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渡邊慧宛寅彦書簡に見る学問の楽しさ

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渡邊慧宛寅彦書簡に見る学問の楽しさ

楽しみは深山(みやま)わけ入りただひとり新しき道見つけたるとき

この歌が誰のものか、表題をご覧いただければお分かりになるかと思います。物理学者 渡邊慧(さとし)の歌ですが、これについては後述するとして、この歌が象徴している話をこれから寅彦書簡を通して紹介したいと思います。(渡邊慧先生がされた研究については別の項目でも取り上げていますので、そちらもご参考に)

第18号はこれまでの小誌の中でもとりわけ寺田寅彦の特集的色合いの濃い内容だったかと思います。とくに、伊藤憲二先生の連載「仁科芳雄と日独青年物理学者たち」では、この渡邊慧先生の出自から寅彦先生との出会いなどを紹介していただきました。本項ではその補足として渡邊慧宛寅彦書簡を案内します。伊藤先生の解説の一部の背景がよくわかる手紙もあり、渡邊先生がいかに「自分には寺田流の方が良い」と考えたかがよく分かります。

書簡は、昭和8(1933)年から寅彦先生の亡くなる昭和10(1935)年までの3年間のもので、全部で6通になります。この期間は、伊藤先生の解説にあるとおり、渡邊先生が渡仏され、ルイ・ド・ブロイの下で学んでいた時期とぴったり重なっています。つまり、パリ滞在中の渡邊先生が、師である寅彦先生からどのような手紙をもらっていたかがわかる、実に興味深い資料です。年代順にさっそく見てみましょう。

まず、昭和8年12月9日(土)付の寅彦書簡。当時の寅彦先生の住まいは「本郷区駒込曙町24」、一方の渡邊先生のバリの住まいは「オルセイ河岸11」の「テリエ夫人方」です。

 御端書を難有う、もう御便りが来るかと御噂して居た処でありました ブロリーの処のセミナールに御参加の由大慶と存じます。どうか健康第一として御精励を祈ります。理研も無事 先日は講演会で中〃盛会でありました。」
 御預かりした論文いづれも印刷になって居ります、それで取敢へず少数だけ御送り致します(見本として) もし発送すべきlistを頂けばそれぞれ山本君や渡部君に頼んで送らせますから御下命を願ひます。」 タドンは其後室井君と云つて湯本君時代の人で陸軍砲工学校の先生をしてゐる人が時〃来て何かしたいといふので此人に授けて、もう少し詳しく実験をつゞけて貰つて居りますが、未だ一向眼鼻もつきません」 高橋君の砂の実験は一団落として彙報へ出す事になりそろそろ印刷が出来る頃であります。
 パリの冬も中〃特殊な詩趣があるらしい、近い処なら時〃行つて見たいが、もうあきらめました。どうか時〃の御便りで巴里の匂でもかがせてくれ玉ヘ
 右御返事迄 なほなほ御自愛を祈ります
     十二月九日                   寺田寅彦
渡辺君玉案下

巴里の匂でもかがせてくれ玉へ」という寅彦先生らしい結びがいいですね。文中の登場人物「山本君」は墨汁研究などを共同研究していた山本龍三先生で、「渡部君」は渡部哲先生で同じく共同研究者、「湯本君」は宇吉郎先生との火花の共同研究でも知られる湯本清比古先生、「高橋君」は文中にある通り砂の共同研究をし、後に気象学者となられた高橋浩一郎先生です。「タドン」は炭団のことで、墨汁と同じく寺田物理学の重要テーマです(寅彦俳句に「日のあたる風呂屋の屋根の炭団哉」があります)。こうした登場人物を見るだけでも、伊藤先生の解説にあるとおり「寺田物理学」の醍醐味と幅広さが窺い知れます。

書簡のやりとりは続き、寅彦先生の書簡はこの昭和8年末の手紙の後、すぐに翌年の昭和9年1月12日(金)付でパリに届きます。

 いろいろ面白い御報道を難有う御坐いました、不相変御元気で御活動の様子を拝察することが出来て喜ばしく存じます、どうか健康を第一とした上で御研究を願度と存じます、少生など語学が下手だつた為折角西洋に行つて居ても唖の旅でつまりませんでしたが君は此方が御上手故定めて御愉快と羨ましく思はれます。」 アラビア語云々の事はちつとも急ぎませんから別に御配慮下さらんやうに願ひます」 ルネ、シュドル先生のメタプシシクはなんだか少し六かし過ぎて少生には歯が立ちさうもありません 少生は変なことが好きなやうですが、しかしやつぱり物質の物理に関したことが一番面白く、六かしいことよりもなるべくやさしい平凡なことが好きのやうであります。原子核などはあんまり遠方すぎて力に合はず、殊にもう年を取って骨の折れることは所謂年寄りの冷や水でありますから当分「墨汁」の性質でもぽつぽつと調べる事に致して居ります。」 時〃何か科学へ御寄書を願ひます。或は御地の研究所の紹介なども至極望ましくと思ひますので御閑暇の節は御心がけ置きを願ひます。
 今年の正月は東京は天気つゞきで割合に暖でありましたが昨今は大分厳冬らしくなりました。今年はいよいよ年をとつたと見えて寒さが骨身にこたへるやうで台湾か琉球へでも移住したくなつて居ります。如何にすれば暖かに冬を過ごせるかといふ事を色〃研究して居ますが、どうも大抵金のかゝることばかりで閉口、唯一つ、朝寝床の中でねたまゝでシャツを着込みヅボン下をはき靴下をはく術を発明、此れはロハで出来る故無難、但し時〃右の脚をヅボン下の左に入れたり、シャツのボタンの相手の穴が紛失したりするやうな珍事出来するだけであります 御一笑
 なほなほ御自愛専一に存じます 不尽
    一月十二日                     寺田寅彦
渡辺慧様

パリの空の下で、寅彦先生の布団の中での“発明”を想像して微笑む渡邊先生が目に浮かびます。それにしても、伊藤先生の解説でも紹介されていた渡邊先生の語学堪能は、寅彦先生もお墨付きだったようです。語学マニアでもあった寅彦先生にとって、さぞ刺激的な存在だったのではないでしょうか。

続いて同年2月1日(木)付の手紙です。

 御手紙難有う、御地学界の模様につき御報導興味深く拝見致しました 又時々御通信を願ひます。御手紙を見て図に乗るやうですが、どうも少生のやる事はドイツ人には一向受け入れられず、フランス人イタリー人の方に買手があるらしく、航研の方の仕事でもフランスの雑誌はよく紹介宣伝をしてくれます。此れから論文をFrenchでかかうかと云つて笑ひました。語学の書物のことで大層御面倒をかけ恐縮でした。カタログ御送り被下難有う、此れを見ると欲しいものが大分あるやうですが、ゆる々々調ベてから手頃らしいものから取寄せ度いと思つて居ります。
 藤原君の渦巻や割目の研究の総覧が Ergebnisse d. kosmischen Phys. に載つて居て愉快であります。日本人はオリヂナルなものは毛嫌ひするやうですが流石に西洋人は尊重するものと見えます。
 高橋君が今度やられた「不規則な力で動かされた振動糸の不規則な振動の記録から共糸の週期と減衰率を出す法」は少生年来の問題に対する解答であつて大変役に立ちさうであります。
 平田君は盲腸炎の嫌疑で入院しましたが大したことはなさゝうであります。あゝいふ勉強家は適に病気して休養するのもいゝかも知れません。
 別刷分配の件山本渡辺[注:渡部]両君の方で処理致しますからよろしく御自愛を祈ります
    二月一日               理研で  寺田寅彦

文中の「藤原君」は伊藤先生解説にも登場し第7号でも取り上げた藤原咲平先生で、「平田君」は第4号で取り上げた平田森三先生です。ちょうどこの時期、森三先生は盲腸で入院されていた事がわかります(これについては森三先生の随筆「病院へ見えた寺田先生」に詳細な背景が書かれていますが、別項でも触れていますのでご参考に)。咲平先生の論文掲載に、寅彦先生いと満足な御様子。伊藤先生の解説で、渡邊先生が数学者のボレルに咲平先生の論文を参照するよう促した話が紹介されていますが、上の手紙を読んでも一脈通じ合っていたことが分かります。

この手紙の後、少し間を置いて、春になって4月30日(月)付で寅彦先生から手紙が送られます。

 毎度御便りを難有う、伊太利旅行は御愉快であつた事と思ひます 少生は丁度大晦日にナポリヘ着いて正月元日にヴェスヴィオに登り山上で偶然地質の加藤武夫氏に会ひそこで始めて知合になり、それから烈風で他の西洋人の観光客は皆途中で引返したのに日本人二人だけは商買柄奮発して頂上まで登つたのでありました。冬だのに宿屋のベットに蚊張が張つてあつて驚いたことでした。
 巴里の騒動はリリュストラシオンでいろいろ面白い写真を見ました、写真で見ると面白いが現場に居ては不安だらうと思はれました。
 東京は気候がアノマラスで今日四月卅日だのに雨で寒くて少生など襟巻をして理研へ来てガスストーヴを焚いて居ます 窓外の銀杏(即理研正門内の)が浅緑の若葉をつけて奇麗であります。巴里もマロニエの梢が青黒粉をふりかけたやうになつてゐる事と思はれます。時候のおくれたせいで庭の花が色〃一時に咲いて奇麗であります 木蓮、椿、素枋[注:蘇枋]、山吹、八重桜、木瓜、霧島つゝじ 海棠、チューリプ 桜草等が同時に咲いてゐて、二三日すると藤(例の)も開花しさうであります。
 理研の五月の講演会も近よりましたが、今度は寺田研究室は講演の数が十四もあつて賑かであります、北海道の中谷君が四つ芝君が四つも出すのでさうなりました。僕は不相変の「墨汁」のつゞきと、それから大に脱線して「割れ目と生命」といふ題で「生物は結局われ目の集団であり、死から生を呼び返ヘす生活現象はすべてコロイドといふわれ目即ち表面エネルギーの集団によつて行はれる」と云ったやうな奇抜なやうで実は平凡な議論から、例のキリンの縞や蝶や蠅の膜翅の気脈の分布を論じます。われながら少〃呆れたものであります
 どうか御自愛の上御勉強を祈ります、又時〃御便りを願ひます
    四月末日              理研で  寺田寅彦
  巴里の
   渡辺君へ

農学部助手の福田さんといふ方が土壌の水分を測る実験のことで時〃見えますが、此頃聞けば君の御親戚だとの事で奇縁だと思ひました

寅彦先生が語っている留学時代のヴェスヴィオの思い出は、「旅日記から」という若かりし頃の随筆に詳しく描かれています。「八 ナポリとポンペイ」の後半に、文中の「加藤武夫氏」こと「旧知のK氏」が登場します。また、文中の「巴里の騒動」というのは、1934年2月6日にコンコルド広場で起きたクーデター事件のことかと思われます。同じく文中の「芝君」は墨流しの共同研究もした芝亀吉先生。季節の話からパリのマロニエに及ぶと、藤を皮切りに寺田物理学の真骨頂である「割れ目と生命」にまで言及され、当時の寅彦先生の興味の対象がよく分かります。追伸にある「福田さん」は寅彦先生のご指摘のとおり渡邊先生のご親戚で、当時東京帝国大学農学部で助手をされていた福田仁志先生です。福田先生の奥様の光子氏は、あの山川健次郎先生の孫にあたり(父は水産学者の山川洵(まこと)先生)、同じく孫の英子氏と結婚したのが渡邊先生の兄の武氏でした。つまり、渡邊家は山川家とも親戚関係になり、伊藤先生の解説のとおり、渡邊先生が「理研のプリンス」と呼ばれた高雅さが理解できます。こうして見ると、これは非常に情報の濃い手紙だと思います。

そして、寅彦先生の亡くなる年、昭和10年2月3日(日)付の書簡になります。この年は、渡邊先生は別の住所へ引っ越されていたようで、パリの「カトルファージュ街6」の「ゲミー教授方」が住所になっています。

 其後は大変御無沙汰してしまひました 不相変御元気で御勉強何より喜ばしく存じます、少生も幸にどうにか無事にやつて居ますからどうか御安神を祈ります。理研々究室諸君も別に異状ありません、渡部哲君もすつかり健康を回復して実験を進めて貰つて居ります。山本君には今重い水の実験を少しやつて貰つて居り、傍ら慰み半分に「めだか」(小さな魚)の運動について実験して貰つて居ます。どの程度までこの小魚がオートマトンとして行動するかを見たいと思つて居ります。或度まではメカニズムと見て差しつかえないやうに思はれます。」 君より二年前に卒業した福嶋浩君が永らく病気で引籠つてゐたが此頃健康を恢復して何かぽつぽつ自宅でやつて見たいといふので陶器の「にふ」(細かい亀裂)の密度や分布を統計的数量的に調べてゐますが存外馬鹿にならない結果が得られさうで、何か少し簡易な実験装置を作り、自宅で実験すると云つてゐます。」 高橋浩一郎君も折〃休暇のときなど来て砂の実験をやつたりして居ます。
 少生の日常は至極平凡で、一週一回合奏をやるのと適に映画を見にゆく位で、それと夜の閑なときに下らぬ随筆をかいてゐるときもあります。なにしろ寒さ嫌ひですから暖くなるのを楽しみに生きてゐるやうな塩梅であります。暖くなると又二三ヶ月年を老つてそれだけ先が短くなる勘定ですがそれでもやっぱり早く暖かくなる事を渇望してゐます。」 兎に角明けて五十八歳といふことになり六十へ間近くなりました。西洋へ行ったときは三十二歳でやつぱり若かつたんだなあと思つて感心してゐる次第であります、真に茫乎として夢の如くであります
 御自愛専一に存じます 草〃
    二月三日            寺田寅彦
  渡辺慧様

二伸 小平君に宜しく願ひます

文中の「福嶋浩君」は統計物理で知られる福島浩先生。福島先生がご自宅で療養がてら実験されていた陶器のひび割れの研究も面白そうですが、山本龍三先生とのメダカのオートマトンの研究も興味深いものです。寅彦先生が「一週一回合奏」とあるのは、18号の小松美沙子さんがエッセイで紹介されている、藤岡由夫先生(セロ)と坪井忠二先生(ピアノ)とで組んだトリオ合奏のことです(寅彦先生はヴァイオリン)。結びの「真に茫乎として夢の如く」という言葉は、この年の大晦日を思うと痛切に響きます。二伸にある「小平君」は、同じ寅彦門下で気象学者の小平吉男先生です。

そして、6月20日(木)付で寅彦先生からの最後の手紙になります。これは伊藤先生の解説にある、渡邊先生が1935年にフランスの国家博士号を取得し、ド・ブロイが序文を書き、賛辞で結ばれた論文について、寅彦先生も喜びの声を綴っている様子が窺える手紙です。

御無沙汰しました、五月卅一日附の御手紙拝見 不相変御元気で大慶 モロッコ旅行など羨望の至であります」 御渡仏以来御研究の結果がドブロイー先生の賞讃を博したといふ事を伺つて欣快の至に存じます、自分等まで何だか肩身が広くなつたやうに感じます、学位は是非共御取りになるやうに願ひます、日本人の中にもたまにはオリヂナルな仕事の出来る人間のゐるといふ事を示すといふだけでも緊要と存じます。特に推薦者がド、ブロイーでètat[注:国家]の学位なら猶更名誉と存じます、此れは貴兄の個人だけの名誉でないから御遠慮なさらない事を希望致します
 東京は天文学上の梅雨期になつてもちつとも降雨がなく所謂からつゆの天候でありますが今にびしよびしよと始まる事と思はれます、夏は又沓掛へ出かけるつもりなので七八月に余り降られると迷惑だと思つてゐます。」 浅間山は今年は少し元気づいて小爆発数回、その際の傾斜計や地震流計のレコードを水上君が調べた結果爆発数日前からはつきりした異常の現はれることが明になつたやうで大変面白いと思つて居ます、段々に色〃な新事実が分かる事と思はれます、御尊父様方の御尽力の賜と思ひます
 サクレ、キョールの絵で思出しました、パリの宿へついて間もなく霧のこめた空気の向ふにあの丘上の白つぽい建物が眼について不思議な御伽噺的な気分を誘はれ、下宿の主婦に聞いたら聖心寺だと分つた。このときCoeurの巴里子の発音をハッキリ聞いて、仮名にはかけない此の音を体験したことでした。
 岩波書店主人が突然西洋訪問に出かけました 小平君御夫婦が御地にゐるのを第一に尋ねて行く事と存じます、大将中〃の元気で羨ましい、少生など軽井沢沓掛行が可成おつくうな位だから、
 台湾地震で震研の連中も活動してゐます。」 坪井君九月末頃渡欧します、約一ヶ年の予定で諸所見学、自然貴地への立寄る事と存じます、どうか宜しく
 貴兄の御帰朝は大凡いつ頃でしたか、御序の節御洩らしを願ひます 草〃
    六月二十日                      寺田寅彦
   渡辺君玉案下

寅彦先生晩年の小浅間や沓掛に関する随筆を漂わせますが、この手紙の約3カ月後に寅彦先生は体調不良を訴えて床に臥せ始めます。この辺りについては18号の小松美沙子さんのエッセイをお読み下さい。文中の「水上君」は寅彦門下で火山学者の水上武先生です。「サクレ、キョール」はサクレ・クール(Sacré-Cœur)寺院のことで、フランス語で「聖なる心臓」の意から「聖心寺」。後半の「岩波書店主人」は岩波茂雄氏のことですが、上述の小平吉男先生とは同じ長野県出身になります(藤原咲平先生も同郷)。渡欧することになる「坪井君」は前出の坪井忠二先生で、ちょうど米国パサデナ滞在中に寅彦先生の訃報に接します(詳細は追悼文「電報」を参照。これによると、坪井氏の出立時、東京駅まで体調不良だった寅彦先生が杖をついて見送りに来たのが最後の別れとなった由)。

恐らく渡邊先生から、寅彦先生が体調不良である旨は、父の千冬氏に伝えられていたのかと思います。この後、11月12日(火)付で当時麻布に住んでいた千冬氏宛に寅彦先生から手紙が書かれています。千冬氏から見舞いの届け物があったことへの返礼のようですが、渡邊先生のフランス国家博士号取得について祝辞が述べられています。この手紙が代筆であることも、寅彦先生の状況の深刻さが想像できます。

 拝啓 只今は御丁寧の御手紙賜り拝見仕候
 朝夕冷寒を覚え候折柄益〃御健勝何よりの御事に存上候
 御子息様には愈〃仏国学位試験御及第の赴皆様にも嘸御喜びの御ことゝ拝察仕候 誠に日本学界の為理研の為名誉のことにて私共までも肩身広く存ぜられ御目出度御祝ひ申上候
 扱私こと病気に就き御心配下され又昨日は何よりの御品御見舞に預り重ね重ね有難く厚く御礼申上候
 御蔭様にて只今の処少〃づゝには候らへども次第に快方に向ひ候やう覚え候まゝ他事ながら御休心被下度誠に失礼には候らへども代筆を以て御礼旁〃御祝詞申述べ候
 日に増し御寒に向ひ候へば何卒御自愛専一に願ひ上候 早〃
   十一月十二日           寺田寅彦代
渡辺千冬様侍吏[史]

私共までも肩身広く存ぜられ」という言葉は、この約1カ月半後に旅立つ寅彦先生が、まさに渡邊先生に託したとも言える言葉ではないでしょうか。その遺伝子は渡邊先生に確かに受け継がれ、後の時間に関する研究や著作にも多く現れていると思います。冒頭の歌は、そうした寅彦精神の象徴でもあり、他にもエスプリの効いた歌がいくつもあります。渡邊先生は、江戸時代の歌人 橘曙覧の「楽しみは」という数十首の歌をヒントに、学問の楽しみや“知るということ”の喜びを、曙覧流に歌で伝えられています。渡邊先生の詳細については伊藤先生の連載を読んでいただき、最後にもう一つ歌を紹介して結びとします。

楽しみは思想の翼打ちひろげ時空の外に天翔るとき

 

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