科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

物理学者と詩歌の世界

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物理学者と詩歌の世界

立春が過ぎ、まだ余寒が続いていた頃に一冊の本が窮理舎に届きました。

小誌第14号で「幼児から学んだこと」というエッセイをご執筆いただいた、齋藤 曉先生の雑念集『これ』のご恵送でした。開いてみて驚いたのは、全て詩文で構成されていることです。この本は齋藤先生が主催されている科学サロン「あかでみあ」の資料としても用意されたようですが、以前この科学サロンに伺わせていただいた思い出が、本をめくりながらあれこれ浮かんできました。

折しもその5カ月ほど前には、小誌で裏表紙画を担当してくださっている細谷暁夫先生も詩歌集『旗ふりおじさん』を抒情文芸刊行会から上梓され、物理学者の先生方が相次いで詩文集を刊行されているこの機会に、関連することも合わせて紹介しながら、科学者と詩歌の世界について考えてみたいと思います(少々長いですがお付き合いください…笑)。

齋藤先生の『これ』は、全12章にわたる科学と哲学に関する論考になっているのですが、選び抜かれたシンプルな言葉のエキスが微妙なバランスで各頁の余白に広げられています。内容も、小誌に綴っていただいたエッセイを詩文形式で簡潔に凝縮したような展開になっています。扉裏に挿入されている

草叢(くさむら)にゆれている
トラの尻尾に
ハッと
気が付いた
とたん
自分と宇宙が
向い合ったはなし

という詩文がプロローグとして本書を印象づけます。

乳児への注意深い観察によって、「これ」としか呼べない純粋な主客未分の意識経験について考察が始まり、そこから「分かる」ということはどういうことなのか、論理環、限定環、因果環、自己限定環、といった論理図も示されながら話が運ばれていきます。齋藤先生がご研究されてきた場の理論やカオス理論をベースにしながら、宇宙や生命、物質、情報についてじっくりと思考を進められており、最終的に、「これ」という意識の一点が生成されるモデル(量子場と意識場の交叉)の提示で締め括られています(正確には、最後に第13章として「人類進化の先にはなにがあるのか」という白紙の頁が添えられ、読者が自由に書き込める頁が設けられています)。本書は科学サロン用にも作られたと先に書きましたが、読者に参加させるという形もこの小冊子の特徴かと思います。

個人的にですが、齋藤先生の『これ』は、哲学者の井筒俊彦氏が指摘されているイスラム哲学における「マーヒーヤ」と「フーイーヤ」という概念と相通ずる印象を受けます。マーヒーヤとは普遍的リアリティを指す言葉で、マー(何であるか)・フワ(これは)・イーヤ(ということ)を合わせた意味で、事物(存在者)の本質(アリストテレスでいう「これは元来、何であったのか、ということ」)をそのままアラビア語世界に持ち込んだ概念です。一方、フーイーヤとは具体的リアリティを指し、フワ(これ)・イーヤ(ということ)を合わせた、いわば「これ性」を意味します。簡単に言えば、抽象(マーヒーヤ)と具象(フーイーヤ)の関係性になりますが、一例に、これらを詩的体験として完成させた代表的日本人に松尾芭蕉を井筒氏は挙げています。

芭蕉にとって、事物のフーイーヤはマーヒーヤと別の何かではなく、不易は流行と表裏一体をなすもので、その意味で芭蕉にとっての俳句は、マーヒーヤとフーイーヤが転換する微妙な瞬間を捉えたポエジーであったと言います。齋藤先生のいう「意識場と量子場の交叉」という所がまさにそのことを彷彿させます。そういう意味では、『物の本質について』を追求した古代ローマの詩人ルクレチウスも同様であり、さらに挙げれば本居宣長の「物のあはれ」や、小誌が誌名として標榜する古代中国由来の思想「窮理」もまた同じ指向性をもつものかと思います。

齋藤先生の『これ』の扉には、「宇宙の中にいる自分を見ている」という一文が、輪をなす円環形に、ある種の曼荼羅のように描かれています。井筒氏は、意識の深層体験(マーヒーヤ)をした者が、表層言語(フーイーヤ)としていかに表現するかという問題こそ多くの詩人に見られるのだと言いますが、この観点から、科学者とくに物理学者が詩を書くという行為についてもう少し考えてみます。

上で挙げた細谷先生の詩歌集にも、存在の真相をマーヒーヤとフーイーヤの転換点に直観するところが垣間見られますので、一つ紹介します。「3月14日の喫茶店」というタイトルの詩です。

砂時計の砂が落ちたので
プレス器をゆっくり押し下げ
マンデリンを淹れ
目をつむり
ゆっくりと飲む
豆を炒る音と、古いジャズのBGM

半分ほど飲んで、目は窓の外
青空の下
πの形をしたスーパーの黄色いアーケード
真昼の眩しい光景
主婦が店に入って
男が袋をぶら下げ出てくる
アインシュタインに似た犬が待っている

光は外だけ、内にはない
目をつむり、コーヒーの残りを飲み
意識を円周率に集中する
3.1415926535 8979323846 2643383279
5028841971 6939937510…
音は中だけ、外にはない
味覚は口の中だけ
触覚はテーブルに置いた手のひらだけ

豆を炒る音が止む
ドアが開く音がして
明るい光が斜めに差し込む

いつの間にか
あのアインシュタインに似た犬が
首を傾げてこっちを見ている

いつの間にか
砂がさらさらと落ちて
すべて未来に戻った!

逆光の中から男が叫んだ
俺だよ、ドクだよ
今日は、俺の誕生日だよ

砂時計、コーヒー、豆を炒る音、ジャズのBGM、光、円周率、味覚、触覚、アインシュタインに似た犬。どれもが対構造のように詩の中で配置されながら、作者は特殊相対性理論さながら、ミンコフスキー空間の光円錐の中で因果律の内と外を眺めているような、不思議なタイムスリップ感を誘います。ユクスキュル的に見れば、詩に描かれる様々な場の知覚時間とその環世界の交錯によって、上の齋藤先生の『これ』でいうところの主客の問題や、マーヒーヤとフーイーヤの転換が見事に詩情として描かれていると思います。

もう一つ例として物理学者の詩を示しましょう。作者は『熱学史』や『量子論の発達史』等で著名な理論物理学者 高林武彦先生の晩年の詩から、科学に近いものを挙げておきます(高林武彦『ヴァリエテ 物理・ひと・言葉』みすず書房)。齋藤先生の本や細谷先生の上の詩と重なるものがあります。

   最初の不思議

最初の人類が地上に現れたころ
アンドロメダを出た光が
今ここにとどいている
その歴史の端のこの刹那に
わたしが居合わせている

なぜそれがこのなのか…

   弦

わたしは宇宙の中を
スペースライクに漂う一本の弦
見知らぬ手がそれを掻き鳴らす調べは
樹々の梢を顫わせただろうか?

またわたしは闇から闇へ
タイムライクに張られた一本の弦
その内なる響きは
誰かの胸に谺しただろうか?

   同類

石ころが風に吹かれ壁にはらく書き
小雨に誘われてのこのこ出てくる蝸牛(かたつむり)
あの日の天気を変えるかもしれぬ
一匹の蝶の舞い

この地球の上でそれらはみんなわが同類

對稱性はくずれ確率は負になる
幽閉されたクウォークの色香
時間量子(クロノン)のざわめき
そして心のうちなる背景輻射

この宇宙でそれらはみんなわが心のコレスポンダンス

細谷先生の詩も高林先生の詩も、余情感のあるリズムとリフレインがあるのですが、今度は日本語でなく英詩で、海外の物理学者の例を示しましょう。あの電磁気学の方程式で知られるマクスウェルの詩から、「Reflex Musings : Reflections from Various Surfaces」というタイトルです。「瞑想の響き」とでも題するのがよいかもしれません。

In the dense entangled street,
Where the web of Trade is weaving,
Forms unknown in crowds I meet
Much of each and all believing;
Each his small designs achieving
Hurries on with restless feet,
While, through Fancy’s power deceiving,
Self in every form I greet.

Oft in yonder rocky dell
Neath the birches’ shadow seated,
I have watched the darksome well,
Where my stooping form, repeated,
Now advanced and now retreated
With the spring’s alternate swell,
Till destroyed before completed
As the big drops grew and fell.

By the hollow mountain-side
Questions strange I shout for ever,
While the echoes far and wide
Seem to mock my vain endeavour;
Still I shout, for though they never
Cast my borrowed voice aside,
Words from empty words they sever―
Words of Truth from words of Pride.

Yes, the faces in the crowd,
And the wakened echoes, glancing
From the mountain, rocky browed,
And the lights in water dancing―
Each my wandering sense entrancing,
Tells me back my thoughts aloud,
All the joys of Truth enhancing
Crushing all that makes me proud.

第一詩を見ても、street, meet, feet, greet, weaving, believing, achieving, deceiving,…といったように、英詩らしくすべて最後に韻が踏んであります。電磁波の理論を打ち立てたマクスウェルらしく、様々な事物からの「reflection」が、本人の瞑想へエコー(echoes)となって残響する様子が感じられる詩で、韻のリズムがより強く余韻を漂わせています。これもマーヒーヤとフーイーヤの転換を体現した詩ではないでしょうか。このような言葉の音韻の波のような世界を、フランスの数学者ポアンカレがうまく説明している文章があるので、これは日本語で紹介します。

詩歌は音楽と同じように、はてしなき夢をよびさます特権をもっています。一つ一つの音譜は私たちの心に何の感動も与えませんけれども、それらが一つのメロディに結合されると、音楽的詩句の律動が、それらに生命を与えるように、私たちにこの上ない深い感動を与えます。
 一つの韻文に集められた単語はそれとおなじような神秘的な力をもっています。一つ一つの単語は、ただその語に固有の意味しかもっていませんけれど、それが一つに集められると、ちょうど水の表面に石を投げたときに起こる波紋のように、多くの像が、次から次へと無限に起こって来るようになります。これらの波動は、すべて、生ける実在の諸要素と同じように、互いに淆融(こうゆう)し、互いに浸透しあっています。

(『科学者と詩人』平林初之輔訳、岩波文庫)

まるで上のマクスウェルの詩の評文のように感じられるところが、リルケがいう「意識のピラミッド」の「内部の深層次元」を体験していたであろうポアンカレの真骨頂を思わせます。ドイツの詩人ゲーテは言います。

自分の内部を探したまえ。そうすればすべてを見出すだろう。そしてもしもきみらの外部に、自然――あるいは他の名前で呼んでもいいが――があり、それがきみらの内部に見出したものすべてを肯定し、祝福してくれるならば、きみらは心から喜ぶがよい。

(『箴言と省察』1080より)

海外の物理学者の例として話しましたが、このことは日本でいえば、芭蕉のいう「風雅に情ある人」の実体験でもあり、「内をつねに勤めて物に応じ」る特別の修練を積んだ人の例でもあるでしょう。「物に応じ」ることを専ら追究する物理学者ならば尚更のこと、時にそのベクトルが自身の内部に向かったとき、上で見てきたような様々な詩歌となって現れてくるのだと思います。そろそろ総括しましょう。以上のことを見事に表現しているのが寺田寅彦です。

 宇宙の秘密が知りたくなった、と思うと、いつのまにか自分の手は一塊の土くれをつかんでいた。そうして、ふたつの眼がじいっとそれを見つめていた。
 すると、土くれの分子の中から星雲が生まれ、その中から星と太陽とが生まれ、アミーバと三葉虫とアダムとイヴとが生まれ、それからこの自分が生まれて来るのをまざまざと見た。
 ……そうして自分は科学者になった。
 しばらくすると、今度は、なんだか急に唄いたくなって来た。
 と思うと、知らぬ間に自分の咽喉(のど)から、ひとりでに大きな声が出て来た。
 その声が自分の耳にはいったと思うと、すぐに、自然に次の声が出て来た。
 声が声を呼び、句が句を誘うた。
 そうして、行く雲は軒ばに止まり、山と水とは音をひそめた。
 ……そうして自分は詩人になった。

(「渋柿」大正九年八月、『柿の種』所収)

物理学者と詩歌の世界、ここまで眺めてきたものでもまだほんの一部でしかありません。齋藤先生と細谷先生によるそれぞれの詩集によって、筆者も刺激を大いに受けました。最後に漢詩でお返しをして結びます。両先生のお名前に「暁」があるので、春らしく「春暁」と題します。

碧雲簇簇欲天明(碧雲簇簇(そうそう)として天明を欲す)
暁望風吹花気清(暁望風吹き花気清し)
日出春林鶯語滑(日出づ春林鶯語滑らかなり)
朝来到耳読書声(朝来耳に到る読書の声)

 

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