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熊楠と漱石と寅彦の「蓑田先生」(前編:蓑田先生と寅彦)

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熊楠と漱石と寅彦の「蓑田先生」(前編:蓑田先生と寅彦)

第9号と第10号では南方熊楠が取り上げられました(第9号では村上浩一先生の「南方熊楠への旅」、第10号では尾関章先生の「エコと国際――熊楠が先取りした二つのこと」)。2017年は熊楠生誕150周年の年でもありました。

今回は、南方熊楠と寺田寅彦が意外な所で繋がっていたという話を紹介したいと思います。

寅彦作品の中に、「蓑田先生」という昭和6年12月に『東京帝国大学理学部会誌』第10号に照元学人の筆名で寄稿されたものがあります(後に『続冬彦集』に収載)。この随筆の主人公の蓑田先生こと“蓑田長正(長政)”は、寅彦が尋常中学時代の英語教師だったのですが、ただの英語教師でなく当時としては「異彩を放つ」人物として、寅彦の青春の記憶につよく焼きつけられていることが、作品を通してよくわかります。

結論から言うと、この蓑田長正と南方熊楠はかつて交流していた時期があったということが、熊楠の日記からわかっています。そのことについては後に触れるとして、では蓑田長正という先生はどんな人物だったのか、寅彦の随筆本文から抜粋しながらまずは紹介していきたいと思います。蓑田先生は、

子供の時分にアメリカへ行つて、それから十何年の間ずつとあちらで育ち、シカゴの大学で修学して帰朝するとすぐに、此の南海の田舎へ赴任して来たといふことであつた。郷里は鹿児島であつたが少くも見たところでは生徒等の描いて居た薩摩隼人の型には全く嵌まらない人柄であつた。

という人物で、

白面無鬚の公子の服装も著しくスマートなものであつた。ズボンの折目がいつでもキチンと際立つて…(中略)…教員室から教場へ来る迄の廊下を必ず帽子をかぶり、冬なら外套を着て歩いて来た。教場へはいつてから其の黒い中折帽子をとつて机の上におき、寒いと外套は着たまゝで授業を始めるのであつた。金縁の眼鏡を一つしやくり上げてさうして劇しく眼ばたきをして「ウェル……」といつて始めるのであつた。

そんな「未だかつて見たことがない」「不思議な雰囲気が取巻いて居た」蓑田先生の授業はというと、在米生活の実体験を踏まえたもので、

主に作文や会話やの実用英語を受持つて居たが、其の教授法も生徒等には新しかつた。最も力を注いだのはパラフレーズの猛練習であつて、一つの章句をありとあらゆる仕方に書きかへさせるので、語彙の総ざらへをすると同時に、シンタキスの可能性を払底させるといふ徹底的なやり方であつた。それが火の出るやうな性急で鞭撻されるので、大抵の生徒は悲鳴をあげた。併し此のおかげで生徒の実力は急加速度で進んだといふことは後日になつて思合はされた。時にはエロキューションのやうな稽古もやつた。

というのですから、現代の我々でも面食らうでしょう。パラフレーズ(言い換え)やエロキューション(朗読法)をこの年代の生徒に学ばせるとは、実に感心することです。

そんな型破りな蓑田先生は、「K市で一等の旅館延命軒の二階に下宿し」「黄八丈のどてらの上に白縮緬の兵児帯、鳥打帽に白襟巻、それに赤皮の編上靴といふ全く独創的な出で立ちで本町の人通りを歩いて居ることもあつた。」といいます。寅彦は蓑田先生の宿屋に訪問しては、「色々のホテルの札を貼った」「見た事もないやうな立派なトランク」や外国の「雑誌を見せられて世界の出来事を話され」たり、「パリのサロンの写真帳をひろげて、アムプレショニズムやポアンティリズムの講釈を聞かされた」と述懐しています。

未だ外国へ旅したことのない寅彦にとって、蓑田先生から聞くアムプレショニズム(印象主義)やポアンティリズム(点描主義)といったフランス近代絵画芸術の話は、油絵を描いていた「当時の自分に取つては全く耳新しく眼新しいものばかりであつた。さうして自分の将来に見るべく聞くべき広い世界への憧憬の焔を燃え立たさせるのであつた」わけです。

そのことは、蓑田先生の部屋の

襖の紙の上に一枚の小さな油画が額縁もなしに画布のまゝピンで止めてあつた。それは黒田清輝画伯の描いた簡単な風景のスケッチであつた。…(中略)…黒田画伯と蓑田先生とは同県で旧知の間柄であつたのである。此の一枚の油画にしても先生の身辺を繞る一種特別な雰囲気を色づけるに有力なものであつた。

とあることからも、18歳の尋常中学生にとって、「それ迄は唯一色のみにしか見えなかつた世の中が、思ひもかけなかつた色々の光で照らし出されることが可能であるといふ啓示(アポカリプス)であつた」と書くほど、近代性への鮮明なインパクトを与えられていたことが分かります。

このような蓑田先生ですが、寅彦が中学を出て熊本五高に行っている間に、校長と喧嘩をして去ってしまいました。しかも学校を去る際に、「生徒を講堂に集めて」「六尺の音叉一時に振ふが如し」「旧思想打破の大演説」を奮ったといいますから、冒頭から読んでいて感づかれた方もいるかと思いますが、まさに漱石の『坊っちゃん』を彷彿させるところがあります。

その後、7年ほど時をおいた後、寅彦と蓑田先生は思わぬ所で再会を果たします。その事を綴った部分を引いておきます。

大学二年の夏休みに逗子へ遊びに行つて、夕方養神亭の裏の海岸を歩いて涼風に吹かれて居た時、とある別荘らしい家の門前で思ひもかけず出遭つたのが蓑田先生で、その別荘が即ち先生の別荘であつた。先生の方でも未だ自分の顔と名前を覚えて居てくれた。さうして久し振で昔に変らず元気で愉快な話を聞いた。一寸東京へ帰つて居たいから今夜一晩此処へ泊つて留守番をしないかといふことになつて、計らず先生の別荘に一夜を過ごした、さうして縁側の籐椅子に凭れて海を見ながら先生の葉巻を吹かし、風月のボンボンをかじり、生れて始めての綺麗な羽根蒲団で寝た。食事も養神亭から女中が運んでくれた、雨戸の開閉もやつて貰つて、留守番とはいひながら天晴れ一夜の別荘生活をしたのであつた。

帰京後一度麹町区一番町の邸に先生を訪ねた。郷里の田地を売つて建てたといふ洋館の応接間に通されて、此処でも生れて始めての工合のいゝ安楽椅子に坐らされた。

この時期のことは、寅彦日記の明治35年9月の記録にもう少し詳しく背景が認められているので、合わせて紹介しておきます。時間的な流れとして、寅彦は9月1日に藤沢に向かい、翌2日は江ノ島へ、4日に鎌倉から逗子の養神亭に移動しています。以下は、それ以降の日で蓑田先生と関連する記述を拾っておきます。

9月4日(木)晴 養神亭にてはよき部屋はなく狭く陰気なる室に入る。夕方散歩に浜辺へ出づ。宿の隣りの別荘は簑田先生の扣(ひかえ)にて。先生に七年ぶりの再会をなす

9月5日(金)雨後晴 朝簑田先生おとづれ少し話し度事あれは食後に來れとの事。九時頃音づれたれは。養神亭の我が部屋はかつて肺病患者が久しく宿し居し終に死亡したる室故別荘の方へ來ぬかとの事なり。それより社会主義の話。音楽の話。等に身か入り昼迄話す午後別荘に移る。先生は一旦帰京せんと云ひ居れり其内東京の本邸より女子出産の電報あり先生は三時の汽車にて出つ其後へ本邸より「長正立つたか」との電報來る。…(中略)…宿の三弦ひきてならす

9月6日(土)時ゞ雨 終日何事もなさず。先生の残し置かれしシガー燻して縁側の椅子に腰かけ対岸の往来を眺むるのみ。…(中略)…物うさに雑誌読む気にもならず唯簑田氏が残し置きし米国雑誌をそここゝとあさる。

ここまでで、随筆には書かれていなかった事実として、蓑田先生が東京へ帰った理由は女子出産であったためで、先生が妻帯していたことがわかります。この後、8日に「午前9時17分の臨時直行列車に乗る……正午新橋着……」とあり、寅彦も東京へ一旦戻っています。翌日にさっそく蓑田先生の本邸に行っていますので、それ以降からを引きます。

9月9日(火)雨後晴 午前車を雇ひ雨を冒して上六番町なる簑田氏を訪ふ洋風の書斎に案内され預かり居たる鍵をかへす。化物の話。……

9月12日(金)曇後晴 ……余は箕田先生方へ別荘借用の相談に行く。生憎不在。…(中略)…四時頃更に箕田氏に到る。未た帰宅せざる由なれは事端書にて報知あり度旨頼みて帰る。…(中略)…夜簑田氏より差支なき旨報し來る、……

9月13日(土)晴夜曇 午前龍岡町にて自転車借り御茶の水より上六番町なる簑田氏を訪ふ。在宅。Royal Academy Picture (1902)を見る。庭園を散歩し物置の裏なる白葡萄を摘む大橋図書館向ふの高地に聳へて見ゆ。…(中略)…バイオリン引く。……

9月14日(日)曇后雨 ……馬車にのりて新橋に至り九時二十五分の直行にて逗子に向ふ。雨ふり出づ。簑田別荘に着く。夜晴れたれば小船借りて沖に出づ。恰も旧暦八月十三夜なり。……

9月17日(水)晴 朝土瓶をかえして灰神楽を上げる。富田方へ行き逗子行の決算をなし自転車借りて簑田氏に到り鍵を返却す。

以上で、蓑田先生に関する寅彦日記の記述は終わっていますが、ここでも随筆に書かれていない事として、12日に再度逗子の別荘を借りる相談をしており、14日から17日まで再滞在しています。よほど蓑田先生の別荘が気に入ったのでしょう。そのときの寅彦の心情は、上に引いた随筆の文章にも表れているので十分にわかるかと思います。

この間、11日に高知で療養している妻の夏子さんに手紙を送っていることも認められています。この年は、寅彦にとって目まぐるしいほど激動の青春期で、蓑田先生と再会した9月上旬から一転して下旬になると、20日に正岡子規が亡くなっており、そして11月15日には夏子さんも不帰の人に…。寅彦は、前年の明治34年9月から肺尖カタルのため大学を休学し、夏子さんと同じく高知で療養の一年でした。この明治35年は、8月26日にやっと東京へ戻り学業生活を再開したばかりのところで、9月4日に7年ぶりの蓑田先生との再会となったわけです。一方、翌明治36年1月には、寅彦にとって二人目の、人生を変えた英語教師である漱石がロンドンから戻ってきました。

まるで蓑田先生と過ごした半月ほどの時期が、それまで病で療養していた寅彦にとって、まさに「広い世界への憧憬の焔を燃え立たさせる」記憶の呼び戻しのような時間だったのかもしれません。

ここまで長くなってしまいましたので、熊楠に関する話は後編にさせていただき、まずは蓑田先生が寅彦に与えた近代的影響をみるものとして、ひとまず前編の筆をおきます。

 

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