科学随筆の方法――論理とレトリック
第25号からいよいよ新連載「科学随筆U30」が始まりました。本企画を始めるにあたり、「思想化する喜び、創作の歓喜――科学随筆と科学研究」という案内を書きましたが、これの続編として、本稿では今回第1回目として掲載された“すぎおとひつじ”氏のエッセイなどを通して、より具体的に科学随筆・科学エッセイを執筆するための方法論を考えてみたいと思います。
○科学随想のための基本的論理
同号では内田麻理香先生に、ロゲルギストを例に放談を通した科学エッセイへの展開や、それに必要な論理学による思考例についても解説していただきました。ここではこの論理学について着目し、それを執筆にどのように活かすかを考えてみます。
まず、内田先生は解説において論理学で代表的な「演繹」と「帰納」を挙げ、それらを論考を進めるための代表的な推論として示されています。実際に挙げられた例を補足も加えて下記すると、
(演繹論理)
全ての人間は哺乳類である、ソクラテスは人間である(前提)、
よってソクラテスは哺乳類である(結論)。(帰納論理)
カラス1は黒かった、
カラス2は黒かった、
……
カラスNは黒かった、
すべてのカラスは黒い。
といったように、「演繹」はよく見られる三段論法で、「帰納」は自然の斉一性をそれぞれ利用した形になっていることがわかります。
意識的であれ無意識的であれ、多くのエッセイストは思考を深めていく際に、こうした論理学の方法を用いて推理しながら論考しているはすです。うまいエッセイ、面白い随筆にはこの論理がしっかり組み込まれています。そのことを見るために、ここからもう一つ、最も重要といってよい論理――アブダクション(abduction)――を見てみましょう。ここでの話は、米盛裕二著『アブダクション―仮説と発見の論理』(勁草書房、2007年)から部分的に抽出・要約していますので、ご興味のある方は全体をぜひ読んでみてください。科学研究をなさる方は読んでいて損はないと思います。また、本稿でこのアブダクションを重要な論理として紹介する理由にはもう一つの背景があり、それは言語に関することなのですが話が長くなりますので別途説明を設けます。ここでは、その前段の意味でもアブダクションについて紹介させていただきます。
○アブダクション:発見の論理学――遠くへ誘う創造性
「アブダクション」は、アメリカの論理哲学者でプラグマティストとして知られるチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839―1914)によって提唱された推論形式です。パースのこの理論を見ていくと、科学の諸観念の多くがアブダクションによってもたらされたと言っても過言ではありません。むしろアブダクションこそ科学の諸概念や理論を生み出す論理的操作であるとも言えます。その仕組みは簡易的に表すと以下のように書けます。
「驚くべき意外な事実」を観察する(気づく)、
もし「ある仮説」が正しいならば、この「驚くべき意外な事実」は当然の事柄だろう、
よって、「ある仮説」が正しいと考えるべき理由が挙げられるはずである。
万有引力を発見したニュートンは「我れ仮説を作らず」と言ったことで有名ですが、実はこのアブダクションによる推論を通して「仮説」を作っていたことがわかります。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を考えついたという逸話がありますが、この逸話を信頼するならば、ニュートンが「リンゴはなぜいつも垂直に落ちるのか、なぜ地球の中心に向かって落ちるのか」と考えた問いは、まさに上の例でいう「驚くべき意外な事実」にあたります。この事実を説明するためにニュートンが考え出した「仮説」が「あらゆる物体間に働く引力」です。リンゴが落下するという意外な事実への「驚き」と「問いかけ」がなければ、ニュートンの思索と探究は始まらなかったのです。
このように、自然からどのような真理を引き出すことができるかは、問いかけ方いかん、仮説の立て方いかんにより、ひいては優れた洞察力と想像力が必要であることがわかります。しかも、この想像力・洞察力は経験を積むこととは無関係であるとパースは言っています。強いて必要とするなら、このアブダクションによる推論技術に熟練することだと言えるでしょう。
一方で、この「アブダクション」は仮説を推測的に言明するにすぎないため、間違う可能性が高く、論証力の弱いタイプの推論とも言われます。ゆえに、考え出した仮説を試行錯誤的に熟慮し、常に自己修正的でなくてはなりません。これはプラグマティズムにおける“可謬性”に通じるものです。ゆえに創造的なアブダクションには推論のステップに大きな「飛躍」(leap, jump)がなければならず、この「飛躍」が大きければ大きいほど、最初に気づいた「驚くべき意外な観察事実」からの推論が“拡張された”と言えます。
ここで一度まとめると、上で挙げた「演繹」による推論は「分析的推論」として、「帰納」と「アブダクション」による推論は「拡張的推論」として、それぞれ一般的に分類することができます。上の「演繹」の例でわかるとおり、この推論では(前提)の中に(結論)がすでに含意されていることが見てとれます。つまり「分析的推論」では前提以上の知識はなく、それ以上の拡張もなされません。それに対し「帰納」の例では、部分から全体に、既知から未知に、特殊から一般に、知識の拡張がなされていることが分かります。それゆえに「拡張的推論」はその性質上、蓋然的(確率的)にならざるを得ず、修正も必要となります。「アブダクション」も上で見たとおり、その創造性には「飛躍」が必要ですから同様のことが言えます。
では次に、「拡張的推論」として分類された「帰納」と「アブダクション」はどう違うのかを見てみましょう。まず両者をもう一度端的に言い表すならば、「帰納」は観察事実に基づいて一般化を行う推論で、「アブダクション」は観察事実を説明するための仮説を形成する推論です。両者はともに形式論理の規則に反しているのが共通点ですが、両者の大きな違いは、「帰納」は事例の中に観察したものと類似の存在を推論(類推)するのに対し、「アブダクション」は観察(経験)した事実を超えた何ものかを仮定する、という点にあります。実際の物理学の歴史では両者の混合がよく散見されます。上のニュートンの例でも、観察の限界をはるかに超えて「帰納」を広げていくと、推論は「飛躍した仮説」の性格を帯びるようになることが分かります。「仮説」は「帰納」から導かれるものではなく、何らかの拡張された形で「飛躍」されなければならないと言えます。(例えば、湯川秀樹はこのようなアブダクションによる推論を「アイデンティフィケーション(identification)」として「同定理論」などと呼んでいます(→)。湯川先生がアブダクション自体をご存知だったかは不明です。)
ここまで見てくると、科学随筆・科学エッセイではどんな例が思い浮かぶでしょうか。例えば、寺田寅彦の子ども向け名作「茶碗の湯」は「帰納」による「類推」をふんだんに駆使しており、もう一つの名作「藤の実」は実際の物理研究として結実した作品であるだけに、「アブダクション」と「帰納」の混合が見られることが分かります。このことは後段で具体的なレトリックも例に見ていこうと思います。
以上のように、「アブダクション」は科学研究だけでなくエッセイを書き進める際の思考に大変有用であることがわかりますし、むしろエッセイをより創造的にするためには不可欠の方法であることが理解いただけたかと思います。パースはこの「アブダクション」が従うべき基準として、以下の4つの条件を仮説選択の要素に挙げています。
1. もっともらしさ
2. 検証可能性
3. 単純性
4. 経済性
そして、この4つの条件を満たした仮説は、以下の4種類に大きく分けることができると言います。
1. 観察可能な事実の発見に関する仮説(海王星の発見など)
2. 観察不可能な事実の発見に関する仮説(魚の化石や地球形成、歴史検証など)
3. 法則の発見に関する仮説(ボイルの法則など)
4. 観察不可能で純粋に理論的な対象に関する仮説(万有引力、気体運動論など)
パースはしばしば、「アブダクション」を「リトロダクション(retroduction)」(遡及推論)と呼んでいるのですが、その理由を少し説明しておきます。上の「アブダクション」の説明文の中で、「驚くべき意外な事実」とした箇所は因果関係でいえば「結果」です。その「結果」に対し、「原因」となる「ある仮説」を上の4つの条件を下に暫定的に採択することで、それが「正しいと考えるべき理由」を「遡りながら」、原因と考えられる説明仮説へと「帰納的」に推論していきます。そのため遡及推論(リトロダクション)と言われます。
科学エッセイで言えば、話の軸となるテーマには何らかの事実や現象(結果)が示されており、その原因となる仮説(「…と思われる」背景)がいかに正当でもっともらしいかが、様々な例を通して説明・展開される、といったタイプが多いことを見てもその遡及性がわかります。
さて、アブダクションの説明はここまでとして、いよいよ実際の随筆・エッセイを通してその例を見てみましょう。
○科学随筆・科学エッセイにおけるアブダクション
まずは第25号に掲載された「科学随筆U30」第1回目のすぎおとひつじ著「ワイヤロープの振動と林業」から。このエッセイにおけるアブダクションのポイントは、林業関係者には当り前な一例であるワイヤロープの振動波法を通して推論を学問全体へ拡張した点にあります。具体的に書くと、以下の部分が「知られざる意外な事実」に相当します。
伐ったからには山から木を運び出さねばならない。……直径22ミリのワイヤロープが、こちらの山からあちらの山へ張り渡されている。ここで伐った材はその架線まで集めてきては吊り上げられて、線伝いに山から山へ移動して、あちらの山の広い道の端へ下ろされる。
材の重さに鋼索が耐えるように、あまりにも索が垂れ下がることがないように、何より作業者の安全のために、先人たちが求めた計算式をもって設計されている。
これに対し著者は、物理学における振動波法という計測技術を通してロープの索張力を計算するという事例を詳しく紹介し、その理由によってある一つの仮説的見解を以下のように述べます。
学問というものは、一つの分野が他の分野から全く断絶しているということは無いのだから、「生物」系の林学にも他の様々な系統の学問が、土中に広がる根のように細やかに入り組んでいる。
ここで、学問の関係し合う様を「木の根」の喩えを用いて表現している点も、レトリックとして味わうべき表現になっています(この文の直後で著者は、「物理学の根」が森林工学にいかに身近に張り巡らされているかを同様な比喩表現で示しています)。
エッセイ全体としてみると、何より書き出しが山林世界への鳥瞰図を思わせるパノラマ的な内容になっており、その後段には、
幼い木々が育ち、この森が再び収穫されるのはざっと四十年は先の話だ。下の土讃線では秒分刻みで物事が動いているが、ここでは随分と時間の感覚が違う。
と、ここで時間感覚への意外なギャップが語られます。この書き出しはエッセイの結び
収穫を待つ老齢の木の中には、彼らの奮闘してきた時が層となって静かに刻み込まれている。
という文章と照応していることが分かります。こうした書き出しと結びが照応するタイプは芥川龍之介の作品などでもよく見られる手法で、全体が整然とし脈絡の通るような印象を与えます。講評者の一人である細川光洋先生は、この書き出しを夏目漱石「京に着ける夕」などを思わせると評していますが、担当編集者には島崎藤村『夜明け前』の冒頭に近い、スケールの雄大な印象も受けました。
では次に、上で言及した寺田寅彦「藤の実」を例にアブダクションを見てみましょう。まず冒頭から読まずにはいられない書き出しになっています。
昭和七年十二月十三日の夕方帰宅して、居間の机の前へ座ると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。
「何か座右の障子にぶつかったものがある。」と繰り出されれば、読者はつられて次の文を読みます。更にそこからこのエッセイの「驚くべき意外な事実」が次々と書かれていきます。その事実とは
- 庭の藤棚の藤豆がはねてその実の一つが飛んで来た
- 午後一時過ぎから四時過ぎ頃迄の間に頻繁にはじけ
- 庭の藤も台所の前のも両方申し合わせたように盛んにはじけた
- 此の日に限って、こう迄目立って沢山に一せいにはじけた
- 此れ程猛烈な勢いで豆を飛ばせるというのは驚くべきこと
- あの一見枯死しているような豆の鞘の中に、それ程の大きな原動力が潜んで居ようとは一寸予想しないこと
- 此の藤豆のはじける機巧を研究して見ると、実に驚くべき事実が続々と発見される
以上のように、それまで気づかなかった「驚くべき意外な事実」が示された後、寅彦先生の仮説が後段で提示されます。
植物界の現象にも矢張一種の「潮時」とでも云ったようなもののあること…
そうして藤の実の一斉爆発をきっかけに、様々な現象の「潮時」へと拡張的推論が進められます。挙げられた経験的事例は以下のものになります。このように具体的な例を挙げて実感をより強く伝えるレトリックを挙例法と言い、帰納推理では最も使いやすい手法です。
- 椿の花の落花と地震群の生起
- 銀杏の葉の落ち方(一斉落葉)
- 子供が階段から落ちて怪我をし、他の子供もデパートでハンドバッグを掏摸(すら)れ、電車の停留場でトラックに荷物を引っ掛けられて上衣に鍵裂(かぎさき)をこしらえ、同じ日に女中が電車の中へ大事の包みを置き忘れて来た
- 年末のインフルエンザの流行る時期に名士の訃音も頻繁に報ぜられる
- 四五月頃に全国的に同時に山火事が突発するとき、顕著な気圧の不連続線が日本全体を通過する場合がある
これらの経験事実を通して、上で提起した仮説が次のように異なった表現で改めて言い換えられます。最初の文には否定表現がふんだんに使われており、いかに論を強調したいかが分かります。
此れが偶然であると云えば、銀杏の落葉もやはり偶然であり、藤豆のはじけるのも偶然であるのかも知れない。又此等が偶然でないとすれば、前記の人事も全くの偶然ではないかも知れないと思われる。
「日が悪い」という漠然とした「説明」が、この場合には立派に科学的の言葉で置換えられるのである。
そして、結びでは更に「潮時」の仮説が次のような否定表現を交えた逆説のレトリックで表現され、現実には未解明な常識を逆なでするように全体像を明るみに出します。
…「悪日」や「さんりんぼう」も、現在の科学から見れば、単なる迷信であっても、未来の何時かの科学ではそれが立派に「説明」されることにならないとも限らない。
これでエッセイが閉じられたように思わせて、最後にもう一文、否定表現を交えつつ
少なくもそうはならないという証明も今のところ中々六(むつ)かしいようである。
と添えられて、フワリと余韻をもって結ばれています。このような余韻のある結び方は師の漱石先生の随筆「硝子戸の中」などにも見られます。
ここまで全体を見てきて気になったレトリックを最後に挙げておきます。銀杏の落葉の段落で使われた比喩表現
丸で申合わせたように濃密な黄金色の雪を降らせるのであった。
何だか少し物凄いような気持ちがした。何かしら眼に見えぬ怪物が樹々を揺さぶりでもして居るか、或いは何処かでスウィッチを切って電磁石から鉄製の黄葉を一斉に落下させたとでもいったような感じがするのであった。
前者の文では「黄金色の雪」という隠喩表現を使っており、後者では最初の文と次の文の関係をみるとある種の倒置的表現にもなっていて、これだけでも印象深く訴える効果があるところへ更に、「眼に見えぬ怪物が…」と直喩表現をはさむことで読者を感覚的にも納得させます。その直後の段落では、「想像もつかない」「面白いことにならないとも限らない」といったように否定表現が使われていて、論展開を強調していることが伝わってきます。全体を通しても、「申合わせたように」という比喩表現が所々で使われており、「潮時」の仮説を感覚的にも伝えようとする意図が感じられます。
ここで例示した寅彦先生もすぎおとひつじ氏も、本人たちは書き進める上でアブダクションという論理学の言葉も、それに付随するレトリックも知らなかったかもしれません。むしろ多くのエッセイストがこのような背景を知らずに無意識裡にアブダクトし、自ずと身についた筆法を開陳している場合も多いと思います。優れた科学者にも、上のニュートンの例のごとく、その研究において同様な背景が見られるはずです。
○日常に潜む「意外な事実」を見つけよう
ここまで見てきたように、読み応えのある随筆、うまいエッセイには必ずといってよいほど「アブダクション」が使われており、こうした「論理の飛躍」をするためには身近な事(研究や学問、生活)の中に「意外と思われる事実」(モヤモヤは一つの鍵)を探し出し、そうなるための「もっともらしく」て「検証可能」で「シンプル」な「仮説」を立てることが理想ということになります。作中のどこで事実を提起し、仮説を繰り出すか、それらの言い換えなども何度行うか、それは書き手の筆さばき(レトリック)次第で読者に与える印象や効果は縦横無尽に変わります。そこが「文」の「芸」としての妙趣と言えます。
上では科学研究や科学随筆の例を挙げましたが、例えば松尾芭蕉などの俳人を見ても、その多くの名句にアブダクションが見られることがわかります。当然ながら芸術や他の文芸の世界も同様です。
こと科学随筆・科学エッセイを書く上で何を題材に選んでよいか分からないと思う方にお勧めしたいのは、第25号で内田先生が紹介されたロゲルギストによる『物理の散歩道』シリーズです。ロゲルギストが遺した多くの放談による論考は、再検証も兼ねつつ「文」の「芸」としてのエッセイに磨き上げることも可能と思われます。昨年(2023年)岩波文庫で刊行された『精選 物理の散歩道』は精選だけに選りすぐりの題材が論じられており、まえがきではC氏こと近角聡信先生によるテーマの分類もなされていて参考になります(この分類を見ていただければ上のアブダクションとの関係は一目瞭然です)。他には、かきもち著『これってどうなの? 日常と科学の間にあるモヤモヤを解消する本』(翔泳社、2021年)も題材探しに充実したネタが満載です。
本来、アブダクト(abduct)の意味は「誘拐する」ですが、 ab(away)+ duct(to lead)の語義のとおり、人を「遠くへ誘い」ます。読者を思わぬ遠い思索の世界へと連れ出し旅をさせるエッセイの醍醐味。優れた科学エッセイ・科学随筆も同様に読者をそのような世界に誘うことは上で見たとおりです。以上のような論理とレトリックを参考に、「科学随筆U30」にぜひ挑戦していただけましたら幸いです。字数やテーマ、内容など随時相談にも応じます。ご投稿をお待ちしております。
※ 本稿で紹介したパースに関連して他の文献も案内しておきます。ナンシー・スタンリック著・藤井翔太訳『アメリカ哲学入門』(勁草書房、2023年)(この書の参考文献と訳注にある訳書類もすべて含む)。訳者の藤井翔太先生が本書の案内・解説で出演された下記のラジオ番組(BOOK READING CLUB)もぜひお聴きください。