寺田物理学の系譜
先の稿で触れた平田森三親子と寅彦の出来事を分岐点に、まさに森三の人生は寅彦の手がけた多くの仕事を継いでいくことになります。
キリンの斑模様や割れ目など、時を隔てた師弟の共同研究については細川光洋先生の解説で詳しく書いて頂きましたが、とくに割れ目については寅彦の書簡にも興味深い記述があるので紹介しておきます。昭和9年5月1日付の当時パリにいた渡辺慧氏に宛てた手紙の一部引用です。
僕は相変わらずの「墨汁」のつづきと、それから大いに脱線して「割れ目と生命」という題で「生物は結局われ目の集団であり、死から生を呼び返す生活現象はすべてコロイドというわれ目すなわち表面エネルギーの集団によって行なわれる」といったような奇抜なようで実は平凡な議論から、例のキリンの縞や蝶や蠅の膜翅の気脈の分布を論じます。われながら少々あきれたものであります。
これと同様に森三は、ひび割れ模様とキリンの斑の類似、スパゲッティの割れ方と宇宙線の飛来の間に同様の統計的性質があることを指摘しており、そのほか、鯨を打つ銛は尖ったものより平べったい平頭銛のほうが水中で直進すること(「鯨に銛を打つ」)や、芝生を横切る近道の発生の仕方には法則があること(「近路の観測」)などなど、研究の随所に寺田物理学の真骨頂が垣間見られます。
また、細川先生の解説の結びで紹介いただいた兵藤申一先生の研究にも、こうした寺田物理学の衣鉢を継いだものが散見されます。とくに、森三との繋がりがよくわかるテーマがいくつかあるので挙げてみますと(括弧部分は平田森三の研究テーマや著書『キリンのまだら』に関するもの)、
炭が黒い理由(「墨汁」研究との関連)、刃物の切れ味と撃力の推定(「平頭銛」研究との関連)、食べ物と加熱(「綿菓子」や「水飴」研究との関連)、時を測る(「近路の観測」との関連)、ディスコの体験(「音のない世界」や「静けさ」との関連)、ゆらぎとブラウン運動(「おみこしの動き方」や「小さい虫の運動」との関連)
などなど広範なテーマに及ぶ研究の系譜が見てとれます(兵藤申一著『身のまわりの物理』裳華房より)。
第4号で「綿菓子」を掲載するにあたり、ご次女の木下朝子様と兵藤先生ご次女の亜里子様のお二人と連絡をとる貴重な機会を頂きました。刷り上がったばかりの雑誌をお送りしたところ、亜里子様からお電話を頂き、ちょうど兵藤先生の初盆(東京は7月)を迎えたばかりで仏前にさっそく雑誌を供されたとのことで、そのタイミングにとても不思議な縁を感じました。
“寺田寅彦―平田森三―兵藤申一という三代にわたる、三人の物理学者による結晶”をこの第4号でお伝えできたことを嬉しく思うと同時に、解説者と編集者も「綿菓子」の飴糸の一部となって結晶した回であったと実感しています。