母というものはほんとうに子供のことを心配するものですよ」と一言いわれ、こうした出来事が寅彦亡き後、歳が経つにつれて、ある種の恥ずかしさや悔恨とともに想い出されるという、親子と師弟の間の機微に触れた、情味の伝わってくる何とも気持ちのよい随筆として締め括られています。

森三の人生を変える岐路となったこの出来事を思うにつけ、伯楽寅彦の一面がよくわかるエピソードだと思います。

 

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