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中谷治宇二郎の出版物語―岡茂雄から学ぶ出版業の在り方

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中谷治宇二郎の出版物語―岡茂雄から学ぶ出版業の在り方

以前この備忘録で紹介した、中谷宇吉郎の弟 治宇二郎の知られざる小説(「独創者の喜び」)は、その後も新聞報道などでだいぶ認知されるようになり、小説自体も多くの方に読まれるようになったことは大変喜ばしいことだと思います。

今回は、治宇二郎の残した数少ない考古学の名著(『日本石器時代提要』『日本石器時代文献目録』など)について、寺田寅彦や宇吉郎も関係しますので、当時の出版背景をある一冊の本から紹介します。

ある一冊の本というのは、岡茂雄著『本屋風情』(昭和49年7月、平凡社)のことで、後に中公文庫でも出された本です。この本の中に、「中谷治宇二郎さんと私」という回想エッセイが収載されています。著者の岡茂雄氏は幾多の名著を世に送り出したことでも知られる編集者で、人類学関係の本が中心の“岡書院”と山岳関係が中心の“梓書房”の代表者でもあります。上に挙げた治宇二郎の名著はこの岡書院から出されました。岡氏はこの回想エッセイの中で、治宇二郎の本がどういった経緯で出版されるに到ったかを思い出深く語っており、当時の治宇二郎の横顔のような雰囲気もその文章から読み取れますので下記に引用紹介したいと思います。

治宇二郎の卒業論文は『注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布』というものでしたが、それについては宇吉郎の随筆(『日本石器時代提要』のこと)で、「文化中心を求める中谷の図式方法」として少し触れられています。話はその論文を出版した辺りからの岡氏の回想になります。(以下の引用は、冒頭文は省略しています。)

中谷さんは選科を出たばかりであったが、それまでに作家を志望して、菊池寛の家に寄宿して師事したり、金沢新聞の記者としてシベリアに渡ったり、更にまた東洋大学に入って印度哲学を専攻したりしていて、先史考古学にひかれて選科に入ったのは大正十三年であった。であるから、先学山内清男さんや、八幡一郎さんがたとは、齢の点では同じ年頃になっていたのである。

『注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布』の出版がきまってからは、私はしげしげと顔を合わせることとなり、いつとはなく氏の意欲の移り変わりのいきさつや、今は何を意図しているかなどを知ることができた。その中で私の心を引きつけたのは、日本石器時代にかかわる諸文献の目録集成の熱意であった。これが実現されたら、斯学界に裨益するところが大きいに違いない。この貴重な作業をなんとかして仕遂げさせ、上梓にまで持って行ってあげたいものだと思った。しかし厖大なものになるらしくて、私の細腕ではこなせそうもない。が、なんとかならぬものかと、ひそかに思っていた。中谷さんは私の意中を察してか、「寺田(寅彦)先生に話して学士院あたりから補助金でも出してもらえるといいんですが」という。私は「お兄さん(宇吉郎氏)が先生の愛弟子なんだから、お兄さんから話してもらったらどうです」というと、「兄貴が弟の提灯を持つわけにはいかないでしょう。それより岡さんが行って下さいませんか」という。「本屋が出る幕ではないでしょう」とはいったが、どうしても活字にしておかねばならないものだと、思いつめていたせいであろうか、つい迷いが出て、うかうかと寺田先生をお訪ねしてしまった。が、不首尾に終わった。それくらいの見通しのできなかった恥ずかしさと、その時の惨めさを、いやというほど思い知らされたことを、今思い出しても不愉快になる。「よし学士院なんかの世話にはならん、俺一人でやってみせる」と力みかえって、中谷さんにその決意を告げた。氏は『日本石器時代文献目録』の序文で「岡書院の義侠的出版の申し出・・・」といっておられるが、そんな気の利いた威勢のいいものではなかった。惨めさを振り払おうとした憤りの挙句であったのである。私は腹に据えかねたので、渋沢敬三さんに会った時、この経緯を話したところ、渋沢さんも「よし、僕もその中谷という人に研究費の援助をして励ましてやろう。ただ俺の名を出しちゃいかんよ、君の名でやってくれよ」ということで、月々五十円を呈することになった。心苦しくはあったが、初めのうちは渋沢さんの名は秘匿していたが、二、三カ月経った頃、迂闊な私の失言から知られてしまった。氏はひどく感激し、序文で「・・・特に一面識もなかった渋沢敬三氏は、絶大の好意を示された。若し此の如き援助なくば、乏しい私は、事を挫折せしめなければならなかつたであらう」と述べている。氏は稿を了えて昭和四年七月パリに発ってしまったので、校正その他で手間どり、刊行したのは、氏の不在中昭和五年の秋となった。

文中で、岡氏が「寺田先生をお訪ねしてしまった」とありますが、事実、寅彦日記の昭和5年10月7日(火)に以下の記述があります。

朝岡書院主、岡茂樹氏来、中谷治宇次郎君の土器文献目録出版の事で話あり。

名前に誤記はありますが、確かに岡氏が出版に際して寅彦に相談した形跡が窺われます。

『日本石器時代文献目録』序文_ページ_2『日本石器時代文献目録』序文_ページ_1ここに登場した渋沢敬三という人物は、渋沢栄一の嫡孫で日銀総裁や大蔵大臣も務め、民俗学者としても知られます。(上の岡氏の著書には、渋沢氏との出会いについてもエッセイがあります。)岡氏が心魂を傾けた治宇二郎の『日本石器時代文献目録』は、残念ながら寅彦からは力添えを断られてしまいましたが、渋沢氏の援助によっていみじくも世に出されたわけです。この書は国会図書館デジタルコレクションでも読めますので、リンクを貼っておきます()。序文をみると、上の岡氏の文のとおりであることも確認できます。

さて、この『日本石器時代文献目録』の編集と同時進行で、宇吉郎の随筆でも取り上げられた名著『日本石器時代提要』の話が岡氏から持ち上がります。そのいきさつを下記に引用しておきます。

私は中谷さんの克明な学究態度、またその文才を知って、宿意の入門書の話を持ちかけてみた。氏は「前から先史考古学語彙というようなものを作りたいと思っていたのですが、その啓蒙書というか、入門書というか、そういうものに切り替えましょうか」と同調してもらえた。それからは、文献目録編纂の合間をとらえて、入門書の構成、記述法などの打ち合わせをしているうちに、だんだんお互いに興味が湧き、筆のたつ氏のことなので、いつとはなく草稿も進んで、昭和四年の春も過ぎる頃には、ほとんど書き上げてしまった。書名は私の提案で『日本石器時代提要』とすることにした。氏は「岡さんの発案であり、内容も岡さんの案を幾つも取り入れているのだから、共著にしましょう」といわれる。「とんでもない、それこそ世間の物笑いになる」といったが、聞き入れてもらえない。結局「それでは少なくとも、二人の了解がなければ、印刷できないということにしましょう」といわれ、とうとう奥付の版権所有欄に両人が捺印するという妙なことになった。もちろん私の印などは無視されて一向差し支えないものであった。果たして氏の没後、昭和十何年かに、梅原末治さんの発意であったであろうか、令兄宇吉郎氏によって、私の知らないうちに補訂再刊されていた。昭和三年に中谷さんと二人で抱いた企図が後年その価値を認められて、受け継がれるということになったわけで、私はいうに及ばず、中谷さんも泉下で喜んでおられることと思う。ただ本の性質上、手軽なハンドブックとして扱ってもらうようにと思い、本の型も装釘も、それにふさわしいものにしたつもりであったが、大きなどっしりした造本にかえられてしまったのは遺憾である。

『日本石器時代提要』奥付『日本石器時代提要』も、国会図書館デジタルコレクションで読めますのでリンクを貼っておきます()。上の文にある、奥付に両人の捺印があるのも認められますし、岡氏のいうとおりハンドブック型で出されていたことも確認できます。

この本が補訂再刊されたのは甲鳥書林という出版社からなのですが(甲鳥書林についてはこちらを)、岡氏は造本に不満足であったと上に書かれていますが、氏は本の“装幀”を“装釘”とあえて書くほど造本にはこだわりのある方だったと言いますので、その気持ちは致し方なかったのではないかと推察できます。

このように、治宇二郎の名著出版の経緯には、宇吉郎の随筆(『日本石器時代提要』のこと)に書かれた背景の前に、岡氏との長きにわたる信頼関係と出版への情熱があったことが上の文章からもよくわかります。

岡氏は、治宇二郎の本のほか、柳田国男の『雪国の春』の編集・発行や『広辞苑』の前身となる『辞苑』に新村出と取り組んだり、南方熊楠とも交流のあった方で、それらについてもこの『本屋風情』に印象深い筆致で綴られています。熊楠のことは小誌とも関係しますので、機会があれば紹介したいと思います。

治宇二郎の名著出版の背景もさることながら、岡氏の出版に対する姿勢は、同業に携わる者として学ぶべきことが多く、森銃三氏の以下の言葉のとおりだとつくづく感じ入りました。

たとい損はしても、失敗はしても、良書は世に送り出して、それが天下後世を益するものだったら、己の懐は肥えなくても、時にはために痛手を負うても、出版業者として立派に成功したのだ。そういう信念で仕事してくれる人が出て来てくれたら、いかばかりか頼もしいことだろう。
(中略)
たとい大きく儲けなくても、一つ一つ粒選りの書物を出して行こうと心懸ける、良心的な潔癖な出版業者を見たい。出して行く書物の一つ一つに依って自分の店の個性を造り上げて行こうとしているような業者を見たい。

(『書物』森銃三・柴田宵曲、岩波文庫より)

中谷治宇二郎と岡茂雄。出版不況といわれる今の時代にこそ、語り継ぐべき金玉の逸話だと思います。

 

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