湯浅年子補遺(其の一:ポール・ヴァレリー)
第11号の「随筆遺産発掘」では、日本で最初に国際的に活躍した女性物理学者の湯浅年子先生をとりあげました。今回は、細川光洋先生の解説の中で注記されていた、湯浅先生が講義を受けていたという詩人のポール・ヴァレリーと物理学者のルイ・ド・ブロイの話を、補足として2回に分けて紹介したいと思います。
この項では、まずポール・ヴァレリーについて挙げておきます。
それは、湯浅先生がパリに居住して1~2年後の頃の話になります。湯浅先生は日本にいた頃から、アテネフランセでのフランス語の授業を通して、ヴァレリーの詩に魅力を感じていました。そのときの事を綴った本人の文章を下記します。
日本にいた頃アテネフランセの現代仏文学の講義を担当しておられたPaul Isler(ポール・イズレル)氏から、ヴァレリーの詩“Cimetière Marin 海辺の墓地”の講義をききそれを通して、ヴァレリーの建築学的精神、知的構成に一分のすきもない幾何学的精神のもつ魅力を感じてそれに比べるとBaudolaire(ボードレール)やVerlaine(ヴェルレーヌ)の感性の上に立つ詩が力弱く、時代おくれのもののように考えていた。
(「作家論 ヴァレリー」より)
この「海辺の墓地」こそ、堀辰雄に『風立ちぬ』を発想させた最終節「風立ちぬ、いざ生きめやも(Le vent se lève! …… Il faut tenter de vivre!)」が収められた、ヴァレリーの代表作です。
そのヴァレリーの講義がCollège de France(コレジ・ド・フランス)で開かれていた1941年1月、湯浅先生は俄然興味をあらわに出席しています。しかし、1月11日の日記に認められている記述には、「実のところ私は少し落胆した」とか「彼はずい分老人である」とか「非常に低い声ではっきりききとれない」といった印象が目立ちます。その後、徐々に講義に出る機会がなくなっていきつつも、ボードレールの詩に精通するようになり、以前にもましてヴァレリーの真価・本質がわかるようになったようです。例えば、そのことを示す文章を下記すると、
むしろヴァレリーは本質的には、詩人である以上に評論家又はエッセイストとしての天分が豊かであるように思われてきた。彼の詩は心情から生れるのでなく、頭から構成されるものである様に思われて来た。
(「作家論 ヴァレリー」より)
といったものや、
ジイドがより文学的であるに反してヴァレリーには冷く整然とした科学性がみられる事である。一方には生々しい血潮が通っているが他方には血潮の色も息吹も感じられない。快い理性のリズム、建築美に通う均整のとれたあぶなげのない構成美がある。
(「作家論 ヴァレリー」より)
などがあります。このような湯浅先生の鋭いヴァレリー評のとおり、実際、ヴァレリーは同時代の数学・物理学・化学・生物学・医学などにも触れており、人間の精神的機能の科学的解明を目指していました。とくに、当時の哲学者のマッハには影響を左右されており、親友のアンドレ・ジッド(細川先生解説の注のとおり、ジッドこそ湯浅先生が“最も共感をもつ作家”でした)に以下のような葉書を書いています。
もうへとへとだ。さんざん苦労したあげく、もっとも貴重で、もっとも独創的(傍点)で、もっとも中核的ないくつもの思想が、他人によってすでにほとんど発見されてしまい、広く利用されてしまっていることに気づくのがどんなものか考えてみてくれ。
(木田元「文学と哲学」より)
上の文中の“他人”というのがまさにエルンスト・マッハを指しており、当時マッハが出版したばかりの『認識と誤診』を読んだことが、この葉書をかく大きなきっかけだったと言われています。
こうして見てみると、湯浅先生が見抜いたヴァレリーの本質であったり、関心をもったヴァレリーの魅力が、いかに的を射ていたかがよく分かります。そのことは同様にヴァレリーに影響を受けた堀辰雄にも共通して言えることではないかと思います。第8号で紹介した吉田洋一先生の教え子でもあった堀辰雄が数学にも秀でていたことは、細川先生に解説して頂いております。
話が膨らんでしまいましたが、偶然なのか湯浅先生が意識して書いたのか、ヴァレリーと同じタイトルで残されている詩を紹介して終わりにしたいと思います。湯浅先生がこの詩を書いたときは戦後間もない頃で、戦中に一時帰国してまだ日本にいたため、おそらくフランスに早く戻ってジョリオ・キューリー夫妻の下で研究を再開したかった、その想いを詩に綴ったのではないかと読み取れます。一方、ヴァレリーの詩は、20年余りの活動の休止から、再びジッドの勧めが呼び水となって生まれた作品の中の一つです。
あしおと
それはそこはかとなく起こってくる。
あたりの空間を集めて、
しかしたちまち有限のリズムとなる。
二足、三足、
ためらひ勝ちに、忍びやかに、
しかし、自信と情愛を籠めて、
ゆっくりと。
さはれそれは何時でもではない。
あるときは、
いくら集まり凝らうとしても、
再び崩れて、果てしない暗闇の無限に
消えて行ってしまふ。
再び凝らんとして、崩れて行く。
胸の動悸が早まり、昂まり、
破れるかとなっても、
空間は閑りかへって、
意地悪く、あのやさしい魂、音の手鞠を
かへしてはくれない。
何に向って嘆かうといふのか?
誰に訴へ様と思ふのか?
冷酷な、鉄の扉と押問答、
私の腕が折れて挫かれて、
力なく地面にひれふしても、
冷酷な空間よ、
私とあの魂との絆を寸断してしまふのは
おまへだ。おまへだ。おまへだ。(湯浅年子、1947年10月4日日記より)
足音
おまえの足音、わが沈黙から生まれ出て、
敬虔に、ゆっくりと踏まれる歩み、
私の寝もやらぬベッドへ向けて
無言のままに冷たく進んでくる。まじりけのない人の姿、気高い影、
何と快いのだ、抑えたおまえの足どりは!
神々よ!…… 察しのつくあらゆる贈り物が
その素足に載せてもたらされる!たとえ、おまえが唇を前に進めて、
わが想念のうちに住む者を
なごませるために あらかじめ、
接吻の糧を与える用意をするとしても、その優しい行為を急いではいけないよ、
居ながらにして居ないことの心地よさ、
私はあなたを待って生きてきたのだし
私の心はそのままあなたの足音だったのだから。(ポール・ヴァレリー、安藤元雄訳、1922年『魅惑』Charme所収より)