科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

中枢と抹消――渡辺慧の認識論と『言語の本質』そして『東京都同情塔』

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中枢と抹消――渡辺慧の認識論と『言語の本質』そして『東京都同情塔』

初めに言(ことば)があった。
言(ことば)は神と共にあった。
言(ことば)は神であった。
この言(ことば)は、初めに神と共にあった。
万物は言(ことば)によって成った。
成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。
言(ことば)の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。

(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」第1章第1~5節より)

○『東京都同情塔』が象徴するもの

今年(2024年)上半期の中で最も強く印象に残った小説に、第170回芥川賞受賞作の『東京都同情塔』(九段理江)があります。未来の東京において、主人公の女性建築家 牧名沙羅(マキナ・サラ)が「犯罪者は同情されるべき人々である」という考え方をもとに、犯罪者らが快適に暮らすための71階建ての高層タワー(同情塔、正式名称は「シンパシータワートーキョー」)をデザインする一方、女性建築家のザハ・ハディド氏が設計した新国立競技場(2021年の東京オリンピックでは採用されなかった案)が作中では建設されるという設定で、この同情塔と新国立競技場が対となって物語が進行していきます。

とりわけ、主人公の牧名が生成AI「AI-built」と社会の関わりに違和感を覚えながら葛藤していく心理描写は見事です。幸福学者マサキ・セトが提唱する犯罪者や受刑者に対する新しい名称「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人々)」と、そうでない人々に対する名称「ホモ・フェリクス(祝福された人々)」の特権を自覚させようと、差別や偏見を考えるきっかけを提供し、自らも「自己検閲者」のように「イソギンチャク」となって発言に苦慮していく様は、SNSが発達し個の自由が重視されるあまり他者に敏感となった現代社会を映し出しているようにも見えます。

ともすれば、「AI-built」のような責任の所在がはっきりしない形骸化した文章を操り、AIのような話し方になってしまう「大独り言時代」において、誰もが平等に生きられることは優しいユートピアを装ったディストピアであり、そこで語られる言語にはすでに障害があることに牧名自身が気づいています。それは現代においても同様で、個人の自由を重視するあまり他者との壁は厚く、その折り合いが難しい時代になったと多くの人たちが気づいていることと表裏の関係があります。かくして小説の冒頭で語られるとおり、現代の「バベルの塔」は再崩壊すべく、物語は牧名の直立する姿を重ねながら、「同情塔」が倒壊する未来の幻視とともに結末を迎えます。(筆者はこの牧名の直立と塔の倒壊が非常に象徴的だと見ていますが、その理由は後述します。)

始めから終わりまで随所でAIが関わるこの小説では、作中のいくつかの文章に実際の生成AIによる言葉が使われており、そのことも話題をよびました。この背景については、作者の九段さんのインタビュー記事があるのでそちらも是非お読みください()。このインタビューの中で、九段さんはAIを使用することを「一番問題と考えているのは人間が楽をしたり、怠慢のためにAIを使うこと。そうしてしまうと、人間の意識や認知、社会まで浸食されていく危険性がある。」と危惧しており、それゆえに人間が創作することに対し、「“偶然”や“逸脱”といったエラーを大事にすべき」と述べています。現状の一部の考え方として、単純な仕事はAIにやらせればよい、といった浅薄な議論の方向性も散見されますが、こうした話題もAIの使い方、AIへの向き合い方を考える上で等閑できないものではないでしょうか。

○『言語の本質』と渡辺慧の認識論

この『東京都同情塔』の一つのテーマである“言語とAI”については、昨年(2023年)新書ベストセラーとなった『言語の本質』(今井むつみ・秋田喜美著、中公新書)が面白いほどその背景に関わっています。

この本は端的にいうと、オノマトペ(擬態語・擬声語)をテーマに言語の起源と身体性を結びつけた記号接地問題(後述)の画期的な書なのですが、ここで中心となっているのが当備忘録でも前に紹介したアメリカの哲学者パースが唱えた「アブダクション」と「類推」です()。このことは、実は60年代に日本のある物理学者によって問題提起されていました。その人物は寺田寅彦門下で小誌でも何度か登場した渡辺慧です。彼の唱えた認識学(とくにパラディグマ的認識論)がまさにこの『言語の本質』と同じ指向をもっています。そこでまず、『言語の本質』で解説されていることと、渡辺先生が唱えた「(パラディグマ的)認識論」がいかに共通しているかを見ていきます。

『言語の本質』では、パースの唱えた「アイコン」という概念を媒介に、身体性と言語の起源を考えていくのですが、一言でいうなら「表すもの(音形)」と「表されるもの(感覚イメージ)」の間に類似性のある記号を「アイコン」として捉え、この記号がジェスチャーなどの身体感覚と同期することで物事の描写を精密化する働きが生まれ、いわゆる「オノマトペ」が現れたと見ています(これを認知科学者のハルナッドは「記号接地」と言いました)。さらに、オノマトペは視覚と聴覚という本来は矛盾した感覚を結びつけ、アナログ音(環境音)とデジタル音(言語音)をも繋いで二重処理していると考えている点も興味深いところです。

脳科学的には一般言語とは脳が生み出した抽象概念ですが、それを身体によるジェスチャー(具象性)と結びつけるのが「オノマトペ」だと言うこともできるでしょう。ここで特筆すべきは、この「オノマトペ」には論理的な関係性を表すものが世界の言語の中でまだ見つかっていないということです。これは、感覚経験のない世界でそもそも「オノマトペ」が存在する余地がないのは当然といえば当然です。であるがゆえに、論理性の代名詞であるAIにはこうした「オノマトペ」を生み出す「接地」がなく、記号から記号を漂流していると言われます(記号のメリーゴーランド)。言葉の“意味”を本当に理解するには「オノマトペ」に象徴される“身体的感覚”が必要になります。このことをエッセイストで文芸評論家の宮崎智之氏は、『kotoba』第55号の「一から一への文学――エッセイが時代に花ひらく」において以下のように鋭い指摘をしています。

AIには「創意」は述べられても、個人的な事柄を一人称に託して書くことができるだろうか。エッセイに書かれたことが、すべて事実をベースに存在しているものだとは言えないが、人間がそこに存在することを想起させることがエッセイの特長であるとしたら、AIがつくった作品に、読者は同じことを感受し得るのだろうか。
 そうした側面から見ると、エッセイの本質が徐々にあらわになってくる。エッセイの定義の問題にも、再び踏み込んでいくことになる。AIに人格を認めたとしても、そこには足りないものがあるからだ。生身の体、つまり「身体」である。

(「AIと生の「身体」の問題」の節より)

エッセイの定義において宮崎氏が述べている“一人称に託して”という背景に関連し、小誌のような科学エッセイ・随筆をテーマにする側が気になることは「科学の対象は自分を含まない」という点です。この言葉は寺田寅彦の未完の集大成ともいえる『物理学序説』の中で述べられていることなのですが、エッセイの本質を突くこの“一人称”の問題と科学の立脚点の関わりついては長くなりそうなので別途考えることにします。

ここでは言語の習得や文芸活動において“身体性”が重要であり、更にその背景には創造的洞察が必要であることを『言語の本質』は重ねて展開しています。それが先に登場したパースの「アブダクション」(仮説形成)です。乳幼児はこのアブダクションによる推論を通して、新しい語彙を増やしており、例えばヘレン・ケラーの「water」のエピソードの背景も同様だと言います。

AIは演繹論理によって正解を導くことは完璧といってよいほど優れていますが、一方で人間は帰納論理やアブダクション(仮説形成)によって知を創造しつつも、誤りも犯し修正も必要とします。プラグマティズムでいう可謬主義の観点からいえば、“失敗できる存在”であり“失敗して成長することを学ぶ存在”が人間の人間たる由縁と言うこともできるでしょう。現に、乳幼児も(そして大人も)多くの間違いをしながら新しい言葉を覚え、学んでいきます。

また、比較言語学の世界を見ても、多くの言語間に共通して見られる音韻は“類推”を通して変化してきたという側面もあります。こうしたアブダクションや類推の失敗を重ねながら、言語を学習し知識を創造してきたのが人類の進化であったとも言えるかと思います。

ここまで『言語の本質』で言わんとしてきた話を要約しましたが、このことを認識学の観点から裏づけているのが先に挙げた物理学者の渡辺慧です。渡辺先生の唱えた代表的な理論である「醜いアヒルの仔の定理」については当備忘録の別の項目で案内しましたが、ここでは渡辺先生の代表的著書『知るということ―認識学序説』(ちくま学芸文庫)『認識とパタン』(岩波新書)を要約しながら、少し詳しく説明を試みてみます(ハミング距離などクラスタリングに関する類似性の話は別テーマなので外します)。

○類とはなにか

先ほどまで“類推”という言葉を何気なく使っていましたが、渡辺先生の認識学ではこの“類”という概念が非常に重要な役割を果たします。私たちが“類”を認識するにあたり、まず何をもって“類”と見るかという問題があります。これは唯名論(単に名前にすぎないとする立場)や概念論(意識の中の観念・概念にすぎないとする立場)や実在論(類は実在するという立場)など、英国の経験論者(ロック、バークレー、ヒューム)の間でも問題にされたことで、そのルーツはプラトンとアリストテレスにまで遡ります。

例えば、私たちが「これは犬である」と認識する場合、「これは」というのは“個物”であり、「犬である」というのは“普遍者(一般者)”ということができ、この“個物”と“普遍者(一般者)”を結びつけるのが人間の思考であり、言語であり、広い意味での認識ということになります。

プラトンとアリストテレスでは、この“個物”と“普遍者(一般者)”の関係が変わっています。アリストテレスは“個物”も“普遍者(一般者)”も実在するという立場であるのに対し、その師であるプラトンは“個物”は“普遍者(一般者)”の影のようなもの(偽物、模造品)で、本物はイデア(形相)の世界に実在する“普遍者(一般者)”であり、つまり世界は模造品(影)の世界であると言っています。ここにヨーロッパ文学に現れる“モティーフ”のルーツを見るのですが、言い換えれば、私たちは例えば“犬”という“普遍者(一般者)”を認める能力を生得的(アプリオリ)に持っており、この世界で認識することはイデア(形相)を思い出す役割を演じているような、いわば“お化け(鵺:ぬえ)”のようなものだと…。プラトンはそれをイデアの世界に実在する“普遍者(一般者)”の対応と見て、“類”を暗示的に定義するものとして“範例(パラダイム:paradigm、ギリシア語でパラディグマ)”のような形で理解していたことになります。

アリストテレスはこのような考え方に違和感をもち、この“パラディグマ”を放棄し、あくまで“個物(もの)”と“普遍者(一般者:こと)”は別物だと、言い換えると「もの≠こと」であるとしました。この見方をとれば、プラトンは「もの≒こと」ということになります。どちらが科学的かというと前者のアリストテレスの世界であり、数学や論理学で扱う世界、もしくはAIの世界はまさに「もの≠こと」です。

ところが現実の世界はどうでしょうか。プラトンが暗示的に示したような“類”という概念を私たちは認識しているし、実際にそのような“類”に価値を与えています。だから文学や芸術にモティーフは存在し、お化けもたくさん出てきます。「犬」を見れば「哺乳動物」を“類推”したりもします。イデアがあるかどうかは別として、現実世界に実在する“個物”としての“犬”の“範例(パラディグマ)”(ここでは哺乳動物)が、類として誘発(推測)されて認識されていると考えることも可能です。こうした誘発作用(類推)は、人間の連想に基づくものが多く、論理的関連というよりは感性的で経験的な繰り返し(パターン)などで形成されることも、私たちは体験的に理解しているはずです。

ここまで言葉で説明してきましたが、実際に論理学を通してこの“類”概念について見てみると面白いことに上で見てきたアリストテレスの世界(形式論理)には“類”概念がないことがわかります。そのことを渡辺先生は実際に数学的に証明しているのですが、この結果を総称して「醜いアヒルの仔の定理」と言っており、これについては以前の備忘録で渡辺先生と湯川秀樹の対談を通して紹介しました()。数学が苦手な方もいるかと思いますので、大まかな考え方の概要を書くと、まず上で書いたようにアリストテレス的な(形式論理の)世界には、客体と述語という重要な概念があります。先に書いたプラトンとの例も引き合いにするならば、世界には数えられる個物(客体)があり、これらの個物には属性(述語)があると考えます。

こうした客体と述語に関する論理はブール代数という演算形式と同じです。こうしたお膳立ての下、渡辺先生は「個物が似ている(類)とはどういうことであるか」という問題を考え、具体的に論理展開しました。その結果を先に書くと、「どの2つの個物(客体)をどのように取ってきても、それらが共通に持っている属性(述語)の数は同じである」という驚くべきことが証明されたのです。

これは言い換えると、厳密な論理の世界には“類”がない、“類似性”が存在しないのです。この証明で使われる論理は、アトム(原子)と呼ばれる――述語(属性)によって規定される――図形的な面積(領域)のグループを調べていきます。例えば、1つの客体は必ず1つのアトムに対応しており、ある1組の述語があるときも同様です。そこで、「2つの個物(客体)が似ているか、似ていないかということは、共通にもつ形容詞(述語)が多いか少ないかということ」になり、これらの形容詞の数を考えると、コンビネーション(C)の計算により「2の(m-2)乗」(mはアトムの数)という結果が得られます。2つの客体(個物)を比較するとき、その共通な述語(形容詞)の数は、どの2つを取っても同じになります。例えば、「2羽の白鳥」と「1羽の白鳥と1羽のアヒル」のどちらの組合せも、共通する述語(形容詞)の数は同じということです。これが「醜いアヒルの仔の定理」になります(わかりやすい例で知りたい方はこちらのサイトもご覧ください)。

この定理を敷衍すると、すべての2つのものには共通な数の形容詞があり、同程度の類似性しかない、つまり、類という概念が壊れてしまうのです。しかし、現実の私たちの生きる世界には類似性や類型といった類概念が存在します。より細かく言えば、その述語(形容詞)の間に重要度の差(重み)があるということです。それを決めるのが人間の「価値観」だと渡辺先生は結論づけました。このことは別の言い方をすれば、認識というのは価値がなければ成り立たないということです。人間は自身の生存に重要な性質を感覚器を通して観察(認識)します。ここに身体性が関係してくることは、上の『言語の本質』に関する話で十分に見てきたとおりです。

類の認識に価値(重み)が関係するならば、言語の世界の“類”、つまり“類語”の世界も同様です。ロラン・バルトは、文字列(記号表現:シニフィアン)と意味(記号内容:シニフィエ)が言葉全体(記号:シーニュ)という層をなしながら、パラディグマ(類語)とシンタグマ(統語)が言語構造のパターンを形成すると考えました。例えば、「私はいつも遅刻する」という文章全体を関係づけているのがシンタグマ(統語)であり、「私」や「いつも」「遅刻する」といった単語にはそれぞれの類語が連合されていると見ることもできます。「私」という主語の類語は2人称「あなた」や3人称「彼/彼女」の言葉で置き換え可能ですし、同様に「いつも」や「遅刻する」も多くの類語を見いだせます。

このようなロラン・バルトが展開した言語の世界を、上の渡辺先生の認識学に当てはめて考えてみると、AIのような論理的世界では統語(シンタグマ)は得意であるけれど、類語(パラディグマ)については人間が教え込んだ世界しか学習できず、上で見たオノマトペのように身体性が関係する意味構築は不得意であることが読み取れます。一方で『言語の本質』でも紹介されているように、最近のAIアプリによる自動翻訳機能がかなり向上している側面をみる限りでは、人間が“ある価値観のもと恣意的に特化して学習させた”AIが、それぞれの分野で人間顔負けの専門性を発揮することは十分に予想されると思います(そういった意味で倫理観は常に問われるでしょう)。

○解剖学の視点から

では、以上の身体性に関わる話を解剖学(三木成夫『内臓とこころ』河出文庫養老孟司『唯脳論』ちくま学芸文庫)の立場から要約しながら眺めてみます。

AI研究において重要なのは、当然ながら人間の脳の神経機構(ニューロサイエンス)であることは近年の機械学習などの進歩を見れば明らかです(小誌でも第15号第17号のそれぞれ巻頭言などで関連話題を取り上げて頂きました)。一方で解剖学的・発生学的に見るならば、人間の知覚に重要な感覚器(目、耳、鼻、口)のルーツは腸管に集中していて、それらがやがて「体壁系」として分裂して、そして“顔”が形成されたと言われます。

さらにその体壁系には人間の皮膚も、そして脳も、脊柱も含まれています。とりわけ顔の中でも口(の中の舌)は「内臓系」とつながる“触覚”の役割をもっており、言わば舌は内臓(とくに胃)の手の代わりとも言われます。この口(舌)と関係する“のどぼとけ”は人間の発声に最も重要な器官ですが、これこそ魚類時代の鰓(えら)呼吸の名残だと言います。

このように、顔は内臓(腸管)の露出したものと考えることもでき、とくに魚の鰓(えら)に当たる部分は腸の最初の部分が外に出てきて“のどぼとけ”に変わっていった進化の背景を考えると、まるで私たちの“顔”は内臓の象徴と言ってもよいかもしれません。医者が顔色をまずうかがうのはこれで納得できます(患者の顔を見ない医者は如何)。

このように解剖学の見地から見てくると、脳はあくまで体壁系の中心であり、その根本は“神経”が司り、これが滞ると身体が機能しません。しかし、内臓系の中心である心臓は血管を通して血液の循環を支配していますから、これが止まると死にます。言い換えれば、脳が機能しなくなっても身体はまだ生きられる余地はあります(これが脳死問題です)。

先に書いたとおり舌は内臓の“触覚”ですが、乳幼児はこの舌で生後6カ月ほどは可能な限り身近なものを“なめ廻し”ます。そしてその期間が過ぎると、“指差し”が始まります。それによって指示思考が生まれ、意識の働きにかすかな“萌し”のようなものが出てきます。そうしてこの“指差し”が終わると、いよいよ“立ち上がり(直立)”が始まり、この視界拡大によって大脳皮質が発達すると言われます(この発達過程には謎が多いようです)。

そしてもう一つ興味深い点は、上に書いた内臓系を性管系の軸で見ると、その中心は“子宮”になります。このとき、体壁系の中枢は雌の体内でなく雄の体壁中枢の“脳”に求められると言います。その理由は、雌雄別々の状態というのは性が半人前の状態であり、その合一があって初めて個体が成立すると考えられています。子宮に対して雄の脳という対比。これはどこかで見覚えがないでしょうか。『東京都同情塔』のシンパシータワートーキョー(脳)と新国立競技場(子宮)の対比です。このように見立てると、この作品が象徴する新たな広がりに驚きを覚えます。

ここまで来れば、前半で話した「オノマトペ」のような言語の起源的な問題が、いかに発生学的な生物進化と繋がっているかもよく分かります。言葉を口で発声することで身体の感覚(運動野)と脳の連合野がどんどん拡大していきます。これこそが“記号接地”であると言えるでしょう。朗読やラジオを聴くことがいかに効果的であるかもわかります。脳が大きくなることで思考と言語が生まれ、言うなれば鰓(えら)呼吸の名残である声は、人間の言葉を生み出す“はらわたの声”とも言えます。

○中枢は末梢の奴隷

ここまで来れば、本稿のテーマである「中枢と末梢」が何を意味するか想像がつくでしょう。中枢は脳で、末梢は身体であり、この関係性を解剖学者の養老孟司先生は「中枢(脳)は末梢(身体)の奴隷」だと表現しました。脳は体壁系の一部として神経系の一翼を担っているに過ぎず、それは非常に“壊れやすい”と言います(これは考え方によっては可塑性があるとも言えるのですが…)。脳(中枢)は身体の行動を支配し統御するように進化してきましたが、この統御だけでは全てはうまく行きません。

先に見てきた“類概念(アナロジー)”も、これは脳が脳を知っている状態であり、これこそ脳の機能である“意識”のなせる業であり、意識が芽生えたからこそ言語も反映されてきました。脳は外界に脳の産物をつくることを望みます。建築物などの人工的な物たちは“脳化”の産物であり、脳はそうやって自身のつくるオトギの国に暮らし、それが現代社会であると養老先生は言います。ジョージ・オーウェルの『1984』の世界もこの脳化の極限と言ってよいでしょう。

このように見てくると、冒頭で紹介した『東京都同情塔』が上の話題を見事に作品化しているようで不思議な“シンパシー”を感じます。この物語で巨大な孤立した脳(AI)を象徴するのは何でしょうか、まさしくホモ・ミゼラビリスを収容するシンパシータワートーキョーそのものです。以下に物語の中からそれを象徴している箇所をいくつか抜粋してみます。

「いくら学習能力が高かろうと、AIには己の弱さに向き合う強さがない。無傷で言葉を盗むことに慣れきって、その無知を疑いもせず恥じもしない。」

「今にも動き出すのではないかという生命感を湛えた構造物は、周囲に林立するビル群や道路を走る車のライトを養分にして独自進化を遂げた、巨大生物のように見える。」

「あの闇の中に建つ塔は、独立した建築として考えるべきではないのだ。」

「ホモ・ミゼラビリスとホモ・フェリクスが共通の喜びと苦しみを分かち合う平等な同志であり、同じ平和を希求する人類であることが、この都市の中枢において表現されるのです。」

「地上七十一階建ての巨大な円柱のタワーがビッグ・ブラザーのごとくあなたを見ている。」

「ドージョートーの完成から半年が経過しようという時点で、ホモ・ミゼラビリスが出所したことは一度もないからだ。」

「ホモ・ミゼラビリスへの面会が許可されているのは弁護士と親族のみ。」

「何を考えるにしても脳はいちいち言葉を必要とする。言葉のことを言葉で考えたりするのは何もかも間違っていて、まともな人間のやることじゃない。」

「東京都同情塔が倒壊する未来。」

「いずれにせよ塔は倒れる。すべての建築は倒れるし、倒れることを前提にして建てられる。すべての人間が死を前提に生まれてくるみたいに。」

ちなみにこの芥川賞作品の発表後、どこよりも早く紹介・解説したのが「渋谷のラジオ」の人気番組「BOOK READING CLUB」でした。

この放送で、パーソナリティの宮崎智之氏と今井楓氏のお二人はそれぞれ個性ある評をしています。特徴的に捉えるならば、宮崎氏の着眼点が「弱さと美しさ」だったのに対し、今井氏のそれは「完璧さと不完全さ」だったことが記憶に残りました。その理由は、二人のそれぞれ挙げた対比こそ、脳と身体の関係性を象徴するようで印象的に感じたのです。例えば、宮崎氏の指摘した「弱さ」は“牧名沙羅”の象徴であり、いわばそれは“脳”でもあり、「美しさ」は“ザハ・ハディド案の新国立競技場”や“東上拓人”の象徴であり“身体”でもあることが想像される一方、今井氏の「完璧さ」は“同情塔”の象徴であり、これもいわば“脳”であり、「不完全さ」は“現実世界”の象徴であり“身体”でもあることをイメージさせます。そして脳は中枢であり、身体は末梢なのです。養老先生の言葉を借りれば、脳が身体の奴隷であることは、この社会では絶対的タブーです。そのことが筆者には、物語で肥大化していく「同情塔」に重なって映ります。(この放送のアフタートークもお聴きください。二人がどこよりも早い放送を周到綿密に準備していたか、その真摯な努力に頭が下がります。)

ここまで見てくると、先に紹介した宮崎氏のエッセイと身体性の議論は、本人が仄めかしているように、むしろAIの台頭によってより明確に定義され得るレベルになったとも言えますし、中枢あって末梢の存在がわかるのと同じように、AIがあることで身体性の価値が高まるのではないでしょうか。だとすると、その人(書き手)の身体性は、前半で見た言語活動のアブダクション(仮説形成)にも通じ、その人の体質を裏づける血の流れ(心臓)も“文”の“芸”に作用しないはずはありません。寺田寅彦が、晩年になぜ体質による歌人・俳人の類別や生理学にこだわっていたのかが、ここへ来て納得されるようにも思います。

これと似た部類の話では、三島由紀夫のボディビルによる肉体美への傾倒と市ヶ谷駐屯地での自死も無関係ではないでしょう。三島由紀夫の自死事件の背景には日本社会の“脳化”への反発があったと、養老先生は指摘しています。また、三島の身体性への執着について、三島文学の研究者である佐藤秀明氏は、

金閣の「美」とは、感受性であり幼年時代から持ち越した気質であり美意識である。それは太陽との出会いやギリシャ体験やボディビルによる自己改造によって「すりへらしてくる」べきものであり、「焼かなければならぬ」ものだった。いわば作者の実人生が成し遂げてきたことを、美という固定観念に取り憑かれた主人公を通して虚構化したのが『金閣寺』なのである。

『三島由紀夫―悲劇への欲動』より)

と言及しており、その身体性への執着を「前意味論的欲動」と表現しています。『東京都同情塔』では『金閣寺』が作品内で登場していることもこうした話と奇妙な一致を感じますが、冒頭で述べたその結末における主人公・牧名の直立する姿と塔の倒壊する幻視も、この三島の象徴する身体性とどこか似ていないでしょうか。人間の肉体は立ちます。しかし、ほとんど孤立した脳を象徴する塔は必ずいつか壊れます。

○過ち有れば則ち改む

AIは間違った情報も時に流しますがそれを改めることはしません。一方で人間はもし自身が過ちをしたと知れば、その人次第で正すことは可能です。「過ち有れば則ち改む(『周易』下経、益)です。

エッセイや随筆を書くことは、上で見てきたように身体性がなければできない“文”の“芸”であり、そこでは間違うこともあります。むしろ間違う場合も前提に一種変わった仮説を掲げて話を展開できる(盛る)世界とも言えます(逸脱性のある仮説を提示したエッセイほど面白く、魅力を感じるのは筆者だけでしょうか)。AIに仮に人格を認めたとしても、もしAIが間違えば間違ったまま漂流し、その姿はただただ悲しい…

それゆえに、冒頭で『東京都同情塔』の作者の九段さんが語った「エラーを大事にすべき」という言葉には味わうべき真実があります。言い換えれば、楽をするためにAIを利用するなら、人もAIと共に間違いを犯すかもしれません。そのとき、その間違いを正せるレベルかどうかという問題もあります。誤りの論理は正しようがないほど誤りを増幅する可能性もあります。

一方で、この九段さんの言葉のように、誤りを通して人がトライ&エラーをしていくプロセスは泥臭い事かもしれませんが、それはまだ正すことができるレベルの誤りかもしれません。なにかを忘れてしまったり、うっかり日常のミスをするほうがむしろ救いでさえあります。

あちこちに溢れるディープフェイクはどこまで人を騙し貶めるでしょう。人間を大混乱の渦に巻き込みつつあるその世界はまだ訂正可能でしょうか。「大独り言時代」のように、訂正のきかなくなった誤りや嘘が無秩序に拡散する世界――それは想像するに怖ろしいものです。人はまた第二のバベルの塔を作るでしょうか、いや作ってしまったでしょうか。“大きな罪”をまた犯さぬよう、“小さなミス”を笑って正す…そしてもう一度復唱してみたいのです――本来、言(ことば)は神そのものであったはずだと。

 

(補足)

本稿に関連して、上で案内したラジオ番組BOOK READING CLUBの言語に関する番組も下記しておきます。本稿で紹介した書籍とは別のものが挙げられており参考になるかと思います。

 

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