窮理学から物理学へ――日本で最初の物理学書
第9号の桜井邦朋先生の巻頭言では、結びに「“窮理学”への期待」という趣旨で、福沢諭吉の『訓蒙 窮理図解』を紹介しながら、小誌への期待のお言葉をいただきました。また、第10号では、高木隆司先生に「私の窮理学」と題したエッセイをご寄稿いただき、江戸中期から始まる窮理学の紹介などを冒頭で解説いただきました。
今年(2018年)は明治150年であることを記念する国内行事も多く散見されましたが、上の先生方の稿を読めば、明治は決して150年ではありませんし、日本の近代化は明治より以前の江戸時代から着々と醸成されていたことは十分に理解できます。
そこで本項では、明治初頭に福沢諭吉が『訓蒙 窮理図解』を通して紹介した“物理学の導入”について、それよりも過去に遡りながら少しく見ていきたいと思います。
まず、福沢諭吉が初等的な物理学の啓蒙書として刊行した『訓蒙 窮理図解』の中身を見ていきましょう。
『訓蒙 窮理図解』は、当時の学界にとって新しい学問とみなせる内容はとくになく、むしろそれまでの蘭学の知識の枠内で理解できるものでした。その証拠にその中で説かれた内容は、温気・空気・水・風・雲雨・雹雪露霜氷・引力・昼夜・四季・日蝕月蝕と、全10章にわたる身近な自然現象(とくに気象など)の解説です。『訓蒙 窮理図解』は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できますので、そのリンクも貼っておきます。(→)
せっかくなので、各章の構成も参考までに下記します。
(巻の一)
第1章 温気の事
万物熱すれば膨張れ冷れば収縮む
有生無生温気の徳を蒙らざる者なし第2章 空気の事
空気は世界を擁して海の如く
万物の内外気の満ざる処なし(巻の二)
第3章 水の事
水は方円の器に従て一様平面
天然の湧泉人工の水機皆此理第4章 風の事
空気日に照らさるれば熱して昇り
冷気これに交代して風の原となる第5章 雲雨の事
水気の騰降は熱の増減に由り
一騰一降以て雲雨の源となる第6章 雹雪露霜氷の事
露凝て霜となり雨化して雪となる
雨雪露霜其状異にして其実は同じ(巻の三)
第7章 引力の事
引力の感る所至細なる又至大なり
近は地上に行はれ遠は星辰に及ぶ第八章 昼夜の事
日輪常に静にして光明の変なし
世界自から転びて昼夜の分あり第九章 四季の事
日輪一処に止りて温気の本体となり
世界これを廻りて四季の変化を起す第十章 日蝕月蝕の事
月は世界を廻りて盈虚(みちかけ)の変を生じ
三体上下に重りて日月の蝕を成す
こうして目次の詳細をみると、福沢が身近な現象をやさしく解説することで、民衆をいかに啓蒙しようとしていたかがよく分かります。『訓蒙 窮理図解』は、上の桜井先生が現代語訳された著書もありますので、ぜひ参考にしてみてください(→)。
一方で、福沢よりも約40年ほど前から、すでにこれらについて克明に解説していたのが青地林宗と川本幸民でした。川本幸民は青地林宗の三女秀子と結婚し、林宗の遺志を継いだと言われます。その証拠に、林宗の書いた日本で最初の物理学書である『気海観瀾』(1825年刊)を、仮名混じり文にして増補し通俗化をはかった『気海観瀾広義』(1851年刊)を著しています。
幸民は日本で初めて「化学」の文字を著述につけたことでも知られていますが、初めて物理学書を著した岳父の林宗と見事に呼応する活動ぶりだったと思います。幸民の『気海観瀾広義』は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できますので、これもリンクを貼っておきます。(→)
福沢の『窮理図解』と比較してもらえるように、幸民の『気海観瀾広義』の目次も下記します。
(巻一)
費西加要義/體性総論/真性/定形/碍性/分性(巻二)
気孔/動静/引力/仮性(巻三)
分類/三態/三有(巻四)
天體(巻五)
動/游動直落斜落/複動/中心力/重心(巻六)
運重器/物體衝突(巻七)
流體総論/水/水壓/諸體本重(巻八)
大氣(巻九)
大氣夾雑諸氣類(巻十)
温(巻十一)
越歴的里失帝多(えれきてりしていー)/瓦爾發尼斯繆斯(がるはにすみゅす)(巻十二)
前編餘義(巻十三)
磁石(巻十四)
光/光線屈折(巻十五)
視學諸器/眼目視法
以上を見ると、基礎力学(天体を含む)や基礎物性をはじめ、熱、流体、大気、電気、磁気、光などの多方面にわたる物理的知識を網羅していることがわかります。この『気海観瀾広義』は、その大元である『気海観瀾』の内容を補足補充し、7年かけてまとめあげられた幸民の大著です。また、林宗の『気海観瀾』は、オランダのボイス(Johannes Buijs)が著した『格物綜凡』が種本になっていることもわかっています。
上の福沢の『窮理図解』と較べると、『気海観瀾(広義)』がいかに物理学のほぼ全領域について述べていたかも分かりますし、実際にその影響力は非常に大きく、幸民のみならず帆足万里や広瀬元恭など後世まで力を及ぼしました。
参考までに、上の幸民の『気海観瀾広義』の冒頭「費西加要義」の一文は次のようなものになっています。
ヒシカは物理をきわめるの学なり。その要はまずその物を知り、しかる後その用を察するなり。
(費西加者窮物理之學也。其要先知其物而後察其要也。)
そして更に、その凡例には以下のような文も見られます。
而して又人身生活の理を教ふる学を「ヒショロギー」と云ふ。是又「ヒシカ」の一派なり。医をなす者は先つ此「ヒシカ」に就て万有の理を窮め、次に彼の「ヒショロギー」を詳にし、而して後「パトロギー」に入るべし。
ここで、ヒシカ→ヒショロギー→パトロギーの構図は、物理学→生理学→病理学ということになりますが、医学やそれに関連する学問の基礎が物理学であるという認識があったとみると、これについては「はたしてこのような主張が江戸時代の日本ではどれほど緊迫感をもって迎えられたか、疑わしいものである。」という中山茂氏の論考(『近世日本の科学思想』)が正鵠を射ているのではないでしょうか。
実際、幸民は上のように物理学といいながらも、今でいう数理的な計算をするような話にまでは踏み込めていません。あくまで定性的な現象説明にとどまっており、まだ現代の物理学に近い理念を捉えていない状態です。(ただ、計算という立場のみでみるならば、林宗よりも前に志筑忠雄が、独自の実測法により、長崎とパリの重力の差を求めていることは分かっています。志筑の場合は天文学に限られており、林宗や幸民のように物理学のある程度の分野全般をカバーしていたわけではありませんでした。)
そこで登場するのが、幸民や広瀬元恭の後に、時代のオピニオンリーダーとして役割を果たした福沢諭吉です。福沢は、機械文明の進歩に遅れをとるまいとする時代の風潮に見事に順応し、『西洋事情』や『学問のすゝめ』『文明論之概略』『民情一新』など警世の書を次々と世に送り出しました。
その中でも、上で紹介した『訓蒙 窮理図解』は自然現象を取り上げ、解説したもので、自然科学に関係した福沢の唯一の本でした。その内容は、時代背景も考えると、すべてにおいて正しいわけではありませんが、それでも実学を提唱し、実用にとどまらぬ窮理の学を推し進めたことは、時代の方向づけに力を与えたと思います。それについて、小林秀雄の言葉がより説得力をもっていますので紹介しておきます。
彼の豪さは、単に、西洋文明の明敏な理解者、紹介者たるところにあったのではなく、そのこちら側の受取り方なり受取る意味合いなりを、誰よりもはっきりと考えていた処にあった、外来の知識は、私達に新しい活路を示したが、同時に、新しい現実の窮境も示した事を、見抜いていた点にあった。
(中略)
福沢という人は、思想の激変期に、物を尋常に考えるには、大才と勇気とを要する事を証してみせた人のようなものだ。(「天という言葉」より)
その後の日本における物理学の進展は、スコットランドから来た技術者や科学者たちに負う所が多く、工学の基礎として物理学を学んでいったという背景に支えられていきます。
こうして、江戸時代において、オランダ語の「natuurkunde」に、自然哲学的に捉えた朱子学用語の「窮理」があてられたのに対し、明治時代では、狭義の専門の「物理学」として「窮理」は捉えられ、その後、「理学」「哲学」「理科」へと変貌を遂げながら、現代の私たちに最も馴染み深い「科学」へと至ります。そこでは既に、専門分化された「science」の様相になっていたことも注意すべきことです。
日本で初めて物理学書を著した青地林宗。その遺志を引き継ぎ、それを完成させた川本幸民。そしてそれを大衆に啓蒙・普及しようとした福沢諭吉――。
今回は、日本で物理学がいかに創られていったのか、そのほんの入り口を覗き見たようなものでしたが、それは決して、明治時代に突然開花したようなものではなかったことだけはご理解いただけたかと思います。それ以上に、江戸時代における多くの窮理学師たち、蘭学師たちの貢献があって初めて成立しえた偉大な学問の蓄積です。
最後に、島津斉彬にも厚遇された川本幸民の遺した七言絶句「松間花」を紹介して結びといたします。幸民の人柄が滲み出ている詩です。
老樹一叢深く且つ蒼く
紅花疎漏中央に在り
言うを休めよ蘊秘して人跡を絶つと
珠玉は重ねて包むも尚光を放つ(『養英軒雑記』より)