小生は純なるpublisher――夢と憂いと満足と
第14号の「随筆遺産発掘」では、前号の中谷宇吉郎に続いて、弟で考古学者の中谷治宇二郎の「海鳴り」を取りあげました。
細川光洋先生の解説にあるとおり、この「海鳴り」という作品の背景には、当時治宇二郎が注目していた民俗学者 柳田国男の『雪国の春』があったことは、治宇二郎が書いた書評や作品自体を読めばよくわかります。
国木田独歩や田山花袋らと叙情詩や短歌に励んでいた柳田は、どこか自然詩人的な感覚と感性をもち合わせた民俗学者だったと思います。この書の冒頭を飾る「雪国の春」は、表面には論文風の品性を保ちながら、奥には詩的な雰囲気を感じさせる、なめらかな階調とリズムが折り込まれた文学的なエッセイです。中でも、漢語と和語のバランスが対句のように響いており、治宇二郎が心ひかれた由縁も頷けます。
さて、治宇二郎が触発を受けた『雪国の春』。この本が刊行された背景にも、実は紆余曲折がありました。この項では、柳田国男の『雪国の春』やその他の出版物をめぐる話を紹介したいと思います。
話は、以前この備忘録でも紹介した岡書院から始まります(→)。岡書院の創業者 岡茂雄は、治宇二郎の名著『日本石器時代提要』を世に送り出した人物ですが、その前に柳田国男の『雪国の春』を刊行していました。問題はその経緯です。岡の著作『本屋風情』に収められた「よくぞ生まれた『雪国の春』」の冒頭から引用します。
昭和二年十一月下旬のある日、陽も落ちて燈火の冴える頃であった。柳田(国男)先生が電話で「すぐ朝日(新聞社)へきてくれないか」といわれたので、何事かと思い、車を呼んで駆けつけた。先生は当時朝日新聞社の編集局顧問で論説を担当しておられた。通されたのは窓際の、気軽に茶でも飲めそうな寛げる部屋であったが、先生は改まった面持ちで「君は岩波(茂雄)君と親しいようだから、本(出版)を頼んでくれないか、一月にはどうしても出したい本なんだ」といわれた。途端、それはだめだと思った。二つの理由が反射的に頭にひらめいたからである。その一つは、その当時岩波氏は柳田先生に好感をもっていなかったからである。も一つはそんな性急な仕事を引き受ける岩波ではないことを知っていたからである。
岩波氏が柳田先生に好感をもっていなかった理由は、柳田先生が他書で書いた文章によるようですが、それよりも発端はこの出版の依頼を聞いた岡の返答でした。
「それは無理です。岩波は完全原稿を手に入れてからも、じっくり念を入れるので、できあがるまでに数カ月はかかるでしょう。それに年末年始は、印刷所でもどこでも一週間以上はほとんど仕事はしないでしょうから、それは無理でしょう」と応えた。先生はしばらく腕を組んで黙っておられたが、「それではどうしたらいい、『雪国の春』という書名にしたいんだ」。私は迂闊にも「私が一切の仕事を放り出し、その本とだけ取り組んで、人を頼まず自分の脚で夜昼かまわず駆け回りでもしたらば、あるいは、一月中になんとかなるかも知れないとは思いますが、他人にはそんな要求はできません。私にだって確信があるわけではありません」と申し上げた。
「これがいけなかったのである。」と噛みしめる岡の思いのとおり、以下の柳田の反応によって話は意外な展開になっていきます。
先生はまた黙っておられたが、しばらくして吐き出すように「君のところで出したんでは本が売れないからな」といわれた。私はむっとした。そしてむらむらと腹が立ってきて、私はお願いしているんじゃありませんと、危うく口から飛び出しそうになったのをこらえ、ぐっと唇を噛んでかたく口を閉じた。しばらく無言の対坐がつづいた。やがて先生は、しかたがないとでもいいたげな容子で、「じゃ君やってくれたまえ」といつものように左手を右袖口に入れ、たばこの煙を追いながらつぶやくようにいわれた。私はすぐにはこたえられなかった。ためらったすえ、「御原稿はそろっているんですか」「大体できている。まだ少し書き足さなければならないが、それに菅江真澄の絵の模写を口絵として中へ一枚入れるが、それと表紙の絵を早川(孝太郎)君に頼んである」「それらはいつ頃できるんですか」「今できている分は月末までには渡せるが、新しい原稿は来月の中頃になろう。絵の方は今月中にはできるだろう」「表紙は木版におこすことになるでしょうから、一日でも早くしていただかなくては困ります」「ぼくからも早川君にいうが、君からも催促してくれたまえ」ということで、お引き受けするとはひとこともいわないのに、行きがかりでお引き受けすることになってしまった。とんでもないことになったと、ひどく気が重くなった。先生もさぞかし不本意だったことと思う。こんな気まずい遣り取りのすえ、『雪国の春』は受胎したのである。
ここに登場する早川孝太郎は、画家の松岡映丘(柳田の弟)に師事し、柳田の民俗学の門下でもあった人物です。菅江真澄は『雪国の春』の中の「真澄遊覧記を読む」という章で紹介されている江戸末期の紀行家です。参考に、画像は白黒で不鮮明ですが、早川の表紙と菅江の絵を貼っておきます。実際に岡書院から刊行された『雪国の春』は国会図書館デジタルコレクションでも見ることができます(→)。
岡自身が「とんでもないことになった」と消沈しながら取り組むことになった『雪国の春』の出版は、しかしまた思いも寄らない難儀をもたらします。「どんなに急ごうとも、手抜かりは私自身ゆるせないのである。」と考える岡にとって手痛い出来事でした。
私は加賀町(柳田邸)と神田(印刷所)と九段上(自宅)との間を、夜昼を分かたずといいたいほど駆けずり回り、どうにか、二月の初めに見本が三冊できたので、一冊を加賀町にお届けしたのだが、その翌朝呼びつけられ「これはなんだ」と『雪国の春』のあるページをあけたまま突きつけられた。受け取って見たがわからない。「なんでしょうか。」「ページ数字を見たまえ」。おやっと私も驚いた。七六ページ――であったと思う――が左右両ページについているではないか、私は絶句してしまった。「だから君んとこはいかんというのだ」と叱りつけられた。くそっと思った。それは先生に対してでも、叱られたことに対してでもない。無理を承知で、行きがかりとはいえ、お引き受けした以上、落ち度の責めをその無理に嫁することは私の操守ではない。私の二カ月にわたった苦辛は、万全を希求しての苦辛であったのに、かようなごく初歩的な落ち度を仕出かした、その私自身に対する憤りであったのである。
これは同じ道に携わる者として、同情よりもむしろ明日は我が身と戒めねばならない話です。「急いで善後措置をとり」「発行日までにはどうにか産み落とすことができた」岡の言葉がさらに身に沁みます。
難産であった。まことに後味のよくないお産であった。私は虚脱したように、物を考えるさえ厭わしく、しばらくはなにごとも手につかなかったように覚えている。私は前にも後にも、これほど心身を消耗させた本造りをした覚えはない。
(中略)
けれど『雪国の春』が、霞を隔てた遠い雪山に、春を魁けてことぶれる銀鼠の猫柳などを配して、図案された表紙をまとい、苦渋の臍帯を断ち切り、暗い影を振り払って、思いのままに羽撃き、明るい春に向かって飛び去る姿を見送って、せめてもの慰めとしたのであった。幸い愁苦の染み跡を、本のどこにもとめなかったばかりか、意外にもはけ足が早く、四月には再刷本を世に送ることができた。
禍福はあざなえる縄のごとく、刷り直しの惨憺がわずか二カ月で重版出来へと転じたことは、まことに安堵で報いられたことでしょう。まさに雪国の人々が春を迎えるような心持ちであったと思います。岡が行き来したという神田の印刷所がどこか気になり、奥付を見て驚きました。なんと、窮理舎もお世話になっている精興社さんではありませんか。創業者 白井赫太郎氏の名が光ります。(なんだか複雑な気持ちになってくるのは似た経験をしたからではあるまいか……)
何より、この『雪国の春』に触発された青年 治宇二郎が、同じ年に「海鳴り」を物し、それから二年後には大著『日本石器時代提要』を岡書院から出したことも不思議な因縁です。とりわけ、『雪国の春』の中で白眉をきわめる「東北文学の研究」は、治宇二郎が十代で書いた記念すべき小説「独創者の喜び」が『平家物語』を主題にしている事とも無関係ではないでしょう。『義経記』や『平家物語』にまつわる背景については、柳田の示唆のある指摘が多く見られます。
さて、柳田国男にまつわる出版の話は『雪国の春』だけにとどまりません。柳田自身が残したエッセイ「予が出版事業」(昭和14年11月『図書』)にその遍歴の概要が書かれています(→)。
この中で柳田は、生涯で自身が手がけた思い出の出版物をいくつか紹介しています。順に挙げると、12歳の頃に故郷を離れる前に作った留別の詩文集『竹馬余事』、29歳のときに田山花袋の協力で出した歌道の師 松浦萩坪の歌集『萩の古枝』、33歳時に四国・九州を回った際の見聞をまとめた『後狩詞記』(のちのかりことばのき)、35歳では出版未経験の新しい版元 聚精堂から出した『遠野物語』と『石神問答』、38歳にして民族学者 高木敏雄と共に創刊した斯学初の機関誌『郷土研究』、翌39歳には『郷土研究』の片手間に始めた「甲寅叢書シリーズ」で『山鳥民譚集』『王朝時代の陰陽道』など、本業者顔負けの刊行物が多岐にわたります。
柳田自身、
私のは業と名づけてもよい程に出版道楽が年久しく、又悔いるということを知らない。(中略)小生は純なるpublisherであった。大よそ此名で呼ばれて居る人たちの味うべき夢と憂いと満足とは皆味って居る。
と冒頭に断り書きをしているほどです。この文中の「夢と憂いと満足」という言葉に、岡茂雄の姿も見え隠れしているように思えるのは私だけでしょうか。
上の『郷土研究』は大正2年創刊後4年で休刊、その後、大正14年に後継誌ともいえる『民族』を創刊していますが同じく4年後に休刊(『民族』には治宇二郎も寄稿している事は細川先生の解説を参照)。夢と憂いはいつの時代も交錯するものです。面白いのは、柳田本人が「悔いるということを知らない」と書くほど、出版への夢は尽きなかったし、それなりに満足もした、という事です。
最後に、書物研究家の森銑三の言葉をそえて、この出版物語を終わりにします。柳田の「小生は純なるpublisherであった」という言葉が強い意味をもって重なるはずです。
書物愛護の精神――最後に今一度この言葉を繰返して置こう。この言葉をほんとうに理解する人とのみ書物についても談ずべきである。真に書物を愛する人は、敬虔な心の持主であらねばならぬ。また敬虔な心の持主にして、始めて真の書物愛好家たるべきである。
(『書物』森銑三・柴田宵曲著より)