科学随想の歴史を伝承し、文理の壁を取り払う

思想化する喜び、創作の歓喜――科学随筆と科学研究

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思想化する喜び、創作の歓喜――科学随筆と科学研究

第24号で創刊から続いていた連載「随筆遺産発掘」が終了し、次号から新たな後継として、「科学随筆U30」と題する20代以下限定の随筆・エッセイの掲載枠を設けることになりました。企画趣意など詳細は案内のページをお読みいただくとして、本稿では、じゃあ科学随筆や科学エッセイって何なんだ? それを書くことと科学研究をすることと何か関係があるのか? といった素朴な疑問について考えてみたいと思います。

折しも、『文學界』2023年9月号で「エッセイが読みたい」という特集が組まれ、エッセイについてのエッセイのほか、論考やルポなど総勢27名の執筆者によって、その魅力と奥深さが縦横無尽に展開されました。科学随筆の類いはありませんでしたが、論考の中で、宮崎智之氏による「定義を拒み、内部に開け──エッセイという「文」の「芸」」というタイトルで、科学随筆も含めた「エッセイ・随筆」のジャンルとしての文学史上での扱いや定義が詳しく論じられました。小説との違いや「自照文学」(自己を定義しないかたちで自己を照らす文学)という概念が紹介されるなど、この論考自体が「文」の「芸」として胸のすくような論旨で見事に筆が運ばれています。とりわけ重要視したいのは、文学史における同人誌についての以下の文章です。

あらためて指摘するまでもなく、『新版国語総覧』などの学校で使われる教材を読んでもわかることだが、日本文学史の中で同人誌は大きな役割を果たし、そこから新しい書き手が登場している歴史がある。多種多様な同人誌が、多種多様な挑戦をしてきた。「有名でもない人の日常や思考したことなど誰が読むのだろうか」という意見はその歴史を無視したものであって、エッセイのジャンル特有の「文」の「芸」について考えたことのない者のものだ。

小誌での上記企画の取組みは、まさにこの宮崎氏の言葉を裏書きするもので、企画趣意で紹介した江沢洋先生の「若い人たちにも書く場を与えてほしい」という言葉も同じように重なります。宮崎氏はこの特集に関する座談会(書店UNITÉで開催)でも、書く場をつくることの重要性について言及しており、例えばサッカーや野球の日本代表のレベルが年々上がってきているように、環境(シーン)をつくっていくことがその分野の成長にも繋がることを力説されています。他にも、この『文學界』特集の柿内正午氏による論考「エッセイという演技」では、日記などの記録に見られる書き手の内面と告白について、その虚実性を深く分析して語られており、創作と随筆の境界を考えさせる重要な問題提起となっています。

そして、書く場をつくることの大切さは文学だけでなく、実は出版文化も高めることを、文芸評論家の高橋英夫氏は雑誌『図書』を例に以下のように指摘しています。

 現在でもそうなっているが、「図書」の第一ページは、上の三分の二が短いコラム欄、下の三分の一が目次である。コラムには「読む人・書く人・作る人」と表題がついている。
(中略)
 出版が成り立つためには三種類の人間がいなければならないのだ。「読む人」、つまり読者。「書く人」、つまり筆者や著者。そして忘れてならないのが「作る人」、つまり編集者、エディター。常識としてそのことは誰もが知っている。それは分り切っている、と感じられているだろう。しかし、そのために、うっかり「三者」という意識・認識が手放されてしまったり、稀薄になったりしてはこなかっただろうか。
(中略)
三者の協力・緊張関係が出版を高めてゆく――「図書」はそれを理想として、夢として掲げた雑誌だった。

(『エッセイの贈りもの 1』「解説」より)

では、高橋氏のこの文章と上の宮崎氏の文章を踏まえた上で、改めて「随筆・エッセイを書くことの意義」について考えてみます。つまり、「書く人」の立場での視点です。とくに本企画のような、20代以下の若者に限定して「科学随筆・エッセイを書くことの意義」を考えた場合、そこに何が言えるのか、「企画趣意」での江沢先生の文中に登場した寺田寅彦の例を見てみましょう。寺田寅彦の「科学と文学」の「緒言」に、ちょうど若い時代に文章を書いた思い出が書かれていますので以下に引用します。

 大学を卒業して大学院に入り、そうして自分の研究題目についていわゆるオリジナル・リサーチを始めて本当の科学生活に入りはじめた頃に、偶然な機会でまた同時に文学的創作の初歩のようなものを体験するような廻り合わせになった。その頃の自分の心持を今振返って考えてみると、実に充実した生命の喜びに浸っていたような気がする。一方で家庭的には当時色々な不幸(注:最初の妻 夏子との死別)があったりして、心を痛め労することも決して少なくはなかったにかかわらず、少なくも自分の中にはそういうこととは係り合いのない別の世界があって、その世界のみが自分の第一義的な世界であり、そうして生き甲斐のある唯一の世界であるように思われたものらしい。その世界では「作り出す」「生み出す」ということだけが意義があり、それが唯一の生きて行く道であるように見えた。そうして、日々何かしら少しでも「作る」か「生む」かしない日は空費されたもののように思われたのである。もちろん若い頃には免れ難い卑近な名誉心や功名心も多分に随伴していたことに疑いはないが、その外に全く純粋な「創作の歓喜」が生理的にはあまり強くもない身体を緊張させていたように思われる。全くその頃の自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。

後半を読めばわかるとおり、書くこと・創作することと科学研究が「一つの道」であったと述懐されています。実はこのことを理解できなかった当時の東京帝大物理学科の関係者らがある非難をしたのですが()、科学研究と文芸活動が「一つの道」であり「創作の歓喜」に結びつくなど、確かに想像しにくいことかもしれません。このヒントとして、寅彦先生が挙げている「観察分析発見」という言葉がキーワードになるはずです。よく知られているように、このキーワードは科学探求の道のりを最も簡素に表現した言葉であり、文筆(とくに写生文)の上でもその視点は若かりし20代の寅彦先生にとって欠かせないものだったわけですが、その後進でもあるロゲルギスト・グループ()にとっても同様でした。

ロゲルギストが寅彦先生と異なった点は、グループの“雑談”を通して出てきたテーマを、メンバーがそれぞれ担当を決めて随筆を書いていくという、まさに談論風発を基にした科学随筆・科学エッセイだったことです。しかもその発想は、雑談をベースにしていることからもダイアローグ的で、多元的かつ複眼的でもあり、読者に不思議な刺激を与えるものでした。彼らの多くの随筆・エッセイは「観察・分析・綜合・発見」という「研究的思索」の道をたどっていた点で、寅彦先生と同様だったと思います。

そして何より寅彦先生やロゲルギストの文章から学ぶことができるのは、ものの見方や視点が豊かであることに加えて、言葉を通して思考実験ができるということです。寅彦先生は上で挙げた「科学と文学」において、観察・分析・綜合の能力がない限りそうした思考実験は失敗に終わるとして、「あらゆる種類の文学の諸相は皆それぞれ異なる形における実験だと見られなくはない」とも書いています。その観点では、上で紹介した柿内正午氏の論考は虚(虚構)と実(現実)を考える動機づけとして参考になるかと思います。

ここまでの話を読まれて、エッセイと随筆の違いについて疑問をもたれた方も多いかと思いますので、最後にそのことも含めて「書くことと思考することの関係性」を紹介しておきます。上のロゲルギスト・グループと交流のあった英文学者の外山滋比古氏は、ベストセラーともなった著書『思考の整理学』の末尾で以下のようにエッセイを書くことの意義を述べておられます。少し長くなりますが、文筆をする上で明快な指針になりますので引用しておきます。外山氏は、「思われる」(It seems to me)と「考える」(I think)の微妙な差異を、科学論文や欧米人の心理を引き合いに考察しながら以下のように導き、書くことの意義へと読者を誘っています。

 ものを考えるには、I thinkという考え方とIt seems to meという考え方の二つがあることになる。日本人は後者の考え方をすることが多い。しかし、このことば、なにも日本人に限ったことではない。たいていの思考ははじめから明確な姿をもってあらわれるとは限らない。ぼんやり、断片的に、はにかみながら顏をのぞかせる。それがとらえられ、ある程度はっきりした輪郭ができたところで、It seems to meになる。
 それに対して、I thinkの形をとる思考はすでに相当はっきりした形をとっており、結末の見通しも立っている。完結した思考の叙述である。
(中略)
「と思われる」という思考はいわば幾重にも衣服につつまれている。外側はやさしいが本体はどういうものであるかは、「と思われる」としている当人にとってもはっきりしていない。
 その着物を一枚一枚脱がせていくのが、I think本来の思考である。これをすることは日本人のように心情的思考を好む人間にはとくにたいへんなことである。読書によって自分の感じていることとは異種の思考に触れているうちに、自分の考えが洗い出されるという他発的方法もありうる。
 それとは別に、書くことで、自分の考えを押しすすめる、書くことは考えることである、とのべている人のいることも注目される。漠然としていたことが書く過程においてはっきりする。「思われる」ことの外装がはがされて中核に迫っていくことができる。
「ものを書くのは人間を厳密にする」とのべている人もある。こういう書くことと考えることの並行説をのべているのが多くエッセイストであるのはおもしろい。エッセイストは「と思われる」ことがらを「思想」化する道程に喜びを発見するのである。
 エッセイは思想がまだ衣服をまとった状態で提示されている。いかにも身近に感じられるのはそのためである。エッセイに試論、つまりかなりはっきりした思考をのべた文章と、随筆、すなわち、まだ明確な思考の形をとらない想念を綴ったものとの二つの意味があるのは、「と思われる」ことを、そのままに近い形で表現するか、もうすこしまとまりをつけた“論”にして表現するかの差である。
 I thinkのエッセイが試論であるとするなら、It seems to meのエッセイは随筆、随想ということになる。いずれにしてもエッセイストはもっとも身近なところで思考の整理をしているのである。何か考えたら書いてみる。その過程において考えたことがIt seems to meから、すこしずつI thinkへ向っていく。われわれはだれでも、こういう意味でのエッセイストになることができる。
 思考の整理学はめいめいがこういうエッセイストになることで成果をあげるはずである。

(『思考の整理学』、「思われる」と「考える」――文庫本のあとがきにかえて――より)

ここまで来れば、もはや科学研究と科学随筆が無関係であるとは思わないでしょう。そして、20代で寅彦先生が味わった感動が少し身近に感じられませんか。日夜とり組んでいる研究対象でも、日常の身近な現象や出来事でもいい。自身が関わる学問体系についてでもいい。朧気なIt seems to meでも、明確なI thinkでもいい。これを読まれた20代の科学関係者の皆様が、「書くこと」と「考えること」を通して、観察・分析・綜合・発見を経て思想化する喜び、創作する歓喜を味わってもらうことを切に願い、「科学随筆U30」企画へのご投稿をお待ちしております。

 

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