科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

寅彦から藪柑子へ――盛年不重來

  • HOME »
  • 寅彦から藪柑子へ――盛年不重來

寅彦から藪柑子へ――盛年不重來

盛年重ねて来たらず(盛年不重來)
一日再び晨(あした)なり難し(一日難再晨)

陶淵明「雑詩」より

若き時代は二度とは来ない、そう分かっていながらも、いつの間にか春秋を数えている自分に気がつくことは屡々あるものです。人は若い時代にこそすべき事があるのではないか…。それを寺田寅彦の学生時代から講師時代に見てみようというのが本項のテーマです。

第18号の「随筆遺産発掘」では中村清二を取り上げましたが、細川光洋先生の解説で、中村先生は寅彦先生の若き日のロールモデルではなかっただろうかという推測がなされています。中村先生の随筆をお読みいただいた方は、実際に二人の物理学の方向性が非常に似ていたことに気づかれたかと思います。

寅彦先生と中村先生の邂逅は東京帝大入学の明治32年から始まりますが、細川先生の解説で紹介されている三原山の火山調査に二人が行ったのは講師時代の明治40年です。実はこの時期こそ、寅彦先生が最も文学的な作品を多く遺した時代でもあります。

この講師時代(主に明治38~42年)に書かれた作品は、寅彦先生の『藪柑子集』の「自序」に「私の二十八歳から三十一歳までの三年間に書いた」とあるように、ほとんどが『ホトトギス』で発表されたもので、師の漱石先生が書かしめたものです。

この期間に、寅彦先生は帝大物理の講師として研究に勤しむ傍ら文筆も執っていたわけです。忙しすぎる現今の院生や講師には考えられない話かもしれませんが、実際にはこの期間に大学内部で寅彦先生の文筆活動に非難があったことも事実で、「藪柑子」という筆名が生まれた背景にはその理由もあったようです(山田一郎『寺田寅彦覚書』参照)。(明治41年10月1日に理学博士授与を受けて、5日付で野村傳四宛に書かれた書簡に、「・・・高等学校時代にホトトギスへ短い文章や募集句を投書して首尾よく掲載されたのを見る時の様な得意な感じはある。しかし同時に色々複雑な考が交つて此小さな得意を打こわす事も色々ある。」と微妙な心境が綴られています。)

実際にこの期間に書かれた作品を、当時発表された論文や研究活動などと合わせて列記してみます。

明治38年4月 「団栗」 筆名:寅彦 (1月は本多光太郎先生と実験三昧)
明治38年6月 「龍舌蘭」 筆名:寅彦 (8月に寛子さんと結婚、11月「熱海間欠泉の変動」)
明治39年10月 「嵐」 筆名:寅彦 (4月「尺八に就て」)
明治40年1月 「森の絵」 筆名:寅彦 (1月に長男の東一さん誕生)
明治40年2月 「枯菊の影」 筆名:寅彦 (4月「潮汐の副振動」、7~8月に三原山調査)
明治40年10月 「やもり物語」 筆名:寅彦
明治41年1月 「障子の落書」 筆名:藪柑子
明治41年4月 「伊太利人」 筆名:藪柑子
明治41年10月 「花物語」 筆名:藪柑子 (同月に博士論文「尺八の音響学的研究」)
明治42年1月 「まじょりか皿」 筆名:藪柑子 (3月から欧州留学)

一目瞭然なのは明治41年1月から筆名が「藪柑子」に変わっていることで、大学内での非難はちょうどこの頃にあったことが想像されます。

中村先生と寅彦先生が三原山に火山調査に行ったのは明治40年7月21日で、霊岸嶋を発って翌日に新嶋村着、それから約3週間後の8月14日まで滞在していた記録が手帳に記されています。上の作品で言うと、「枯菊の影」と「やもり物語」の執筆の間に行動していたことになります。この三原山調査は、中村先生と寅彦先生ともう一人、石谷伝市郎氏もいました。石谷氏とは、本多光太郎先生との三人の共著で「潮汐の副振動」も同じ頃に書いています。

当時の東京帝大一覧を見ますと、この石谷氏は寅彦先生より2年後の明治38年に卒業しており、寅彦先生が実験物理学科だったのに対し、石谷氏は理論物理学科でした。当時の二人の専門は、寅彦先生が「地球磁力」で、石谷氏は「物質観に就て」。三原山調査に出かけた明治40年は、石谷氏は院生だったのではないかと思われます。理論出身の石谷氏がなぜ実験の寅彦先生たちと研究していたのかは不明です。

この火山調査の手帳記録を見ると、到着して間もなく寅彦先生が発熱したり、そう思っていると中村先生も石谷氏も下痢をしたり、テントと湯場を往来しながら刺身や湯漬飯などを食したり、各様に島生活を体験していたようです。寅彦先生が漱石先生の土産に、水盤用の石片を焼石原から採取しているのも目を惹きます。また、寅彦先生は8月2日付で、寛子さん宛に三原山の絵葉書を送っています。

殊に素晴らしいのは寅彦先生の克明なスケッチと観察眼です。石や岩、砂の形状などを丹念に調べつつ、火口原では音の状態を時系列に記録したり、日々刻々の天候変化も記されており、まるでルクレチウスの自然観察を思わせます。1カ月足らずの調査とはいえ、都会生活から離れ、自然に囲まれた地で、地球原初の火山活動を間近に眺めながら、さぞかし充実した島生活であったろうと想像します。それをより納得させるのは、寅彦先生が後年に書いた「詩と官能に描出されているこの島生活の追懐です。(以下、N先生は中村先生、I君は石谷氏です。)

・・・かつて自分がN先生とI君と三人で大島三原山の調査のために火口原にテント生活をしたときの話が出たが、それが明治何年ごろの事だったかつい忘れてしまってちょっと思い出せなかった。ところが、その三原山行きの糧食としてN先生が青木堂で買って持って行ったバン・フーテンのココア、それからプチ・ポアの罐詰やコーンド・ビーフのことを思い出したので、やっとそれが明治四十二年すなわち自分の外国留学よりは以前のことであって帰朝後ではなかったことがわかった。なぜかというと、洋行前にはそんなハイカラな食物などは存在さえも知らなかったのを洋行帰りのN先生からはじめて教わりごちそうになり、それと同時にいろいろと西洋の話などをも聞かされた。そのためにこれらの食物と、まだ見ぬ西洋へのあこがれの夢とが不思議な縁故で結びついてしまったのであった。一日山上で労働して後に味わったそれらの食物のうまかったことは言うまでもない。
 そのテント生活中にN先生に安全剃刀でひげを剃ってもらったのを覚えている。それは剃刀が切れ味があまりよくなくて少し痛かったせいもあるが、それまで一度も安全剃刀というものの体験をもたなかったためにそれがたいそう珍しく新しく感じられたせいもあるらしい。その剃刀が先生のゲッチンゲン大学時代に求めた将来ものだというのでいっそう感心したものらしい。
 とにかく、もし自分の留学後だったらバン・フーテンや安全剃刀にも別に驚かなかったはずであるから、それでこの三原山生活の年代の決定が確実にできたわけである。
 このときの三原山生活は学問的にもおもしろかったがまた同時に多分の美しい詩で飾られていたようである。しかも、自分の場合にはそれらの詩がみんな自分の肉体の生理的機能となんらかの密接な関係をもっていたような気がする。

(「詩と官能」より、昭和十年二月『渋柿』)

官能の記憶が、詩で飾られた島生活を想起することに役立っていることが分かります。決して“観念”ではなく、“感覚”というものが幅を利かせていることが重要です。この随筆の中では、「科学的にもやはり抽象型と具象型、解析型と直観型があるが、これがやはり詩人の二つの型に対応されるべき各自に共通な因子をもっているように見える」と結びにあるように、すでにこの頃から寅彦先生がルクレチウス的科学者であったことがわかります(これについては「ルクレチウスと科学の後記を参照ください)。前述のように、島での調査記録がルクレチウス的であったことも同様です。

そして何より、この時期に『ホトトギス』に書いていた文学作品の多くが、子規の写生主義を活かしたものであったことも、この「詩と官能」を裏づける証拠になると思います。『藪柑子集』の小宮豊隆による「後書」には、「絹漉しのやうな肌理の、さうして全体としては燻しのかかつた、美しい「叙情詩」がある。」と一文が添えられているように、この「叙情詩」には若かりし寅彦先生の官能に彩られた追憶が多く託されています。

寛子さんとの結婚や長男東一さんの誕生など私生活に変化もあった中、文筆活動と学究生活のバランスをとりながら、叙情詩で彩られた“盛年”時代を過ごしていた寅彦先生。そこには紛れもなく、“官能”を通して自ら体験することを重視していた中村先生との“感応”も影響していたはずです。

また、この時期に「寅彦」から「藪柑子」へと筆名が変化したことは、それ以降に使われることになる「Tora」や「金米糖」「有米糖」「木螺(ぼくら)先生」「吉村冬彦」といったペンネームへのきっかけでもあったと思います。

盛年不重來。小誌も、若い方々の「藪柑子」の芽を育てる努力をしていかねばなあと、改めて思案をめぐらせているこの頃です。

 

備忘録indexへ

 

 

PAGETOP
Copyright © 窮理舎 All Rights Reserved.