戸田盛和先生と寅彦と子規と漱石と
第2号の編集後記でも触れた戸田盛和先生と寺田寅彦が親戚であるということについて、戸田先生ご本人が書かれたエッセイの中に次のような文がありますので引用紹介します。
・・・私の叔母のひとりは高知出身の小野氏に嫁ぎ、その娘、すなわち私のいとこが寅彦の長男の東一さんと結ばれたらしい。寅彦と小野氏とは中学の同窓生だったということである。東一さんと礼子さんの婚約が整ったのは寅彦が亡くなる数日前のことであった。・・・(中略)・・・
戦後になって東京の曙町の家で東一さん夫妻にお会いしたことがある。戦中戦後をへだてて、おそらく、20年ぐらい過ぎての礼子さんとの再会だったが、すぐに昔の記憶が戻ったような気がして、何となく不思議に思ったものである。(『おもちゃと金平糖』岩波書店より)
戸田先生は寅彦にあこがれて物理学科へ進み、助手になった頃は俳句会にも参加して、漱石や寅彦の俳句を勉強したこともあったようです。
寅彦の俳句については、第2号からスタートした新コーナー「窮理の種」で、永橋禎子先生にラムネの句を紹介・解説していただきましたが、寅彦にとって俳句との出逢いがなかったら、私たちの知る”寺田寅彦”は存在しなかったと思います。それ故に、漱石や子規との邂逅が寅彦にどれだけの影響を及ぼしたかは、「随筆遺産発掘(二)」の細川光洋先生の解説を読んでいただくとよく分かります。
細川先生の解説で紹介されている、寅彦の随筆「根岸庵を訪ふ記」を読むと、当時、寅彦が子規と初めて出会ったときの印象が叙情的に書かれていて感動します。
「蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど、一片の烈火瞳底に燃えて居る」
上京したばかりの青年寅彦の情感がほとばしってくる表現で、22歳の若者が書いたとは思えない文章だと思います。
この出会いの翌年、明治33年には子規たちの主宰する雑誌『ホトトギス』に「窮理日記」が掲載され、その直前にはイギリスへ向かう漱石との別れもありますが、その辺りの背景については、上の細川先生の解説をお読みください。
上京して約1年ほどで師の漱石が東京を離れてしまい、さらにその翌年の明治34年に、寅彦は肺尖カタルで一度休学し高知に戻り、翌年の明治35年の夏に復学します。ところが、漱石のいない東京で心を寄せる存在であった子規が間もなくして不帰の人となり、そこに追い打ちをかけるように、その秋(11月)に妻の夏子が高知で夭逝。明治33年から35年は青年寅彦にとって別れの相次ぐ激動の時期だったと思います。
しかし、この翌年の明治36年には漱石が帰朝。以降、漱石の下に足繁く通うことになる中、漱石のあの名作『吾輩は猫である』が生まれ、文豪漱石誕生へと歴史の歩みは続きます。
『吾輩は猫である』については、第2号のコラム「紙魚の塵(二)」で、登場人物の曽呂崎の知られざる側面にスポットが当てられていますので、こちらもぜひ読んでみてください。
上の青年寅彦の激動期を描いた有名な随筆に「団栗」と「嵐」があります。どちらも『ホトトギス』に掲載され、写生文の萌芽が見られる美しい作品ですが、激動期に揺れ動く青年の想いを見事に昇華した寅彦に圧倒されます。
コラム「窮理の種」でも紹介されましたが、高知県の高知県立文学館や寺田寅彦記念館には、寅彦の様々な資料やイベントがありますので興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
(追記)本誌『窮理』が「高知県立文学館」で販売されています。